ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

世界史文化史直前チェック(古代ローマ)

 難関私立大学になればなるほど出題される文化史、今回はローマ編です。

 ローマ法は後世にも影響を与え、ラテン文字ラテン語ローマ帝国の共通語のみならず中世ヨーロッパの共通語でした。現存する建造物からは技術水準の高さを感じます。またローマ12神に代表されるようにギリシア文化を継承しています。

 世界史B・世界史探究の教科書(実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、ミネルヴァ書房『大学で学ぶ西洋の歴史 古代・中世編』『論点・西洋史学』、第一学習社の倫理の資料集を参考にしています。

 画像はパブリックドメインのもので、そうでないものはリンクにしてあります。

目次

 

1 文学・哲学・歴史

1)ラテン文学

アウグストゥス時代に黄金期(共和政を賞賛)

[1      ]『アエネイス』 ローマ建国までの伝説

ホラティウス『叙情詩集』

オウィディウス『転身譜』

2)散文

キケロ『国家論』『友情論』カエサルの政敵

[2      ] 『ガリア戦記ガリア遠征の記録

3)哲学

ストア派 帝政期に上流階級の実践倫理として流行

 セネカ:『幸福論』 ネロに自殺させられる

 エピクテトス:奴隷出身のギリシア

 マルクス=アウレリウス=アントニヌス:(『3     』)

プラトン主義…3世紀にプロティノスが創始

 ギリシア哲学にオリエントの宗教思想 神秘主義

4)信仰

多神教 ミトラ教マニ教・イシス教など密儀宗教が流行

キリスト教…392年 キリスト教以外の信仰を禁止

5)歴史

[4      ]前2世紀 ギリシア人 『ローマ史』

 政体循環論 カルタゴ滅亡に立ち会う

[5      ] 前1世紀末 『ローマ建国史

 建国からアウグストゥス時代まで アウグストゥスの援助

[6      ] 1~2世紀 『ゲルマニア』『年代記

[7      ] 1~2世紀 ギリシア人,『対比列伝』(『英雄伝』)

6)自然科学

[8      ] 『博物誌』 ポンペイ噴火の様子を見に行って死亡

[9      ] ギリシア人 『地理志』史料的地誌

[10      ] ギリシア人 『天文学大全』地球中心の天動説

カエサル (11      )暦制定→グレゴリウス暦(16世紀に改良)

空欄

1ウェルギリウス
2カエサル
3自省録
4ポリビオス
5リウィウス
6タキトゥス
7プルタルコス

8プリニウス
9ストラボン
10プトレマイオス
11ユリウス

補足

① ローマ人は征服したギリシア人に征服された?

 もともとローマ人はギリシア文化の影響を受けたエトルリア人の王の支配を受けていましたが、その後もローマ人はギリシアの文芸や学問を深く愛好し、ギリシアの文学作品をラテン語に翻訳するとともにそれを模倣してラテン文学を生み出しました。

 ローマは第三次ポエニ戦争(前149年~前146年)と平行してマケドニアギリシアを属州化しましたが、文化面ではギリシアがローマを虜にしたということです。

 ウェルギリウスの『アエネイス』はローマ建国の歴史をうたい皇帝アウグストゥスを賛美する叙事詩でラテン文学の最高峰とされますが、ホメロスの影響が色濃く見られます。ホラティウスオウィディウスギリシア文学模倣の傾向が強いです。

 古代ローマ社会は奴隷制度で成り立っていました。ローマの奴隷は農場(ラティフンディア)や鉱山で働いたり、家内奴隷として主人に仕えたり、剣闘士として命がけで戦うなど主人に「生殺与奪」を奪われた存在でした。

 一方教師、会計士、医師、貴族の秘書など知的な労働も奴隷の仕事で、主に学識のあるギリシア人奴隷が担っていました。中には奴隷の身分のままで蓄財したり、奴隷の身分から解放される人もいました。

  ローマの共和政はアテネとは違って有力者による寡頭政で、有力者が複雑な保護・被保護関係(クリエンテーラ、クライアントの語源)を結んでいました(解放奴隷も元主人の影響下にありました)。

 有力者には財力だけでなくギリシアの教養も求められたので、家にはギリシア神話のモザイクが飾られていました。ポンペイの遺物にも朝に親分への挨拶を行くという記録があり、旧版の山川出版社『新世界史』によると挨拶に来た人の名前を主人に教える奴隷がいたそうです。

ポンペイ展より。

 しかしローマ帝政後期になり皇帝がキリスト教を支配の原理にするようになるとギリシア文化は次第に寂れ、392年にテオドシウス帝キリスト教以外の信仰を禁止すると、ローマ帝国の保護下で続いていたオリンピアの祭典も中止になりました。

