授業ではあまり先生が触れない割に入試で出題される遊牧民の世界、第4回は3世紀から6世紀にかけて、騎馬遊牧民が大移動を開始し、農耕世界の支配に乗り出す時代についてです。
今回の問いは次の3つです。
実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社(新世界史、詳説世界史)と、山川出版社『詳説世界史研究』『世界各国史4中央アジア』、講座岩波世界歴史(第2シリーズ)、ミネルヴァ書房『論点・東洋史学』を参考にしています。
画像は断りのないものはウィキメディアコモンズパブリックドメインのものです。
ドロドロしていて面白い
これも
目次
1 4世紀 騎馬遊牧民大移動の時代
いつも弊ブログを閲覧していただいている啓隆社さんから地図使ってOKと許可をいただいたので使わせていただきます。みなさんで五胡を入れてください。
五胡…鮮卑・匈奴・羯・(2 )・(3 )が4世紀に華北で自立
氐・羌…チベット系。青海地方から河西地方で活動
280年 (4 )の乱…遊牧民の武力を借りて王族が内戦
遊牧民や漢族が各地で政権を建設…(5 )時代
晋の一族司馬睿は建康に逃れる(東晋)
空欄
1鮮卑
2氐
3羌
4八王
補足
① ゲルマン人もびっくりな大移動
遊牧国家は強力なリーダーが出現すれば様々な騎馬遊牧民集団を糾合して巨大な帝国を作る一方、後継者が凡庸だったり相続争いが発生するとたちまち崩壊します。
匈奴も冒頓単于の時代に大帝国を築きましたが、武帝の攻撃で衰退するとそれまで従っていた烏桓、丁零、鮮卑などが離反し、内紛から前1世紀に匈奴は東西に分裂、さらに後1世紀には東匈奴が南北に分裂しました。
匈奴に代わってモンゴル高原を支配したのがモンゴル高原東部にいた鮮卑で、後漢は服属した南匈奴を使って鮮卑を抑えようとしました。
さらに2世紀末に群雄割拠がはじまると、各地の軍閥が独自に遊牧民と関係を結びました。八王の乱の後、内地の匈奴の統率を任された劉淵は自立して漢王と称し、311年に洛陽を攻略(永嘉の乱)、316年に長安に侵攻して晋の皇帝を捕らえ、晋は滅亡しました。
この後華北では遊牧民や漢族が軍事政権を作ります。「五胡」といいますが主要な遊牧民は鮮卑・匈奴・氐・羌で、羯は匈奴の別部隊、それ以外の遊牧民も活動していました。五胡の政権も中心の遊牧民以外に様々なグループが混在していました。
華北を失った東晋ですが、晋を報じる諸勢力はまだ多く、東晋の元帝は前涼や前燕から支持を得て皇帝に即位します。前秦の苻堅は前涼や前燕を滅ぼして華北を統一し、その勢いで東晋も滅ぼそうとしましたが、淝水の戦いで敗北しました。
しかし東晋もこの戦いで華北への影響力を失い、劉裕が南燕や後秦を滅ぼして一時洛陽や長安を奪回し、420年に皇帝に即位して宋を建国しました。
この時代はどこかのラインで分断が固定していたわけではなく、遊牧民の政権も主要な勢力に様々な遊牧民が連合している状態でした。さらに遊牧民が農耕民を掠奪したり。戦乱を嫌って農耕民が遊牧地域に逃げることもあり、遊牧民と農耕民が混じりあいました。
「ネーションステート」にどっぷり使っている私たちが近代的な「民族」「国境」という概念だけでこの時代を論じてはいけないということです。
2 5世紀 北魏の華北支配
啓隆社さんの地図より
(6 )
(10 )帝(5世紀)
都を平城から(11 )に移す 中国化政策(三長制 均田制)
六鎮の乱:柔然との国境地帯に配置されていた北族が蜂起
→(12 )(高歓が建国)と(13 )(宇文泰が建国)に分裂
*「拓跋国家」
鮮卑拓跋を中心に協力する遊牧騎馬民(北族)や漢人貴族が支配層を形成
遊牧民や漢人など多様な人々を統治する胡漢融合帝国→隋唐に継承される
5世紀に可汗(カガン)と称し、その後タリム盆地にも勢力拡大
丁零(ていれい):モンゴル高原北部、南シベリアのトルコ系
最初匈奴に服属するも後に自立
吐谷渾(とよくこん):青海地方 4世紀~7世紀
鮮卑系の一部が羌を支配して成立
吐蕃に滅ぼされる
空欄
6北魏
7拓跋
8平城
9太武
10孝文
11洛陽
12東魏
13西魏
14北斉
15北周
16柔然
補足
① 北魏は遊牧国家?
