ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

世界史文化史直前チェック(古代ギリシア・ヘレニズム)

 授業では飛ばされがちなのに入試では出題される文化史、今回はギリシア編です。

 その学問や信仰はヨーロッパの教養の源であり、ルネサンス以降の文化のモチーフになっています。私たちにとってもこの時代の思想は心にグサッと刺さる、普遍的な内容を含んでいます。

 補足は政治史の補強になる部分が中心です。トロイア戦争ギリシア悲劇やオリンポス12神が好きな人はご自分でお調べください。

 世界史B・世界史探究の教科書(実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、ミネルヴァ書房『大学で学ぶ西洋の歴史 古代・中世編』『論点・西洋史学』、第一学習社の倫理の資料集を参考にしています。

 使用している画像はパブリックドメインのものです。

目次

 

1 古代エーゲ文明

① エーゲ文明…青銅器文明

クレタ文明(ミノア文明)

 時代    前2000~前1500 民族    不明 

 場所    クレタ島

 遺跡    (1     ) 宮殿 線文字A(未解読)

 政治    強力な王権が海上交易の富で周辺海域に影響力を持つ

 発掘    [2      ]  

ミケーネ文明

 時代 前1600~前1200 民族   (3     )人

 場所 ミケーネ、(4     )、ピュロス

 遺跡 獅子門 線文字B:[5       ]解読

    エーゲ海域にミケーネ文明の痕跡…小アジアトロイア文明

 政治   貢納王政…周辺地域から貢納を取る 対外進出

 発掘      [6      ]…トロイア文明も発掘

空欄

1 クノッソス
2 エヴァンズ
3 アカイア
4 ティリンス
5 ヴェントリス
6 シュリーマン

補足

1)エーゲ文明

 伝説の王(ミノス王 ミノタウロスの伝説)の名にちなむミノア文明は、出土している絵文字文書や線文字A文書が未解読なため、言語や民族系統が明らかではありません。城壁を持たない壮大な宮殿から、海洋貿易の富を持つ強力な王権が周辺海域に影響力を及ぼしていたと推察できます。

 ミノア文明は火山の噴火や地震によって打撃を受け、紀元前1400年頃にクノッソスの宮殿が炎上すると、衰退の一途をたどりました。

 クノッソス宮殿の王座の間。©遠藤 昂志さん撮影。CC 表示-継承 4.0

commons.wikimedia.org

蛸が描かれた壺。パブリックドメイン

 ミケーネ文明の遺跡であるピュロスから大量に出土した文書を解読した結果、線文字Bはギリシア語であることがわかり、そこからミケーネ社会の様子がうかがえます。

 文書によると、ピュロスでは中央集権的な支配組織の頂点に「ワカナ」という王がいて、中央と地方それぞれに役人組織があり、それを通じて物資がやりとりされていました。地方役人の補佐役には現地の有力者が選ばれていました。

 昔の教科書ではこれを「貢納王政」と書いてありましたが、探究の教科書ではその用語は使われていません。「貢納」とはニュアンスが違うからでしょう。

獅子門 シュリーマンの発掘の様子。ライオンはかつては西アジアで広範に生息し、王の権威を見えつけるために狩猟の対象にされました。パブリックドメイン

 ミケーネの宮殿は紀元前1200年頃に大炎上・倒壊し、以後再建されませんでした。世界史の教科書には「海の民」の侵入説が載っていますが、現在は複数の原因が考えられていて衰退の理由には決着がついていません。

2)ギリシア人妻に『イリアス』暗唱を強要したシュリーマン

 ハインリヒ・シュリーマンは説教師の家庭に生まれ、ロシアで商社を立ち上げクリミア戦争で大きな利益をあげました。事業をたたんだあとオスマン帝国で遺跡の発掘をはじめ、1873年トロイアの遺跡を発掘しました。

 彼は自署『古代への情熱』で、幼いときに読んだ『イリアス』の思い出話や、独学で15カ国語を学んだことを熱く語っていますが、彼は発掘の専門家ではなく、発掘品を無断で持ち出したり、遺跡に損傷を与えたりと、当時は考古学が確立していなかったとはいえ褒められたものではありません。

 また若いギリシア人女性と再婚し、客人の前でギリシア語で『イリアス』の暗唱を強要したため、妻がノイローゼになったとNHKの『地球ドラマチック』で観ました。モラハラ夫です。(´・ω・`)カワイソス