 オリンポスの神殿 19世紀の想像図 著作権切れでパブリックドメイン

② 歴史は過去を通じて現在を映す「鏡」

 ヘロドトスは『歴史』の冒頭で、「ギリシア人が専制国家に打ち勝ったことを今ではすっかり忘れられているのでそれを記録する」と自らの執筆の動機を語っています。

 「歴史を書く」は、その時代を生きた人が何らかの動機で過去を振り返りたくなるから行なわれます。

 ポリビオスはギリシアのポリス出身で、第三次マケドニア戦争(アンティゴノス朝が滅亡)でローマ軍の人質になり、軟禁中に執政官の小スキピオと知り合って彼のギリシア語の教師になり、彼に従って第三次ポエニ戦争に従軍しました。

 彼は著書『歴史』のなかでギリシア・ローマでは君主政→専制→貴族政→寡頭政→民主政→衆愚政→君主政…という循環がみられると主張します(政体循環史観)。この循環による政局の不安定さを抑止する方法は混合政体であり、共和政ローマコンスル元老院、民会)はまさにそれと評価しています。

 かつて繁栄を誇ったカルタゴ(商人寡頭政)、マケドニア(君主政)、ギリシア(民主政)が前2世紀に次々とローマの軍門に降るのを目の当たりにしたポリビオスならではの着想です。

 タキトゥスは1世紀半ば~2世紀初頭の人で、属州の騎士身分の出身です。

 彼は若い頃に五賢帝時代(96~180)直前の混乱期を経験しています。属州出身の彼はローマ帝国の退廃を察知し、『ゲルマニア』(98年)でゲルマン人質実剛健な習俗を紹介することで暗にローマを批判しています。

 また『年代記』(117年)ではティベリウス帝即位(14年)からネロ帝の自殺(68年)までの政治的な混乱を扱い、共和政時代の気風の回復を訴えています。

 「国家が腐敗すればするほど、国家は法を多く破る」(第3巻)など日本の政治家が読むべき内容です。彼の政治批判が許されたのは繁栄を誇った五賢帝の懐の深さがあったからでしょう。

情報統制は政治家が後ろめたいことをしている証拠

プトレマイオスの地図 2世紀頃 地球球体説の立場から円錐投影図法を用い、緯度と経度を使って地球を表現しています。しかしこの世界観だと船に乗ってアフリカ経由で直接インディアスには行けません。英語版に編集したもの。パブリックドメイン

 

2 法律・建築

7)法律

民法ローマ市民に適用)→万民法(帝国内の全自由民に適用)

[12    ]帝のアントニヌス勅令(212年)

 帝国内の全自由民にローマ市民権付与

『ローマ法大全』…6世紀[13    ]帝の命でトリボニアヌスらが編纂

8)建築

レンガ、コンクリート、石の使用 アーチ工法

(14    )街道…ローマ~南イタリアのブルンディシウム

水道橋…ガール(フランス)のものが有名

(15    )(円形闘技場

フォルム(広場)、公共浴場、凱旋門パンテオン(万神殿)

空欄

12カラカラ
13ユスティニアヌス
14アッピア
15コロッセウム

補足

1)ローマ法

 ローマ人はギリシア人から学んだ知識を帝国支配に利用することに長けていて、特に後世に大きな影響を与えたのが法律です。

 紀元前5世紀に生まれた十二表法を起源とし、民会の立法、公職者(コンスルなど)や元老院の布告、皇帝の勅令など帝政末期までにローマ人が作った法をまとめてローマ法と呼びます。

 ローマ法は最初ローマ市民だけに適用される市民法で、自由市や同盟市の住民を分断する方法にも使われました(分割統治)。

 その後同盟市戦争をきっかけにイタリア半島の全自由民に市民権が認められ、さらにローマの支配が全地中海に広がると、212年のアントニヌス勅令カラカラ帝)で帝国に住む全自由民に市民権が認められました。

 同時にローマ帝国の「多文化化」が進んだため、市民法の規定が万民法にあわせられていくことになり、以後ローマ法はヘレニズムの世界市民主義やストア派自然法思想の影響を受けて、人類共通の「万民法」と考えられるようになりました。

 帝政後期になると皇帝の命により法や法学説の集大成が試みられるようになり、6世紀には東ローマ帝国ユスティニアヌス帝歴代皇帝の法令や過去の法学者の法解釈に彼自身の法令を加えた『ローマ法大全』を編纂させ、ローマ法を集大成しました。

 ローマ法は西欧に受け継がれ、12世紀にボローニャ大学が生まれて皇帝や都市がローマ法を自らの正統性の根拠とするようになり、近代法にも影響を与えています。

2)ローマの建築物

アッピア街道

 ローマと征服地を結びつけた道路網は総延長で8万5000km、支線も加えると赤道10周分にも達し、交易や軍事面などでローマの支配を支えました。

 アッピア街道は最古の軍道です。車道の石の下に砂や小石が埋められていて表面に水がたまらないようになっています。タイヤなしの車両で通行したらお尻が痛くなりそうです。ポンペイの道路には車道と歩道、横断歩道があります。(゜ロ゜屮)屮

