国公立大学、難関私立大学では大問のどこかで必ず東アジア史、特に中国の政治、経済、文化史が出題されます。
前回は有名な都市を確認したので、今回は論述試験を意識して首都の集中トレーニングをしながら中国史のとらえ方について考えます。。
前回
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1 ドリル 中華王朝の歴代首都
地図は2010年センター試験のものをお借りしました(これは二次著作権が発生しないセンターが作った地図のはず)
殷: 大邑商 (1 )→現河南省安陽市
東周:(3 )→現河南省
秦 :(4 )
前漢:(5 )
後漢:(6 )
三国…魏:(7 ) 呉:(8 ) 蜀:(9 )
西晋:(10 )
北魏:(12 )→(13 )
隋 :(14 )
唐 :(15 )
五代:(16 )*後唐のみ洛陽
北宋:(17 )
モンゴル(大元ウルス):カラコルム→(19 )
明 :(20 )→(21 )
清 :(22 )
中華民国:孫文が(23 )で建国→袁世凱が(24 )で大総統就任
→(26 )→台湾へ逃亡
中華人民共和国:(27 )
2 解答
1殷墟 2鎬京 3洛邑 4咸陽 5長安 6洛陽 7洛陽 8建業 9成都 10洛陽
11建康 12平城 13洛陽 14大興城 15長安 16開封 17開封 18臨安(杭州)
19大都 20金陵(南京) 21北京 22北京 23南京 24北京 25南京
26重慶 27北京
3 都市と歴代王朝まとめ
長安a:西周(鎬京h) 秦(咸陽g) 前漢 隋(大興城) 唐
北京f:金(燕京) 元(大都) 明(永楽帝以後) 清(順治帝以後)
南京d:呉(建業) 東晋・南朝(建康) 明(金陵) 中華民国(孫文・蒋介石)
その他:殷墟(bの北東)→殷(商) 成都i→蜀
4 考察
妹尾達彦さんの「中国の分裂と再生」が名古屋大学2009年の問題にベタで出題されています。 それを参考に中国王朝の首都の変遷についてまとめます。
論文の中に出てくる図を参考に作成
妹尾さんによると、中国史前期は長安・洛陽の東西両京制度、後期は北京・南京の南北両京制度、開封はその過渡期の首都と解釈されています。
すなわち長安と北京は「内中国」(農耕を中心とする社会)と「外中国」(遊牧を中心とする社会)を内包する政治的・軍事的拠点、一方洛陽と南京は「内中国」の経済的・文化的な中心地、に当たります。
周から唐の時代は主に西から遊牧民が来ます。また黄河中流域(いわゆる「中原」)が経済の最先端地域でした。このふたつの拠点が長安と洛陽です。
そのうち長安(およびその付近)を拠点とする王朝は、昔風の高校世界史は農耕世界から遊牧民を征伐して外に拡大した王朝と描いていましたが、現在は遊牧民とのつながりを強く持つ政権と解釈します(後述)。
一方洛陽に本拠地を置く王朝は、遊牧勢力の圧迫の中で「内中国」経営をメインにしていた、ととらえることができます。
宋代は北部に契丹族が台頭し、長城の内側に位置する「燕雲十六州」を支配します。一方チベット系タングートの西夏は陝西省・甘粛省という「オアシスの道」の玄関を押さえます。
同時代に長江下流域の経済発展が進みます(唐が安史の乱で分裂状態になった後も1世紀延命したのはこの地域のおかげ)。
したがって北と西の両方ににらみをきかせつつ、江南の物資で遊牧勢力と対峙するという観点から、大運河の結節点の近くに当たる開封が首都となります。
元代以降は北方のモンゴル、次いで女真族が強大となり、その勢力が建国して「内中国」を征服した元や清は、両者が接する北京を首都とします。
一方長江下流域は靖康の変で宋が亡命してくると急速に発展し、中国の経済的中心となります。これを背景に明が南京で建国されます。
ただし北方でモンゴルと対峙していた燕王が靖難の役で皇帝位を奪うと(永楽帝)、彼は自らの拠点である北京に遷都します。
*発展
過去の高校世界史は「正史」の考え方を踏襲して農耕民中心主義で、唐を均田制・府兵制・租庸調制など(社会主義者にとってはうらやましいような)律令体制を整え、周辺諸国のモデルになった農耕漢族王朝と教えました。
一方遊牧民は討伐すべきものみたいな書き方をされていました(銀河帝国が自由惑星同盟を「反乱軍」と呼ぶようなもの)。
ところが最近は唐王朝を「拓跋国家」ととらえることが普及しています。
隋や唐は血筋的には北朝の鮮卑族の系譜を引く王朝で、均田制は(社会主義ではなくて)少数の遊牧民(基本穀物は作らない)が農耕民を支配して安定的に食糧を調達するシステム(『マクロス7』の「スピリチュア・ファーム」?)と考えると、確かに納得できます。
また「羈縻政策」で非漢族の集団を上手につなぎ止めることができたのも、唐王朝は「匈奴族の流れを引く北朝の末裔」という(「東大生のノート」などとは比べものにならない)圧倒的なブランド力を誇っていたからだと考えられます。
一方で唐王朝は「中華」の正統を自認する「南朝」を文化面で大事に扱うなど(代表例が『五経正義』と儒教を試験科目とする科挙)「内中国」では「漢の正統な後継者」として振る舞います。
首都も前漢と同じ「長安」(という名前)なのはその一環でしょう。
なお皇帝の太宗(李世民)は西北諸民族の王から「天可汗」という称号を受けたと『新唐書』にあり、これは「農民世界の皇帝」と「遊牧世界の大ハン」を使い分ける「非漢族王朝」の元や清と同じ権威構造です。
「スピリチュア・ファーム」作戦も、契丹の燕雲十六州、金の華北支配に通じます。
このように王朝と首都の名前を機械的に暗記するのではなく、中国史の大きい流れ(支配層の変遷、経済の中心地の移動)を首都の変遷とリンクさせて理解したいです。
中国の経済的中心の移動については、大阪大学、京都大学で出題されているのでそちらも参考にしてください。
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拓跋国家について 参考文献