ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

自宅待機中の自習プリント(戦間期のヨーロッパ②)

はじめに

 緊急事態宣言が解除されて高校は平常に戻りましたが、三年生の今の時期の世界史は、覚えることが多いうえに入試頻出です。

 今回は「戦間期のヨーロッパ」の整理、後編です。

 今回の問いは「全体主義の出現、アメリカとソ連の成長」です。

ベースとなる参考図書 

教科書(実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社

資料集(帝国書院、浜島書店)

一般書(山川出版社『詳説世界史研究』『世界近現代全史』『もう一度読む世界現代史』、ミネルヴァ書房『西洋の歴史近現代編』『大学で学ぶ西洋史近現代編』)

図版は断りがない場合はウィキメディアコモンズパブリックドメインのものです。

マストアイテム アメリカ合衆国の空前の繁栄

目次

 

3 全体主義の出現

⑥ イタリア

戦勝国ながら領土拡大不成功

北イタリアでの工場占拠…社会党左派(後のイタリア共産党)が指揮

(19    )党…指導者[20     ] 全体主義 暴力による左翼攻撃

1922年 (21    )進軍…黒シャツ隊のデモ

 国王、ムッソリーニを首相に指名

ファシスト政権の統治

 1924年 フィウメを獲得…大戦終了直後に占領するが失敗

 1927年 (22      )の保護国

 1928年 ファシスト大評議会を国の最高機関にする

 1929年 (23      )条約の締結…ローマ教皇と和解

ファシズム体制の特徴

 大衆動員の積極的利用  社会事業や国内開発の推進

 市民的自由や人権を無視する国家主義 反対派の弾圧

空欄

19    ファシスト
20    ムッソリーニ
21    ローマ
22    アルバニア
23    ラテラノ

補足

① ファシズムは誰が求めたの?

 イタリアは戦勝国として講和会議に臨みましたが要求はあまり実現せず、国粋主義者の詩人ダヌンツィオとその義勇兵が勝手にフィウメを占領するなど、ヴェルサイユ体制に不満を持つものもいました。

 1919年の総選挙では社会党カトリック系の人民党が躍進し、農村では社会党系の農民組合が日雇い農業労働者を組織して土地の公有化を掲げ、ミラノやトリノではグラムシらのイタリア共産党が台頭、工場主のロックアウトに対して労働者が工場を占拠するなど騒乱が相次ぎました。

 同じ頃、参戦を主張して社会党から離れ独自の国粋主義的運動をしていたムッソリーニは、復員兵士やサンディカリスト帝国主義①を参照)を集めて「戦闘ファッシ」を結成しましたが、最初はあまり支持は得られませんでした。

 しかし農民運動に恐怖を感じた地主が武装行動組織(農村ファシズム)を作り、復員兵士や社会主義に反発する中間層を巻き込んで暴力沙汰に発展しました。これが都市にも波及すると、ムッソリーニはこの暴力を政治的運動に結集しようと考えました。

 ムッソリーニは各地のファシスト勢力を糾合して1921年に全国ファシスト党を結成、1922年に約2万人のファシスト武装隊(黒シャツ隊)を率いてローマに進軍しました。内閣は戒厳令の布告を決めますが国王は拒否、ムッソリーニに組閣を命じました。

ムッソリーニと行軍するビアンキ党書記長および黒シャツ隊 出典    Illustrazione Italiana、1922、n。45

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 こうしてムッソリーニ社会主義をつぶす指導者として地主や旧軍人・軍部の支持を受け、政権の座につきました。

 ムッソリーニは選挙の第一党に議席の3分の2を与えるという法律を可決させ、総選挙では黒シャツ隊(ムッソリーニが国軍に組み込んだ)を使って他党の選挙活動を公然と妨害し、圧勝しました。

 その後国民の基本的人権を取り上げ、ファシスト以外の政党を解散させ、検閲や秘密警察で反対派を厳しく抑圧しました。1928年には党の一機関に過ぎない「ファシスト大評議会」を国権の最高機関にして、ムッソリーニの個人独裁体制が完成しました。

