ウクライナのある黒海北岸地域を俯瞰する回、第3回はロシア革命からソ連の崩壊、ウクライナの独立と現在までです。
写真は断りがない限りウィキメディアコモンズパブリックドメインのものです。参考文献はその1を見てください。
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ぶんぶんは歴史でご飯を食べるものの末席なので、「戦争はマイナスしか生まない、人類は戦争をしない・させないために行動すべき」というスタンスです。
目次
1 ウクライナの地図
フリー白地図さんより
5 20世紀のウクライナ
① 第一革命
1905年 (30 )事件
ウクライナ各地で労働者のソヴィエト(ラーダ)結成
[31 ]首相、自治要求を弾圧
② ロシア革命
1917年 二月(三月)革命
ウクライナ議会(中央ラーダ)、臨時政府に自治を要求も拒否される
十月(十一月)革命
中央ラーダ、ボリシェヴィキと協力して臨時政府勢力を追放
ウクライナ=ソヴィエト共和国が独立宣言 ボリシェヴィキがキエフ占領
1918年 (32 )条約
これ以前に中央ラーダはドイツなど同盟国と講和
→ヘトマンの子孫を傀儡に「ウクライナ国」を樹立
西部戦線敗北とドイツ革命で撤退
ソヴィエト政権の(33 )主義 過酷な食糧徴発
ガリツィアで西ウクライナ人民共和国樹立もポーランドに敗北
1919~21 (34 )戦争
③ ソヴィエト連邦
1922年12月 ソヴィエト社会主義共和国連邦
1930年代にスターリンの(35 ) ロシア化進行 ウクライナ正教禁止
1928年 (36 )計画
農業の集団化、クラーク(富農)追放、穀物の強制徴発
農産物の強制徴発による人工的飢餓(ホロドモール 1933年)
1939年 ドイツの(37 )侵攻 第二次世界大戦開始
1941年 (38 )戦開始 ドイツ、全ウクライナを占領
→食料徴発、労働者として強制連行、ユダヤ人の殺害
ソ連、クリミア・タタール人、ドイツ人などを中央アジアに強制移住
クリミア自治共和国の廃止
空欄
30血の日曜日
31ストルイピン
32ブレスト=リトフスク
33戦時共産
34ソヴィエト=ポーランド
35第一次五カ年
36粛清
37ポーランド
38独ソ
39パルチザン
補足
① ウクライナと1905年革命
ペテルブルクで血の日曜日事件が発生すると、ウクライナではハリコフ、キエフ、オデッサなどで労働者がストライキに突入、マリウポリなどでも労働者のソヴィエト(ラーダ)が形成されました。
オデッサ港では戦艦ポチョムキン号で兵士が反乱、セヴァストポリでも反乱が発生しました。ドニエプル川右岸で発生した農民暴動は1907年まで続きました。
*『戦艦ポチョムキン』(1925年 セルゲイ・エイゼンシュテイン)は、モンタージュ理論を確立した作品として知られます。第1次ロシア革命20周年記念として製作されたので、階段での虐殺など史実と異なる部分もあるそうです。監督は1948年に亡くなっているため、日本ではこの映画はパブリックドメインにあたります。
政府は1905年10月に「十月宣言」を発し、国会(ドゥーマ)の開設、言論や結社の自由などを約束して革命運動の鎮静化を図ろうとしました。
ウクライナからも議員が選出され、第二国会ではウクライナ人議員による院内会派が形成され、ウクライナの自治とウクライナ語使用の自由化を要求しました。
しかし革命が退潮に向かうと再びウクライナの民族運動は抑圧されました。
この時首相に就任したのがストルイピンです。
彼は強権的な手法で革命を弾圧しますが(絞首刑は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれた)、彼は多数派のロシア人を中心に、自作農の創設や地方自治の改革などツァーリ独裁の元での帝国の再建を目指していました。
しかし彼はニコライ2世とキエフで観劇中に銃撃され死亡、改革は頓挫しました。
ストルイピンはソ連時代には否定的な政治家の代表とされていましたが、ソ連崩壊後は見直しが進んでいます。プーチン大統領にとってストルイピンのロシア人中心主義や独裁による近代化はまさに自分のやりたいことで、演説でもたびたび彼を引き合いに出しています。
参考
ピックアップ@アジア 「見直されるロシア帝国とプーチンの描く未来」
2013年03月28日 (木) NHK解説委員室(現在はウェブアーカイブで閲覧可能)