トムルさん作成の5世紀の遊牧民勢力図。高車(トルコ系)、契丹など後に台頭する諸勢力がこの時点では柔然に臣従していることがわかります。この後高車が台頭し、遊牧世界は柔然・高車・エフタルの三国時代に突入します。クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植
File:柔然帝国.png - Wikimedia Commons
鮮卑は太興安嶺南部(モンゴル高原の東端)の遊牧民で、匈奴と争った東胡の末裔と考えられます。2世紀半ばに匈奴が衰退したモンゴル高原に拡大し、一旦衰えた後は「部」に分かれ、華北の動乱に乗じて南下して4世紀に拓跋部が「代」を建てました。
代の滅亡後、末裔である拓跋珪が4世紀末に国号を魏とし、平城に都として皇帝に即位しました(道武帝)。
雲崗石窟のこの大仏は道武帝をモデルにしているらしいです。卒業生提供。
平城は遊牧民と農耕民の境界地域で、北魏は拓跋部の遊牧部族集団を中心に、漢人を中心とする農耕民も支配下に置き、前者に部族制、後者に郡県制を敷いていました。
世界史の教科書だと「北魏=漢化政策」というイメージですが、考古学知見から北魏は遊牧民の風習を色濃く残していたことがわかっています。
1980年に発見された、太武帝が拓跋部の故地の祖先神を祀らせた洞窟からは、祖先の称号として「可寒」「可敦」という、君主とその妃を表わす碑文が見つかっています。
柔然が北魏に対抗して「可汗(カガン)」を称していたことは知られています。北斉で編纂された『魏書』には北魏の皇帝を「カガン」と呼ぶ記述はなく、考古学資料でも皇帝本人がカガンを名乗るものは発見されていません。彼らは内々で「カガン」を名乗っていたのかもしれません。
同じく1980年に発見された文成帝の巡幸を記念する碑文には同行した官僚の役職が刻まれていて、『魏書』には見られない「内朝官」と呼ばれる遊牧民の官名が多数刻まれていました。
彼らは皇帝の側近で、皇帝の身の回りの世話や警護をする一方、有事には戦闘に参加しました。鮮卑・匈奴が中心で、服属した柔然や高車、漢人も含まれていました。モンゴルにも同じシステムがあり、隙を見せると離反する遊牧民集団に対して皇帝が「出世コース」を用意して懐柔しようとしたことが見て取れます。
また征服した諸部族を再編して平城や辺境地帯に強制移住(徒民)させ、王族、古参の部族、新たに支配下に入った部族による八部制を敷き、軍の中心としていました。
北魏の皇帝は冬は首都で過ごし、夏はステップ地帯で移動生活を送り、儀式(遊牧民的な天を祀る儀式)の時は北族に家畜を送るなど遊牧民の風習も維持していました。
たしかに北魏は孝文帝の前から漢族を官僚に迎えて中国的な国制も整えつつありましたが、それは遊牧民的な「実力のあるものや使えるものは取り入れる」の一環であり、朝廷には遊牧民的風習が色濃く残っていました。
② 国力アップのための中国化(漢化)政策?