 内政では、独裁政治のおかげで治安は改善しました(マフィアも抑え込んだ)。また経費を節約して財政の均衡をはかり、工業にてこ入れをし、干拓事業をすすめました。その結果失業者は減り、食料の自給自足も可能になりました。
 他には全国余暇事業団(ドーポラヴォーロ)など様々な社会事業組織が安価な旅行、娯楽、母性保護、衛生予防、青少年の課外活動などを提供することで国民の支持を取りつけようとしました。

 ムッソリーニは若さを演出して肉体を誇示し、家長としてのイメージを振りまいて国民との近さを示しました。これは従来の政治家にはないスタイルでした。

 外交ではフィウメ併合やアルバニア保護国化でナショナリズムを刺激し、1929年に教皇庁と和解して(ラテラノ条約)カトリック教会の支持を取りつけました。

 このようにムッソリーニは国民が一丸になって危機を克服することを唱え、そのために指導者に権力を集中し、「国家の敵」とみなされるものを排除し、国民の福祉向上に責任を持つ代わり国民生活を規制する体制を作ります。これを全体主義ファシズム(ファッショは「束」のこと)といいます。

 地主・資本家はファシスト党共産主義退治に利用できると考え、労働者・労働組合を敵視する中間層(所属するものを持たない)はリベラル議会制民主主義より強力な指導者に明日の生活を託します。

*自分よりも格下(と勝手に思っている)人々が団結して権利を求めることを嫌悪し、そういう団体にヘイトを浴びせる団体(でもお金持ちには何も言わない)が…あ、誰か来たようだ。

 

4 ソ連社会主義

⑦ ソヴィエト連邦

1922年 (24     )条約 ドイツと国交回復

→列国のソ連承認:1924 英・仏、1925 日本(北樺太撤兵)、1933 米

1924年 レーニン死去

 [25     ](一国社会主義論)と[26     ](世界革命論)の対立

スターリンが勝利 トロツキーはメキシコで暗殺される

1928年 第1次(27      )

 重工業化の推進,農業の集団化

 集団農場(28     )・国営農場(29     )

 反対者を逮捕・投獄 生産物の強制供出→農民に多くの餓死者発生

1933年 第二次五か年計画 消費財の生産

1936年 スターリン憲法

 全市民の平等な諸権利を定めるが言論の自由などは守られず

スターリンの個人崇拝 反対派などの逮捕・処刑(大粛清

空欄

24    ラパロ
25    スターリン
26    トロツキー
27    五カ年計画
28    コルホーズ
29   ソフホーズ

補足

① 「スターリンは書記長から外すように」byレーニン

 1921年から新経済政策が始まり、ソ連の経済は徐々に回復します。1921年から22年にかけては農村で飢餓が発生しますが、経営に成功した富農(クラーク)が出現しました。国営のままで残った大規模工場でも独立採算制度が導入されました。

 一方レーニンは党内での分派活動を禁じ、党員の行状をチェックして異分子を追放、また党に批判的な知識人をソ連から追放するなど政治的締め付けを強化しました。

*発展:ネップは社会主義の体制を維持しながら市場経済を許容するので、中国や「社会主義市場経済」やベトナムの「ドイモイ」のモデルですが、新史料の公開に伴って、ネップの時代も政治警察の監督は厳しく、農民は穀物を売り惜しみして都市や赤軍への穀物供給は不安定だったことが指摘されています(『詳説世界史研究』)。

 1923年にレーニンは脳溢血を発症、一年間廃人状態のまま1924年に53歳の若さで亡くなります。レーニンは党と政府に関する遺言状を口述し、スターリンを書記長から外すよう指示しましたが(スターリン没後に公表)、その後の後継者争いではスターリントロツキーを抑え込みます。

 十月革命で活躍したトロツキーでしたがメンシェヴィキからの転向組、党の方針どおり世界革命論を唱えていましたが、ハンガリーやドイツで革命が失敗する一方、ネップが軌道に乗り周辺諸国との関係改善が進む中で、スターリンが唱える一国社会主義の方が党員にとっては現実路線に思えました。