 後の発掘の結果トロイアの遺跡は全9層からなり(下から1層)、彼が発掘したのは第2層、トロイア戦争があったとされるのは第7層と推定されます。遺跡には文化的な断絶もあり、同じ場所に違う集団が入れ替わりながら居住していた可能性があります。

 結果的にシュリーマンの情熱はトロイア戦争の解明ではなく、エーゲ海域では古くから様々な集団が文明が築いていたことを明らかにしました。

2 ポリス形成期

① ポリスの形成

前12世紀 「暗黒時代」(文字資料がない)

 鉄器、(7     )が伝来

ギリシア人の形成

 (8     )人:スパルタ  ペロポネソス半島

  穀物自給可能 ポリスなし 独自の国政(リュクルゴスの制

 (9     )人:アテネ アッティカ半島~小アジア

  オリーブやブドウ栽培 海外に植民市建設

 アイオリス人 :テーベ

前8世紀  有力者の元に(10     ) (シノイキスモス

→(11      )(都市国家)の形成

 (12       ):城山  (13     ):広場…集会・交易

耕地を巡って抗争、一部のものは海外へ移住(植民市)

 (14      )…黒海 現イスタンブル

 (15      )…地中海 現ナポリ

 (16      )…現マルセイユ

 シラクサシチリア島)、タレントゥム(イタリア半島南部)

同族意識・共通の文化

 自らを(17     )  言葉の通じない人を(18     )

 (19       )12神…人間の姿をして喜怒哀楽を持つ

 (20    )のアポロンの神託…

 オリンピアの祭典 ホメロスの詩

空欄

7 アルファベット
8 ドーリア
9 イオニア
10 集住
11 ポリス
12 アクロポリス
13 アゴ
14 ビザンティオン
15 ネアポリス
16 マッサリア
17 ヘレネス
18 バルバロイ
19 オリンポス
20 デルフィ

補足

 アルカイック期(前8世紀~民主政が完成する頃)の壺。彩色はオリエントの技法の影響を受けています。

 この時代の彫像。口元だけちょと笑ったようにみえます。これを「アルカイックスマイル」と呼び、飛鳥時代弥勒菩薩半跏思惟像もそう呼ばれることもあります。

② ポリス成立期の文化

*神がみと人間の関わりをうたう

叙事詩

 [1     ](前8世紀)

 『(2    )』トロイア戦争 『オデュッセイアトロイア戦争の後日談

 [3     ](前8世紀末)

 『神統記』神がみの系譜 『(4     )』勤労の貴さ

叙情詩

 [5      ](女性詩人)、アナクレオンピンダロス

空欄

1   ホメロス
2   イリアス
3   へシオドス
4   労働と日々

5   サッフォー

補足

1)ダメ弟に出し抜かれたヘシオドス

 ヘシオドスは、前700年ごろの古代ギリシアで活動した実在の人物で、神々の系譜を整理した『神統記』や労働の大切さをうたった『労働と日々』を残しています。

 彼の生きた時代はポリスの形成期で貴族が街を支配し、植民活動も行なわれていた頃です。『労働と日々』は仕事をしない弟に働くことの大切さや種まきの時期などを語った実用書で、当時の中小農民の様子を反映しているといえます。

 しかし父が死んだ後、弟が貴族に賄賂を渡してヘシオドスより多めに土地を相続したため、ヘシオドスの詩には貴族の不正な裁判や賄賂などを批判する部分が見られます。こうした平民の不満が後のドラコンの立法(慣習法の成文化)などの権利獲得闘争につながったのかもしれません。

 

世襲・コネ政治はダメ、絶対!

 

マルウエアのことを「トロイの木馬」というのはここから。

② 民主政完成期(前5世紀)

*演劇の発達。祭典で悲劇・喜劇を上演 哲学や歴史の出現

三大悲劇詩人

 [6      ]『アガメムノントロイア戦争の英雄の愛憎劇

 [7      ]『メディア』女王メディアの夫への復讐劇

 [8      ]『オイディプス』父を殺して母と結婚する

喜劇

 [9      ]『女の平和』『女の議会』→ペロポネソス戦争の風刺

イオニア自然哲学…ミレトスを中心に発達。自然現象の合理的解釈を追求

 [10      ] 「哲学の父」 万物の根源を水とし日食を予言

 へラクレイトス 万物の根源を火とする 「万物は流転する」

 [11      ] 数学者 万物の根源を数とする

 [12      ] 万物の根源は等質不変の原子(アトム)