https://web.archive.org/web/20131214202008/http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/450/150793.html
② ウクライナと1917年革命
二月革命が発生すると中央ラーダはウクライナの「ウクライナ化」を目指し、自治要求をまとめて首都に代表団を派遣しましたが、臨時政府は要求を拒否しました。
十月革命が発生するとキエフで臨時政府側(軍管区司令部)とウクライナ・ボリシェヴィキが衝突、中央ラーダはボリシェヴィキに味方して軍管区司令部を市から追放し、「ウクライナ人民共和国」の創設を宣言しました。
これに対してウクライナ・ボリシェヴィキはハリコフで「ウクライナ・ソヴィエト政府」を形成し、両者の対決は不可避になりました。
12月に約三万人のソヴィエト赤軍がウクライナに入り、1918年1月初めにキエフに総攻撃をかけます。激しい戦闘の結果ソヴィエト赤軍は旧暦1月28日にキエフを占領、街頭でウクライナ人を無差別に逮捕、処刑しました。
こうした横暴はウクライナの反ボリシェヴィキ感情につながります。
一方中央ラーダ(ウクライナ人民共和国)は1月27日(新暦2月9日)にドイツなど同盟国と講和条約を結びます。ブレスト=リトフスク条約(3月3日)の一ヶ月前です。
この講和でドイツやオーストリアはウクライナの独立を認める代わり、ウクライナから穀物の供給を約束されました。ドイツ軍とオーストリア軍はウクライナに侵攻し、3月1日にはキエフに入城しました。キエフ陥落からわずか二週間後のことです。
しかしドイツ軍がラーダ政府を無視して大土地所有者と結んで農民から穀物を挑発しようとしたのでラーダと対立、ドイツ軍はヘトマンの末裔で大地主のスコロパツキーにクーデタを起こさせ、中央ラーダの閣僚を追放します。
皇帝、国王の末裔を傀儡に据えるのは満州国やベトナム国と同じです。
しかし地主のヘトマン傀儡国家は「農民に土地を」と逆コースです。ドイツ・オーストリア軍の食糧徴発に対して農民たちが武装蜂起をおこし、双方が多数の死者を出しました。さらに西部戦線での敗北、ドイツ革命の勃発でドイツとオーストリアはウクライナから撤退し、スコロパツキーもドイツに逃亡しました。
この後キエフには中央ラーダの流れをくむペトリューラら民族派が政権をたてますが(ディレクトーリア政府)、白軍、ボリシェヴィキ(ソヴィエト赤軍)、農民の四者の内戦となりました。
ボリシェヴィキが1919年にキエフに政権を樹立しますが、土地の国有化と農業の集団化を行なおうとしたので農民が反発、戦乱と過剰な穀物徴発によって1920年から21年にかけて大規模な飢饉が発生し、100万人以上が亡くなりました。
ガリツィアではオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊を受けてリヴィウを中心とする「西ウクライナ人民共和国」が成立しますが、ポーランドに圧迫されます。政府はディレクトーリア政府の援助を期待しますが、彼らも援軍を差し向ける余裕はなく、むしろポーランドとの連携を探っていました。
結局両者は各個撃破されて統一ウクライナは実現せず、東側はソヴィエト連邦の共和国のひとつとなり、ガリツィアはソヴィエト=ポーランド戦争の結果ポーランド支配が確定し、一部地域はルーマニアとチェコスロヴァキアに編入されました。
③ ホロドモール 人工的な飢饉
ウクライナ・ボリシェヴィキ(共産党)は都市のロシア人やユダヤ人が多数派で、ウクライナ民族主義を嫌いロシアへの統合を求めました。一方農民は十月革命のときのボリシェヴィキの横暴もあって土地の国有化や農業の集団化には反対でした。
1921年にネップが始まるとウクライナの耕地面積や農業生産性は回復しました。また共産党は農民の支持を得るために政府職員へのウクライナ人の登用やウクライナ語の奨励など「ウクライナ化」をすすめました。
ロシア革命は都市の労働者による革命で、彼らは農村の穀物に依存しています。また「重工業のユートピア」を建設するには都市への安価な食糧供給と、工業化の元手である外貨を獲得する手段として農村の穀物は不可欠です。
生産手段の国有化・公有化を理想とする共産主義と、農地の所有を求める農民は根源的な部分で相容れません。レーニンやスターリンからすれば農民は共産主義の理想を理解しない「抵抗勢力」です。