 スターリントロツキーら反対派を政治局から追放し、権謀術数を駆使して書記局と中央委員会を自派でかためました。

コミンテルンも変質し、加盟各国共産党ロシア共産党出先機関のように扱ったので、民族主義者のホー・チ・ミンコミンテルンで疎まれました。

② 重化学工業のユートピアディストピア

 しかし一国で社会主義を実現するためには、いつどうやって工業化を進めるのか、都市労働者の穀物をどう調達するのか、すなわち農民をどうするのかが課題です。

 トロツキージノヴィエフは急速な工業化を達成するためにネップの廃止を唱え、一方ブハーリンは農業国ロシア(しかも国際社会で孤立している)が工業化するためには穀物輸出で資金を調達するしかないので、農民や農業を重視してネップを継続することを主張しました。

 スターリンはネップで経済が復調していることを背景にトロツキーたちを追放しましたが、1927年に穀物調達が急落すると(イギリスがソ連と断交して国際関係に緊張が走ったので農民が売り惜しみをした)一転して急速な工業化に路線変更、ブハーリンを追放して農業の集団化をすすめました。

 これが1928年から始まる第一次五か年計画で、工業生産250%増、鉄鋼生産高3倍増、石炭同2倍増と法外な目標が設定されました。

 農村では内戦期のような高圧的な方法をとって農民をコルホーズソフホーズに駆り立て、抵抗する農民には富農(クラーク)のレッテルを貼り、財産を没収してシベリアに追放しました。

 農民から強制的に穀物を徴発することが自己目的化し、1932年末までに農民世帯の60%が集団化されたといわれていますが、1933年の飢饉では数百万人の死者を出すなど、農業の集団化は農民に計り知れないほどの犠牲を強いました。

 しかしこのような実態は西欧には伝わらず、重工業化が進む様子だけが宣伝されたので、世界恐慌にあえぐ資本主義世界にはソ連は「重化学工業のユートピア」、社会主義の計画経済の優位が実証されたように映りました。

*実際に重工業化は推進されましたが重工業偏重で消費物資やサービス部門の劣悪化を招きました。また世界恐慌で資本主義国がソ連との貿易を求めたことが工業化に有利に働きました。

 こうして五か年計画を通じて都市労働者、農民が国家に縛り付けられました。言い換えると「共産党」=「国家」=「経済」、かつ「働く」=「国家に貢献する」=「社会主義ユートピアを実現する」なので、共産党が国民を指導し、国民生活すべてを管理し、従わないものはすべて国家の敵とみなす、という図式が生まれました。

*発展

 「ホロドモール」とは1932年から1933年にかけてウクライナ各地域でおきた人工的な大飢饉のことです。

 ウクライナソ連の共和国ですがロシアとは違う伝統があります。穀倉地帯といえども課せられた収穫高の達成は困難で、更に当局による厳しい食料徴発に耐えられず、不満が噴出しました。

 ソ連はこれを危険視し、食料を徹底的に奪い取って人工的に飢饉を起こしました。しかも当時ソ連は五か年計画の成功を宣伝していたので飢饉の存在を認めず、国際支援を断りました。2006年にウクライナ議会は、これを「ウクライナ人に対するジェノサイド」であると認定しました。

飢饉の様子。アレキサンダーウィーナーバーガーさんの撮影 ウィーン主教区アーカイブ 著作権失効によりパブリックドメイン

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映画

www.akaiyami.com

「重化学工業のユートピア」は石井規衛先生の受け売りです

③ 大粛清

 スターリン個人の権力が強大化する中で、彼はその支配権を確実にするため大量の人々を逮捕し処刑しました。

 最初はジノヴィエフブハーリンなどレーニン時代からの古参の幹部らが自白と公開裁判で粛清されました。さらに赤軍の幹部もドイツと通じた反革命陰謀の罪を着せられて処刑されました。