 医学…ヒッポクラテス:病気の原因を科学的に究明,「医学の父」

 (13      ) 民主政完成期に弁論術を教える

 →[14      ] 万物の尺度は人間

三大哲学者 ギリシア哲学の完成

 [15      ] 絶対的真理の存在を説く 民衆裁判で刑死

 [16    ] イデア論 『国家論』哲人政治を主張 アカデメイア開設

 [17      ] 諸学を集大成 『政治学』『アテネの国制』

  アレクサンドロス大王の家庭教師 リュケイオンを開設

  その思想は中世のスコラ学に影響

歴史

 [18      ]『歴史』でペルシア戦争を物語的に叙述

 [19      ]『歴史』でペロポネソス戦争を批判的に叙述

建築

 (20      )神殿 荘厳なドーリア フェイディアスが監督

空欄

6   アイスキュロス
7   エウリピデス
8   ソフォクレス
9   アリストファネス

10  タレス
11  ピタゴラス
12   デモクリトス
13   ソフィスト
14   プロタゴラス
15   ソクラテス
16   プラトン
17   アリストテレス
18   ヘロドトス
19   トゥキディデス
20   パルテノン

補足

1)観劇したら手当てがもらえる?

 ポリスには扇型の劇場(オルケーストラ (orchestra))が建てられ、市民が集まる祭典で悲劇・喜劇が競演されました。特に悲・喜劇は前5世紀(民主政完成期)のアテネで発達しました。

 演劇はポリスの公的な行事で、男性の役者三人が仮面(ペルソナ=パーソナリティの由来)をつけて複数の登場人物を演じ分けました。

ハドリアヌス帝のヴィッラのモザイクに描かれた悲劇および喜劇用の仮面 2世紀

commons.wikimedia.org

 ペルシア戦争で三段櫂船の漕ぎ手として下層市民(武器が買えずに重装歩兵に参加できない)が活躍すると、アテネでは貧富の差に関わらず成年男子市民に参政権が与えられました。

 とはいえ貧富の差は存在するので、下層市民の政治参加を促すために民会や裁判の出席に手当てが支給され、さらに観劇にも手当てが支給されました。

 アテネでは市民とはポリスを守る戦士のことです。手当てを出して神話を題材とした演劇を鑑賞させて、貧富の差を縮小すると同時に下層市民に「ポリスの市民」という意識を植え付ける作戦です。

 またペリクレスは公共事業を行って下層市民に日当を与え、民主政の基盤を固めました。その代表例がパルテノン神殿で、ペルシア戦争で破壊された後、ペリクレスの時代に再建されました。

 ただしこれら資金の出どころはアテネデロス同盟のポリスから集めた貢租金で、ペリクレスはこれをアテネの国庫に流用しました。対ペルシア戦争の積立金をアテネへの貢納のように扱うペリクレスに対して同盟国が反発、ペロぽネス戦争が発生します。

 

 税金は国民から「お預かり」しているのであって「吸い上げた」のではないですよ!

 

 パルテノン神殿は6世紀にはキリスト教の寺院になり、オスマン帝国ギリシア支配下に置くとのモスクに転用されました。その後オスマン帝国の火薬庫に使われていたのが17世紀にヴェネツィアとの戦争で爆発大破、19世紀に美術品が持ち出されて大英博物館に売り飛ばされました。「世界遺産」の名にふさわしい紆余曲折です。

 パブリックドメインQより

2)衆愚政治が三大哲学者を産んだ?

 ペルシア戦争後のアテネでは市民の政治参加が進み、市民であれば誰でも民会で演説することができました。また裁判では陪審制が確立しました。

 このため政治や訴訟で自分の主張を通すためには言葉の力が必要になりました。そこで言葉による説得の技術を教える職業教師、いわゆる「ソフィスト」が登場し、民主政完成期の紀元前5世紀半ばから紀元前4世紀にかけて活躍しました。

 彼らは「絶対的な正義や真理のような客観的で普遍的な価値基準は存在しない」という(『相棒』の小野田官房長のような)相対主義の立場を取り、初期にはプロタゴラスゴルギアスのような思想家もいましたが、次第に弁論に勝つことだけを重視するものが増えました。

 それを批判して、人々との問答を通じてすべての人に通用する普遍的なものを求めたのがソクラテスです。彼はそれを「徳」と呼び、それは本当によいことや正しいことが何かを知ることで得られ(知徳合一)、それによって正しい行為ができる(知行合一)と考えました。