1928年からの第一次五か年計画における農業の集団化は、共産党が農民を屈服させる政治的な意味もあり(背後には革命家の農民への差別意識)、そのため必要以上の食糧が徴発され、抵抗する農民をクラークと決めつけシベリアに送りました。
この結果ウクライナでは1932年から翌年にかけて大規模な飢饉が発生しました。当時は世界恐慌の真っただ中、ソ連は社会主義の正しさを宣伝するため飢饉の事実を隠して海外からの援助を断る一方、外貨獲得のために穀物を輸出し続けていました。(# ゚Д゚)
④ 独ソ戦
1941年6月、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連を奇襲すると準備不足のソ連は後退し、ドイツ軍は11月に全ウクライナを占領しました。
ドイツはウクライナから食料を徴発し、労働力をドイツに強制連行しました。またウクライナにはユダヤ人が多く、彼らは殺害されたり強制収容所に送られました。
西ウクライナの民族主義者は最初ドイツ軍の進駐をウクライナの独立に結びつくものと期待しましたが弾圧され、北西部の森林や沼沢地帯でパルチザン運動を展開しました。
1943年にスターリングラードの戦いでドイツが敗北するとソ連はウクライナに進撃、11月にキエフに入城します。ソ連はドイツ占領地域で赤軍パルチザンを組織していましたが、ウクライナのパルチザン組織UPA(ウクライナ蜂起軍)はこの「ソ連製」パルチザンとも激しく戦いました。この戦いは第二次世界大戦終結後も続き、ソ連が彼らを掃討したのは1950年代のことでした。
こうしてウクライナは第二次世界大戦でドイツの侵攻だけでなくソ連の焦土作戦(撤退するときに都市・工場・炭田をぶち壊した)もあっておびただしい人的・物的被害を出しました。
またスターリンはクリミア半島にすむドイツ人、タタール人、ギリシア人をドイツのスパイと決めつけて中央アジアに強制移住させ、多くの人が命を落としました。
6 冷戦とウクライナ
① 冷戦期
第二次世界大戦後:ソ連、ウクライナ蜂起軍を壊滅、西ウクライナの集団農場化
ソ連、国際連合にウクライナとベラルーシを独立国として参加させる
1953年 スターリン死亡
[40 ]第一書記が実権を握る
1954年 (41 )半島がロシアからウクライナ領に移管
ゴルバチョフ書記長の(42 )(改革)
1986年 (43 )原子力発電所事故
1989年 東欧の社会主義政権が崩壊
1990年 ウクライナで主権宣言
1991年8月 ソ連で共産党のクーデタ →ウクライナの独立宣言
12月 国民投票で独立承認
空欄
40フルシチョフ
41クリミア
42チェルノブイリ
43ペレストロイカ
44独立国家共同体
補足
①国連原加盟国ウクライナ?
ぶんぶんは中二病の頃に新冷戦を経験し、「なぜソ連だけ国際連合にウクライナとベラルーシとあわせて3票もってるのか」と怒り心頭でした。ヽ(`Д´)ノプンプン
クリミア半島の保養地で行われたヤルタ会談で連合国はソ連の主張を受け入れて、ポーランドの一部がソ連領に、ドイツ領の一部がポーランド領(オーデル・ナイセ線)になりました。
これで旧ポーランド領のガリツィア、コサックが活躍したドニエプル川右岸、ロシア支配下で工業化が進んだ同左岸からなる現在のウクライナの領域になりました。
さらにソ連はウクライナとベラルーシの国連加盟を持ち出し、米英が譲歩して両国は国際連合の原加盟国になりました。
*発展:ヤルタ会談ではソ連の対日参戦も秘密裏に決められました。ソ連に抑留された約60万人の日本兵の一部は遠くウクライナまで移送され、採石や道路建設などに従事しました。
参考
クリミア半島は18世紀以来ロシア人の入植が進み、スターリンがタタール人を追放したこともあってロシア人が多数派になっていました。
フルシチョフはロシア人で家族に連れられてウクライナに移住し、ドンバスで金属工として働いた後ウクライナ共産党に入って第一書記にまでのぼりつめ、スターリンの忠実な部下として粛清に加担しました。
スターリンの死後実権を握ったフルシチョフは1954年、フメリニツキーがロシアの宗主権を認めた300周年を記念して、ロシア領クリミア半島をウクライナ共和国に移管しました。
これはフルシチョフのウクライナに対する懐柔策であり、ウクライナでロシア人の比率をあげる意図もあったとされていますが、彼はよもやソ連が崩壊するとは思わなかったでしょう。
ヤルタ会談が行われたリヴァディア宮殿。作者のStoljaroffさんによって権利が放棄されたのでパブリックドメインです。