孝文帝
遊牧民の慣習を維持して北族をつなぎ止める一方、漢族も取り込んで中華王朝的な支配にも乗り出した北魏でしたが、孝文帝の時に中国化政策に舵を切りました。
文成帝の死後即位した献文帝は18歳で皇太子(孝文帝)に譲位し、さらに23歳の時に死亡(馮太后が毒殺したといわれています)、孝文帝はまだ10歳なので文成帝の皇后であった馮太后が実権を握りました。
馮太后は皇族や北族の有力者や漢人官僚に支えられ、中央集権的な政策をはじめます。当時北魏では大土地を所有する漢人豪族が大量の私有民を抱えていました。当時の税制は戸単位(戸調制)のため漢人豪族は「一戸」分の税負担で。私有民は戸籍がなく税負担がない代わりに豪族に収穫を納めていました。
馮太后は漢人官僚の李沖の上奏を受けて485年に「三長制」を実施しました。「三長」は「隣」(5家)「里」(5隣)「党」(5里)の長を指し、彼らが戸籍の把握や徴税に当たりました。この結果徴税できる戸数が増加しました。
馮太后は同じ年に成年男子とその妻に露田と桑田を支給し、その収穫を税として納めさせる「均田制」を施行しました。同時に租税の徴収も戸単位から夫婦単位に改められ(つまり豪族の私有民が政府に捕捉される)、土地の支給と引き換えに兵役も課されました。
均田制によって、豪族は奴婢や耕牛にも給田が認められて大土地所有は維持するものの私有民からの収入は減り、私有民は政府に税を払うようになり(ただし税率は従来より下げられた)、さらに遊牧民だけでは回らなくなった兵力を提供するようになります。
つまり馮太后の「中国化政策」は北魏の支配領域が拡大する中で、豪族の勢力削減と政府の体力アップを同時に行うのが狙いだったといえます。賢いです。
馮太后が亡くなると孝文帝は親政を開始し、まず祖先神(太祖)を代国の皇帝から道武帝に変更し、天を祀る儀式をやめて中国風の祭祀に一本化、皇帝の姓も「拓跋」から漢字一字の「元」に改めました。また朝廷での鮮卑の言葉や服装の使用を禁止しました。
これらは世界史の教科書で「漢化政策」と呼ばれますが、胡語・胡服の禁止は朝廷内に限られ、軍隊では引き続き使用されていました。
北魏の三長制と均田制は周礼に由来するとされ、仏教や食文化(胡床(椅子)や粉食)はオアシスの道由来、儀式で演奏される音楽は遊牧民の歌です。
つまり北魏は農耕・遊牧両世界を統治するために有用なものを取り入れた、特に農耕地帯を抱えるようになって徴税や徴兵で中国のシステムを採用した(それを正当化するため周礼を持ち出した)と考えられます。
北魏の漢化を強調したのは北斉の時代に編纂された北魏の正史『魏書』です。当時北斉は北周と争っていて(陳を含めて天下を三分していた)、自らこそ北魏の正統な後継者だと主張していました。
そこで自分たちと同様に漢化政策を推進した孝文帝をほめちぎる一方、北魏の遊牧民的な部分はわざと書いていない、ということです。
書かれたものには意図があり、書きたいことと書いていないことがあります。遊牧民の歴史はどうしても中華の正史に頼らざるを得ない部分がありますが、考古学資料等と突き合わせて正史を批判的に読む必要があります。
③ 拓跋国家?
鮮卑が南下した後、モンゴル高原では柔然が台頭しました。彼らは「カガン」を自称して北魏に対抗したので、北魏は国境付近に六鎮を置き、北族を配置して防御に当たりました。
六鎮の北族は税制面で優遇されていましたが、孝文帝の時代に地位が低下すると、不満を持った北族が暴動をおこして北魏は大混乱に陥りました(六鎮の乱)。
乱は鎮圧されましたが、この六鎮から出た新興勢力が北周、北斉、隋、唐を建国しました。隋を建てた楊堅、唐を建てた李淵とも遊牧民の出身ながら「中華の正統な後継者」を示すために漢族の「楊」「李」の名前を名乗ったとされています。
六鎮の乱に発する北魏の分裂によって生まれた一連の王朝は、匈奴系、鮮卑系問わず六鎮の部族集団に由来する騎馬遊牧民の軍事力を柱にし、華北に都を置いて、中国王朝の制度を取り込んだ点が共通します。
8世紀の突厥第二帝国の碑文で突厥が唐王朝を「タブガチ」(拓跋の訛り)と呼ぶことから、遊牧民も唐を「拓跋」と認識していたようで、この一連の王朝を「拓跋国家」と呼ぶ説が提唱されています。
ただし遊牧民を近代的な「民族」でくくるのは危険で、六鎮の勢力も鮮卑・匈奴・高車など様々な遊牧民の混成部隊です。「拓跋国家」とは鮮卑ネイション国家というよりは「拓跋系を中心とする集団が構築した遊牧世界と農耕世界を統治する政治パッケージを継承する国家」と考えた方がよいのかもしれません。
まとめ
- 五胡十六国時代には遊牧民や漢族が各地で政権を建てた。それぞれの国家はベースとなる遊牧民や漢族を中核に雑多な集団が連合していた。
- 漢族の中にも混乱を嫌って遊牧民国家に帰順するものもいた。
- 北魏は拓跋氏を中心とする遊牧民や漢族の連合体で、遊牧民の風習を色濃く残して北族をつなぎとめる一方、漢族の政治制度を吸収して農村を支配した。
- 六鎮の乱後動乱が続くが、その過程で遊牧民、漢族双方の文化を取り入れた「胡漢融合王朝=拓跋国家」が成立し、隋や唐につながる。
過去記事
六鎮の乱について出題。無茶ぶり
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
仏教・道教について
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com