 彼の問答は相手を論破してマウントを取ることが目的ではなく、対話を重ねることで相手に相手自身の無知を自覚させ、より根本的な知の探究に導こうとするものです。

 しかし彼はアテネの政争に巻き込まれ、国家の神々を否定して青年を堕落させたとして裁判で死刑を宣告され、毒杯を仰いで刑死しました。ソクラテス自身は著作を残しませんでしたが、彼の言葉は弟子のプラトンの著作から知ることができます。

 「ダエモンdaemonとはソクラテスの態度決定においておおむね禁止の形で現れる内的な神の声、心の奥からの警告で、これが「国家の神々を否定する」とされました。メールアドレスを間違うと「daemon」さんからお返事がきます。

ダヴィドの『ソクラテスの最期』

 ヴァチカンにあるラファエロの『アテネの学堂』は古代ギリシアの学問の見取り図になっていて、中心にプラトンアリストテレスがいます。

 プラトンが天井を指さしているのは「イデア論」(現実の世界とは別に永遠に変わることのない真理の世界がある)を表わし、一方アリストテレスは手のひらで地面をかざしているのは、本質は現実の事物に内在している(形相と質料)という彼の思想を表わしています。「人間はポリス的動物」も現実主義の彼ならではの言葉です。

 そして二人はルネサンスの二大巨匠、レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロの姿で描かれています。また数学で有名なピタゴラスとエウクレイデス(画面向かって右で図形を書いている)が対称に描かれているなど、それぞれの哲学者たちの位置にも意味があります。

③ ヘレニズム時代

*共通語はアッテイカ方言を中心とするギリシア語(21     ) 

自然科学が発達…アレクサンドリアの(22      )が学問の中心

 [23     ] 平面幾何学を大成

 [24     ] 物理学で浮体の原理,数学で円周率

 [25     ] 太陽中心説→地動説を説く

 [26     ] 地球の子午線の長さを測定

哲学

 (27     )派 世界市民主義的な精神的禁欲主義 ゼノン

 (28     )派 個人主義的な精神的快楽主義 エピクロス

彫刻

 『ミロのヴィーナス』『ラオコーン』『サモトラケのニケ

空欄

21   コイネー 
22   ムセイオン 
23   エウクレイデス 
24   アルキメデス 
25   アリスタルコス 
26   エラトステネス 
27   ストア 
28   エピクロス

補足

1)快楽とは何か?

 アテネ市民でエーゲ海のサモス島に移住した父のもとで紀元前341年ごろ(カイロネイアの戦い(前338年)の少し前)に生まれたエピクロスは、18歳の時にアテネで兵役に就いた年にアレクサンドロス大王が病没、それを機に各地で反マケドニア運動が発生しますが失敗します。これを目の当たりにしたエピクロスは政治に失望し、公共の世界から遠ざかって思索にふけるようになりました。

 彼が人生の目的として追求すべき最高善(幸福)は快楽を得ることだとします。それで道楽にふけって人生を楽しむ人を「エピキュリアン」と呼ぶのですが、彼のいう快楽とは身体に苦痛がなく精神に動揺がないこと(アタラクシア)であり、それを実現するに公共の場から「離れて生きる」ことを理想としました。

 東方遠征開始の年(前334年)にキプロス島に生まれたゼノンは染料の職人でしたが船が難破して30歳ごろアテネにたどり着いたといわれます。彼はそこで哲学を学び、紀元前300年ごろアテネの「ストア・ポイキレ」(ストアはアゴラにある列柱の回廊のこと)で学校を開いたので、彼の弟子たちはストア派とよばれます。

 ストア派も人生の目的は幸福ですが、人間の喜怒哀楽(情念、パトス)から自由になった状態(アパテイア アパシーの語源)に達することで幸福が得られるとします。そのためには情念を抑える人間の本性と理性(ロゴス)を一致させて生きる必要があり、健康・名誉・財産はもちろん、生命さえも非理性的な営みと考えます。

 「ストイック」(禁欲的)はストア派のこうした態度にちなんだ言葉です。

 二人はポリスが衰退した時代の人です。ギリシア人はマケドニアの支配のもとポリスを超えた巨大な国家の一員(コスモポリタニズム)に組み込まれる一方、これまでの「ポリスでの栄達」が意味を失い、個人の内面的な自由や平安を幸福と考えるようになりました。二人の思想は時代背景のたまものです。