② ペレストロイカとウクライナ独立
ブレジネフの時代に再びウクライナの民族運動は抑圧されますが、ソ連の工業や農業も停滞します。ウクライナは引き続き穀倉地帯でしたが、農業の集団化は農民の生産意欲をそぎ、穀物輸入が常態化しました。
ウクライナの地図を見るとドニエプル川が膨張していますが、これは計画経済による都市化と工業化でエネルギーが不足し、1950年代から70年代にかけて巨大なダムが建設されたからです。無計画です。(´・ω・`)
また共産党の経済政策は内容よりも政治闘争の側面があるので、彼らは失敗を認めません。その結果上層部の言うことには逆らわない、政策はすべて成功したことにする、不都合なことは隠蔽するという風潮がはびこります。これではイノベーションは起こりません。
こうした中で1985年にゴルバチョフが書記長に就任しました。彼はペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を打ち出しましたがしょせんは共産党の支配維持にすぎず、抑圧されていた側の異議申し立てを引き起こしました。
隠蔽体質が悲劇を招いたのが1986年4月26日、キエフ郊外のチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故でした。放射能がスウェーデンにまで達したためソ連は事故を認めましたが、事故を小さく見せようとして被曝による被害が拡大しました。
クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 2.0 一般 IAEA©
事故から3年近くたった1989年2月になって初めて詳細な汚染地図が公表され、原発から300kmも離れた地域にまで高汚染地域の広がっていることが明らかになりました。それでもソ連は甲状腺がんの増加と原発との関係を認めようとしませんでした。
参考
上記よりチェルノブイリ周辺600km圏のセシウム汚染地図。ちなみに福島第一原発から東京までは250km。
ペレストロイカを機にウクライナ民族主義が高揚し、1989年にはウクライナ語の公用化、長く弾圧を受けていたウクライナ正教(ユニエイト)の公認化が実現しました。
1990年3月には民主的な最高会議議員選挙が実現し、作家連盟などを中心に民族主義大衆組織「ペレストロイカのための人民運動」(ルフ)を中心とする民主勢力が多数を占めました。
7月に最高会議は「主権宣言」(ソ連の主権を否定)を採択しました。翌年8月24日にソ連の共産党クーデタ失敗を受けて最高会議はウクライナの独立を宣言、12月の国民投票によって圧倒的に独立が支持されました。
ロシア人が多いハルキフやドネツクでも80%以上が賛成、ロシア人が過半数を占めるクリミアでも賛成が過半数を越えました。
7 独立後のウクライナ
独立後も経済的にロシアと緊密な関係
カスピ海で産出されるロシアの石油、天然ガスを黒海経由で欧米へ輸出
ウクライナもエネルギー資源をロシアに依存
東欧諸国が(45 )へ加盟
東南部の工業地帯はロシアとの関係が深い
2004年 オレンジ革命
大統領選挙で親ロシアのヤヌコーヴィチがユシチェンコに勝利
選挙に不正があったと首都キーフ(キエフ)を中心に大規模なゼネスト発生
再選挙の結果ユシチェンコが大統領に当選
→政権内部の抗争で支持を失う
2010年の大統領選挙でヤヌコーヴィチが当選 新憲法は無効
2014年 マイダン革命
汚職、経済成長の停滞、通貨の切り下げなど政治・経済の不安
ウクライナ、EUへの加盟を目指すもヤヌコーヴィチが署名を拒否
キエフでの反政府デモ ヤヌコーヴィチは失脚しロシアに亡命
2004年の憲法復活
2014年 クリミア危機・ウクライナ東部紛争
クリミア自治共和国がロシアへの併合を求める決議を採択したと宣言
ロシア軍の出兵、ロシアへの併合宣言
ドネツク州とルハーンシク州で親露派が武装蜂起→ウクライナからの分離要求
2022年 ロシアのウクライナ侵攻
空欄
45ヨーロッパ連合
補足
① ロシアとEUの「両天秤」
ここからはこれを参考にしています。
独立後もウクライナとロシアの関係は強く、経済的には2014年まで輸出入ではロシアが1位、ロシア資本もかなり入っています。特に東部工業地域はウクライナの「稼ぎ頭」でロシアとの結びつきが強くロシア語が通じる地域です。
