ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

フィールドワーク 「差別意識のカラクリ」について考える

 私は職場で人権推進の係をしてる時、2016年の4月に障害者差別解消法、5月にヘイトスピーチの解消を目指す対策法、12月に部落差別解消推進法と立て続けに差別に関する法律案が可決されました。

 

 そこで1月に近畿大学人権問題研究所の奥田均教授をお招きし、「差別意識のカラクリを考える」と題して「部落差別」と「部落差別解消推進法」について学習会を行いました。

 「ブログに載せていいですか?」と伺ったら快諾を頂き、内容も見て頂きました。

 そろそろ人権週間なので本日はその様子を紹介して差別について考えます。

  

*法律の全文は法務省> 政策・施策 > 国民の基本的な権利の実現 > 人権擁護局フロントページ > 啓発活動 > 同和問題とは、で読むことができます。

第1条のみ引用します。

 

部落差別の解消の推進に関する法律
(目的)
第一条
この法律は、現在もなお部落差別が存在するとともに、情報化の進展に伴って部落差別に関する状況の変化が生じていることを踏まえ、全ての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのっとり、部落差別は許されないものであるとの認識の下にこれを解消することが重要な課題であることに鑑み、 部落差別の解消に関し、 基本理念を定め、 並びに国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、相談体制の充実等について定めることにより、部落差別の解消を推進し、もって部落差別のない社会を実現することを目的とする。

 

 

 

講演の内容

 

 「部落差別」という言葉はよく考えるとイレギュラーです。「女性差別」「障がい者差別」は人が人にする差別です。「部落差別」だけが「エリア」を指す差別です。

 「部落出身者」とは誰を指すのでしょうか。「障がい者」の場合は、行政の立場だと「障害者手帳」を持っているかが基準です。もちろん手帳を持っていない人もいますから、基準には「幅」が存在します。

 しかし「部落出身者」は人によって基準が「異なり」ます。「2005年大阪府民調査」によると(数値は複数回答)「部落出身者」とは「同和地区に住んでいる人」という回答が約50%です。

 「本籍地が同和地区」という回答は40%です。戸籍の不正取得事件や、運転免許書から戸籍の記載がなくなったのは、部落出身者かどうかを戸籍で判断する人がいるからです。

 「出生地」で判断するという回答もあります(本人:37% 父母祖父母:26%)。

 大学生に同じアンケートを採ったら、ある学生が「私は『賤民の子孫』と思う」と言いました。そこで「じゃああなたは何の身分の末裔?」と尋ねましたが答えられません。

 確かに身分制度の時代は内婚制(同一身分内での通婚)でしたが、それはすでに解体し、今では「自分は何という身分の末裔か」を知らない人がほとんどです。

 

 「部落出身者」は血筋で表すことができない、「土地」だけは手がかりなので、その土地と接点がある(住んでいる、住んでいた、親族が住んでいる)人に対して差別をしている、属地的差別です。

 この理論なら誰でも「部落出身者」になりえます。「同和地区」に家を買って5年も住めば「部落の住人」ですし、生まれた子どもは本籍地も出生地もそこです。

 したがってそこに住めば、そこで生まれれば、そこの人と結婚したら「部落出身者」と見なされるかもしれない、だから避ける。これが「忌避意識」です。

 その典型が土地差別(物件選び)と結婚差別(パートナー選び)です。

 つまり差別は差別される人の側にあるのではなく、差別する人の頭の中にあります。


 今もネット等に差別的な書き込みがありますが、見下したり排除したりする攻撃的な差別をする人は少数派で、ほとんどの市民は無関心です。

 でも自分が「部落出身者」と見なされる可能性を避けることが、悪気はないにせよ結果的に差別を残すことにつながります。

 

 ではどうすればよいのでしょう。

 

 ひとつは「発想を転換する」です。

 野原に熊とウサギが住んでいます。ウサギは野原に線を引いて熊とウサギのエリアを分け、周りから熊に間違われるのを恐れてことさらウサギらしく振る舞おうとし、熊のエリアに近づかないようにしています。

 まさに部落差別は「一人芝居」です。

 ふたつの間に線を引いているのも私、周りの目を気にしているのも私です。「差別の不当性」を合理的に理解する前にまず「差別の無意味さ」、やっていることのばかばかしさを感じることです。

 

 もうひとつは「世間がそういうから」をなくすために世間を変える、言い換えると「差別をすると肩身が狭くなる世間」を作ることです。

 そのためには教育やマスコミの力が必要ですが、特に法律の役割は大きいです。

 最近だとタバコです。「健康に悪い」とさんざん言われても変化しなかったタバコに対する考え方が「健康増進法」で様変わりしました。


 部落差別解消推進法は、2016年に成立した一連の法律と同様、「差別を受けている人を救済する」対策法(注:部落差別に関しては地対財特法)ではなく「差別はしている側の問題」と考える理念法である点です。

 これは大きな発想の転換です。つまり差別は「コンプライアンス」の問題、「セクハラ」と同様に「してはいけない」「なくすべきもの」と位置づけられました。

 

 ただし部落差別解消推進法は「部落差別は存在している」と認め、国や地方公共団体に必要な施策を求めているだけです。その理念をどのように実体化するかは今後の課題です。

 

 

 

講演を聴いて考えたこと


 世の中に生まれながらに差別されてよい人などいません。何かのきっかけ(多くは利害関係)で価値の序列をつける必要がある、その時に「あの人は◯◯だから」と「違い」を後付けの理由にして自分の行為を正当化する、これが差別行為です。

 仮に「違い」をなくしても、差別したい人は新しい「違い」を見つけて差別します。だから差別はする側の問題といえます。

 

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 生徒を含め多くの人々は「私は差別をしていない」といいます。それは喜ばしいことなのですが、「差別される存在があって、それを差別する人はいるけど私はしていない」と、「差別はするから起きる、だから私はしないし、している人に注意する」とでは原理が違います。

 今回の「忌避意識」はまさに前者の考えの人を直撃します。「私は差別は関係ない」と思っていた人が住居やパートナー選びで「自分が差別される側に立つかもしれない」と感じるのです。差別は誰の問題なのか、一寸立ち止まって考える必要があります。

 

 部落差別解消推進法は理念法で、部落差別が存在すること、行政が解消に責任を持つことが示されていますが、何が「部落差別」に当たるかや具体的な施策は書いてありません(「部落出身者」の定義も条文にはありません)。

    しかし一連の法律と同様に「差別はする人の問題」というパラダイムシフトにはなりました。

 

 差別が行為である以上、私たちはみな被差別・加差別両方の当事者になり得るし、同時になくす当事者でもあることを肝に銘じたいです。

 

  奥田先生、ありがとうございました。