ウィキメディアコモンズ

街道脇のマイルストーン ウィキメディアコモンズ

コロッセウム

 ローマのコロッセウムは紀元後1世紀の成立で約5万人の観客を収容できます。入り口には番号が刻まれていて、入場券にも入り口番号が記されていました。

 闘技面には白い砂(アレーナ。アリーナの語源)が敷きつめられていました。血が飛んだときに映えるからだそうです。((((;゜Д゜)))))))

 闘技面の下には地下空間があり、動物を入れた鉄の檻が滑車でつり上げられてアレーナに登場しました。今でいう「せり」です。

 ウィキメディアコモンズ 今はアレーナの板がなくなり地下室が露出

 初期には闘技場に水を張り模擬海戦が行なわれましたが、後には主に剣闘間や動物間、人間と動物の試合が行なわれました。

 これらの試合は無料で行なわれ(パンとサーカス)、皇帝も列席しました。一方の剣闘士が倒れると、観客は敗者の助命を求める場合は布きれを振り、死を求める場合は親指を下に向けました。最終的に皇帝など主催者が観客の様子を見て判断を下しました。

 つまりコロッセウムでの試合は皇帝など主催者の「気前の良さ」(無料という経済面と、民衆の意思を尊重する政治面)を民衆に示し、自らの政治的基盤を固める意味があったといえます。

 いつもインチキばかり考えているぶんぶんはおそらくジエンドです。('A`)

 4世紀になると剣闘士の見世物は廃れます。専制君主政(ドミナトゥス)の元、皇帝にとってもはや血なまぐさい見世物で民衆の人気を取る必要もない、戦費増大で都市に重税が課されたため有力者は農村に本拠を移し都市は活気を失ったからでしょう。 

ジャン=レオン・ジェローム作『Pollice Verso』パブリックドメインQ

水道橋

 現代でも水が潤沢に使えることは生活の豊かさの証、途上国で子どもたちを水運びの重労働から解放するのは重大な支援事業です。

 当時はポンプが発明されていなかったので、水源地の水をろ過しながら微妙に傾斜した水道橋に導き、都市部では貯水池に水を集めてそこから水道管で市内に送水されました。裕福な家には直接水道が引かれ、一般市民は市中に設けられた共同水場から水を汲んで生活水としました。また公共浴場や噴水にも水が供給されました。

 水道管のジョイント。ポンペイ展より。著者撮影

 水道橋はフランスのガール、スペインのセゴビアが有名です。ローマ帝国は属州にローマ風の都市を建設して現地の上層部を取り込みましたが、たしかに水が存分に使える生活を与えてくれたら(∪^ω^)!になるかもしれません。

 ガールの水道橋(ポン・ドゥ・ガール)は後50年頃に建設された三層からなる石像のアーチで、南フランスのニームに給水しました。

パブリックドメインQ

3)「ローマ化」は正義?

 ローマ帝国は征服地に高度な文明を伝え、とりわけ都市的な生活文明については、ロンドン、パリ、ウィーン、ケルンなど今日のヨーロッパの主要都市はいずれもローマを起源とし、ヨーロッパ各地に水道橋・円形闘技場・公共浴場の遺跡が残ります。

 これまで歴史学者はこうした現象を「ローマ化」と呼び、ローマ帝国の歴史や意義を肯定的にとらえる傾向がありました。

 しかし20世紀末の「ポストコロニアル」の立場から、「ローマがヨーロッパ各地を文明化した」という言説は、特に大英帝国帝国主義植民地主義の「ヨーロッパが未開の地域を文明化するのは正義」という言説を正当化するために用いられてきた、という批判が起きました。

 ローマが支配のために文明を使ったのは間違いないですが、現在はそれをどう受容するかは属州の在地有力者の判断に拠ると考えるようになっています。これは帝国主義支配を植民地の現地エリートの主体性から再考する最近の動きに通じます。

ローマ文化の地中海世界への伝播やポンペイの様子がわかります。

www2.nhk.or.jp

4)エトルリア文化

 エトルリアは、紀元前10世紀頃から花開いたヴィッラノーヴァ文明に端を発し、前7世紀末ごろからイタリア中部の現在のトスカナ地方に12の都市国家を建設し、ゆるやかな連合を形成していました。

 王政ローマの7人の王のうち最後の3人はエトルリア系とされています。

 ギリシアとは異なる独自の文化をもっていましたが、鉄などの交易で結びついていました。高度な建築技術はローマに受け継がれたといわれます。

 ローマが強勢になる紀元前3世紀にはエトルリア人都市国家もローマの支配下に入りましたが独自の文化は保持していました。ダンテの故郷であるトスカーナ州は「エトルリア人の土地」という意味です。

Brooklyn Museum  no known copyright restrictions

まとめ

  • 古代ローマの文化はギリシアの文化の影響を強く受けている
  • 法律、建築など支配にかかわる文化は高度で、建築は地中海各地にローマ様式が分布し、法律はヨーロッパの中世・近代に引き継がれた
  • 属州がローマの文化をどう受容したのかは、最近は現地エリートの主導権や選択を評価する傾向にある

次回はキリスト教