 党員以外にも官僚や労働組合の指導者、学者やジャーナリスト、一般市民までが粛清の対象にされました。

 人々の間には猜疑心と相互不信が広がり、党員は粛清を避けるためにスターリンにゴマを擦り(その代表がフルシチョフ)、市民は密告をおそれて国家の命令に服従する、人間を卑屈にしてスターリン個人を崇拝させる体制が完成しました。

*自分は死にたくないスターリンは暗殺をおそれて寝室への通路が迷路みたいにしてあり、脳卒中を起こしたときに発見が遅れて死亡したそうです。(´・ω・`)

葬儀屋さんサイトのエッセイ
www.miyabi-sougi.com

 

5 アメリカ合衆国の繁栄

⑧ アメリカ合衆国共和党三代大統領のもと「永遠の繁栄」

(1) 対外関係

大戦によって債務国から(30    )国へ転換

→国際金融市場の中心がニューヨークの(31     )街へ

伝統的孤立主義も自国の利害に関することには積極的に発言

 国際連盟には不参加

 ワシントン会議軍縮と中国市場の機会均等

 ドイツの経済復興

 →英仏の戦債返済免除要請を拒否 ドーズ案(クーリッジの時)

 保護関税政策採用→世界の富が合衆国に集中

(2) 国内の動向…大衆社会の到来

1920年 男女平等選挙権

共和党政権…ハーディング・クーリッジ・フーヴァー

大衆文化

 自動車((32    )T型)、家電製品の普及

 大衆娯楽…(33    )放送・映画・ジャズ・プロスポーツ

伝統的白人社会(WASP)の価値観の危機

プロテスタント的価値観の肥大化

 禁酒法1920年) 進化論教育の否定

人種差別・排外主義

 (34         )の復活…黒人・カトリック系移民・ユダヤ人への暴行

 サッコ・ヴァンゼッティ事件…イタリア系移民の冤罪事件

 1924年 (35    )法(排日移民法

  日本を含むアジア系移民の禁止 南・東欧系移民の国別人数制限

空欄

30    債権
31    ウォール
32    フォード
33    ラジオ
34    クー=クラックス=クラン
35    移民

補足

① 大衆社会の到来

 第一次世界大戦アメリカ合衆国は連合国に兵器やその原料を輸出し、大きな利益を上げました。戦場の食糧としての缶詰の大量生産も始まりました。

 この結果合衆国は借金を完済し、逆に英仏に金を貸す債権国になり、戦後金融の中心はロンドンのシティからアメリカのウォール街に移りました。

 また狭い敷地を有効活用するために建設された高層建築物(摩天楼)は、好景気に沸き替えるアメリカの象徴でした。しかしビルや地下鉄の建設は過酷で、移民や黒人(大戦中の人手不足で北部に移住)の低賃金労働が支えていました。

ニューヨークの摩天楼の様子。卒業生提供。

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 1920年代は新しい産業の発達が好景気を支えました。中でも目覚ましかったのが自動車産業で、ヘンリー・フォードは大量生産によって自動車を大衆の乗り物にしました。自動車の普及によって道路が整備され、遠距離通勤が可能になり、郊外に住宅が建設されるようになりました。

椙山女学園大学の学生さんのまとめ動画 なおフォードは20年代後半にモデルチェンジを積極的に行ったゼネラルモーターズに抜かれますが、フォードはユダヤ人嫌いで、ユダヤ系の多いとされたニューヨークの銀行から融資を受けるのを拒否したので、事業拡大に限界があったのが理由のひとつと言われています。


www.youtube.com

 家庭電化製品も開発されて家事労働が劇的に変化し(特に冷蔵庫・掃除機・洗濯機)、ラジオ・映画・スポーツの普及で大都市を中心に大衆文化が発達しました。

1910年頃の洗濯機のポストカード 出典:eBayストアのWebページ 著者:不明 パブリックドメイン

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 戦争中の女性の活躍と家事労働の軽減が相まって女性の社会進出が強まり、「フラッパー」と呼ばれる、新しいファッションや生活スタイルを好んだ女性が出現しました。