一方アイデンティティに関しては、1991年の独立以来「ウクライナ」で考える人が増えています。人口の2割前後を占めるロシア人(血族を重視する傾向)は必ずしもウクライナ人意識を持っていませんでしたが、独立後のウクライナでは、特に若い世代で「どの国で生まれたか」(属地主義)がアイデンティティの重要な要素になってきているそうです。これは西部だけでなく東部でも見られる傾向です(上記リンクより)。
ぶんぶんは、ポスト冷戦期のヨーロッパ諸地域が、互いの国境を認め、アイデンティティを保ちながら「ヨーロッパ」という共通性を意識し、緩やかに結合するのがベターだと考えます。
ウクライナがロシアと関係を保ちながらウクライナ人意識を高め、西欧諸国との結びつき=EU加盟を模索するのはその観点からは妥当です。実際に1991年の独立後、ウクライナでは親ロシア派と親EU派が交互に政権交代してバランスを保ってきました。
② ロシアのウクライナ侵攻の背景
ユーリヤ・ティモシェンコ。オレンジ革命でユシチェンコを支持し、「美しすぎる首相」と話題になりました。その後大統領選挙に打って出ますがヤヌコーヴィチに敗北、ガス資源に関する汚職疑い(実家はウクライナ随一の資産家)で逮捕されました。
プーチン大統領はこうしたウクライナの態度が気に入りません。2004年の「オレンジ革命」で親EU派の大統領が誕生すると、ロシアはウクライナ向けの天然ガス供給を止めるなど圧力をかけました。
プーチン大統領はKGB局員の頃に東欧の民主化運動とソ連の崩壊を目の当たりにしました。彼はロシアのプライドを回復するため「超大国ロシア」の復活を掲げました。
これはソ連が崩壊して生活が滅茶苦茶になった層に支持されます。彼はエリツィンの右腕としてチェチェンの民族運動を弾圧し、人気を背景に大統領に就任しました。ウクライナ侵攻はチェチェンの成功体験の延長線上にあるいえます。
*ロシアで選挙の不正疑惑に対するデモが発生すると、東欧革命がトラウマのプーチン大統領はこれを弾圧しました。国内の批判を抑え込むには「強いロシア」アピールが必要です。しかし自己保身の目的で人間の尊厳を蹂躙するのはもってのほかです。
2014年のマイダン革命で親露派のヤヌコーヴィチが政権を追われると、ウクライナは一気にEU寄りに傾きました。
これに対してロシアがクリミアに親ロシア勢力を作り、「彼らがロシアへの編入を求めている」という口実でクリミアを併合しました。これはナチ・ドイツがオーストリアを併合し、チェコスロヴァキアを解体した際と同じやり口です。
さらにロシアは同じことをロシア人の多い東南部で行います。それがドネツク州とルハーンシク州の親露派武装勢力です。
しかしこのロシアの態度が逆効果になり、ウクライナのEU寄りが加速します。大統領選も従来の親露か親EUかの対決ではなく親EUが前提になりました。ゼレンスキー大統領の時もウクライナ国内の汚職撲滅が争点でした。
これがプーチン大統領の勘に触ったようで、ウクライナがEUやNATOへの加盟をにおわせたのを機に、クリミアと同じく「ロシア系住民が迫害されている」という口実で東部ウクライナに侵攻したのが今回です。
プーチン大統領はタレント上がりのゼレンスキー大統領など取るに足らないと考えたのかもしれませんが、番組プロデューサーでもあった彼はSNSを駆使してウクライナ人のナショナリズムを喚起するだけでなく、世界各地の共感も得て(日本の一部は除く)、2022年4月現在粘り強く抵抗しています。
かつてヒトラーは「ソ連など扉をひと蹴りすれば崩壊する」と豪語して独ソ戦を始めました。歴史に学ぶべきです。
まとめ
- キエフ・ルーシは資料が乏しく「ロシアとウクライナは不可分」は根拠薄弱
- ウクライナは古来から様々なエスニック集団の十字路
- ウクライナでは14世紀以降周辺諸国の支配とそれに対する抵抗が繰り返された
- 19世紀のウクライナ・ナショナリズムは過去の抵抗を自らの拠り所とした
- ロシア帝国、ソ連支配下でウクライナ・ナショナリズムは弾圧されるが、それはしぶとく生き続け、ウクライナの独立を下支えした
- 殺戮や性的暴行で人間の尊厳を徹底的に凌辱して屈服させる「ジェノサイド」は最低な行為であり、逆に激しい抵抗を呼び起こす
参考
最後までお付き合いいただきありがとうございました。「NoWar」!💙💛
過去回
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com