 彼女たちは膝丈の短いスカート、ショートヘアのボブカット、ジャズ音楽などを好み、濃いメイクをしてドライブ、酒・たばこ、デートを楽しみました。

ジョーン・クロフォード。米国議会図書館のジョージグランサムベインコレクション。図書館によるとこの作品の使用に関する既知の著作権制限はありませんのでパブリックドメイン

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この時代ジャズの音楽に乗って激しく踊る「チャールストン」が流行しました。youtube1920年代のものもありますが著作権的に疑問があるので、安心安全のBBC公式を貼っておきます。


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② 革新主義と保守的傾向のせめぎあい

 大戦中に8時間労働制や男女同一賃金が導入され、1920年には女性参政権が認められる一方で、愛国心が高揚し、反戦運動労働組合運動は厳しく取り締まられました。

 20世紀初頭の革新主義は大企業の独占や政治家の腐敗を追究して中間層の支持を得ましたが、大戦中の挙国一致ムードの中で方向性を失い、1920年代になると排外主義や人種差別などのヒステリカルな「不寛容」に陥ります。

 クー・クラックス・クランが西部や南部の農村や小都市で復活しました。都市と農村の格差は広がり、繁栄から取り残された人々は都会の消費生活をうらやむ一方、それがアメリカの古き良き伝統を蝕んでいる、その元凶は黒人、カトリック系移民、ユダヤ人だと決めつけて攻撃しました。

 移民や社会主義への偏見からおきた事件がサッコとヴァンゼッティの冤罪です。

 1920年、彼らは証拠不十分のまま殺人事件の容疑者として逮捕され、十分な審理もされずに死刑判決を受けました。ふたりがイタリア系移民で、アナーキストであったことが裁判官や陪審員の印象を悪くしたことが原因とされています。

 これに対して合衆国やヨーロッパ各地で大規模な抗議行動が発生しました。しかし1927年にふたりは電気椅子で処刑され、この裁判が人種差別や偏見に基づく不当判決だとが認められるのは実に50年後、1977年のことでした。

サッコとヴァンゼッティの再審を求めるデモ。英国の匿名の著者による写真のはがき。70年経過しているのでパブリックドメイン

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 禁酒法憲法修正第18条)は1917年に可決、州の批准を経て1920年に全国で施行されました。すでにいくつかの州では批准の前に州法として立法化していました。

 禁酒運動は19世紀以来福音主義の影響を受けた女性たちによって取り組まれていました(キリスト教婦人禁酒同盟)。大戦中に立法化されたのは、ビール業者の多くがドイツ系だったこと、飲酒にふける移民や黒人労働者に対する白人中間層の反感が背景にありました。禁酒運動も排外主義や人種差別の一面といえます。

 しかし法律はザルで違法酒場や密造が横行、マフィアの資金源にもなり、1933年に廃止されました。

違法な酒造所の強制捜査後にニューヨーク市警関係者立会いの下、捜査員によって下水道に廃棄される密造酒。最初の公開が1926年1月1日より前に行われたので米国のパブリックドメイン

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:5_Prohibition_Disposal(9).jpg

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まとめ

  • イタリアのファシズム社会主義を嫌悪する地主、資本家、中間層の暴力行為をムッソリーニが政治的に組織化したことにはじまる
  • ファシズムは敵を攻撃する一方国民生活の改善にも配慮して、国民の支持の上に国民生活を規制し思想の自由を弾圧した
  • 実務家で現実路線のスターリンは教科書通りの社会主義を目指す他の幹部に対して一国社会主義を提唱して支持を集め、反対派を排除して権力を握った
  • 五か年計画は「社会主義ユートピア」を建設することを大義にして人々を動員し、実際に工業化は実現するが、農民の犠牲は甚大だった
  • 猜疑心の強いスターリンは反対派だけでなく同志までも次々と処刑した
  • アメリカ合衆国第一次世界大戦のおかげで空前の発展を遂げ、大衆社会が実現したが、拡大する移民労働者や黒人労働者をおそれて排外主義や人種差別的な傾向が広がった