 まあ日本の経営者が「グローバル化」を口実に雇用や給与を不安定にすれば、社員が会社への帰属意識をなくして当然です。

2)ローマ軍を悩ませたアルキメデス

 アルキメデスは紀元前2世紀のシラクサで活躍しました。

 「浮力の原理」は彼が登場する有名な説話です。ある日シラクサ王は、発注した純金の王冠に職人が銀を混ぜて金をちょろまかしたのではないかと疑いました。

 金より比重の軽い銀を混ぜてあれば重さは同じでも体積が大きくなると考えたアルキメデスは、王冠を水につけてあふれた水の体積を発注した純金のそれとを比較し、職人のちょろまかしを見破りました。

 彼が風呂でこれに気づいて裸で走り出したという話も加えて興味深い説話ですが、彼の著作には流体静力学の考察があり、実際はそれを用いたのかもしれません。

 アルキメデスは他にも面積の計算方法、スクリューポンプ、カタパルトを考案し、第二次ポエニ戦争では攻城機を作ってローマ軍を悩ませましたが、自宅前の地面で図形を書いて考えている最中にローマ兵に殺されてしまいました。

 数学者に送られるフィールズ賞のメダルはアルキメデスが描かれています。

 ステファン・ザコウさん提供 パブリックドメインの画像

3)ヘレニズム彫像 パブリックドメインの画像三種盛り

 ミロのヴィーナス。1820年オスマン帝国が支配するミロ島で農民が発見しました。その後オスマン朝の役人に見つかって没収されますが、それをフランス大使が買い取ってルイ18世に献上しました。

 上半身と下半身の比率はギリシア人の考案した人体を最も美しく表現できる1:1.618の黄金比で構成されています。写真は上半身のみ ルーヴル美術館

 ラオコーン像。トロイア戦争で神の怒りに触れた親子を題材にし、毒蛇に絞め殺される苦悶の表情を表現しています。16世紀に出土し、ユリウス2世が入手して現在はヴァチカンの広場にあります(23年の首都圏私大でこれが正誤問題で出題されてました)。

 サモトラケのニケ勝利の女神が舞い降りてくる姿を表現したもの。ロードス島の人々がセレウコス朝に対する勝利を記念して奉納したと伝えられています。

 最初の発見は1863年で、フランス領事によって胴体部分と片翼の断片が発見され復元されました。ルーヴル美術館蔵。

 ヨーロッパ列強が持ち出した美術品をもとの国が返還請求することは珍しくありません。支配地から入手したは美術品は支配者の権威を見せつける「装置」の役割を果たし、出土した地域ではナショナリズムを高揚させるアイテムになります。

 泥棒はいけません。(# ゚Д゚)

3)ヘレニズム再考

 ギリシア人・マケドニア人がエジプトや西アジアを含む広大な領域を支配する時代(東方遠征(前334年)からプトレマイオス朝の滅亡(前30年)まで)を、19世紀前半の歴史家ドロイゼンは「ヘレニズム時代」と呼び、ギリシア文化が広がって東西文化の融合がなされ、キリスト教を生み出す素地となったと評価しました。

 確かにガンダーラ美術にはギリシア彫刻の影響が見られますし、紀元前3世紀半ばにセレウコス朝から自立したパルティアは、イラン系ながら当初は宮廷でギリシア語を公用語にしていました(23年東京大学で出題)。

 ただヘレニズムの考えは主にギリシア人の残した史料からの認識です。実際にはアレクサンドロス大王はオリエントの信仰を自らの支配の正統性に利用し、ペルシアの政治機構を踏襲しています。ギリシア以外の史料を検討することで、マケドニアとアケメネス朝の相互の影響を考察しようというのが現在の傾向です。

 かつて「スキタイが匈奴に騎馬文化をもたらした」と考えられていましたが、これも「進んだ文化は西から東に行く」という西洋中心主義の思い込みで、近年の発掘で似た文化が同時期に草原地帯全般に見られることがわかっています。

 歴史学は私たちが無条件に縛られていることを可視化し、再考を迫るところが醍醐味です。

まとめ

  • ギリシアの信仰・文芸・哲学はその時々のギリシアの政治状況を反映している
  • 時代の制約が逆説的に普遍性を追及する文化として結実している
  • ヘレニズムを一方的なギリシア文化の拡大と捉えない方がいい
  • 西ヨーロッパの文化はギリシア文化の多大な影響を受けているが、直接引き継いだのではなくイスラームビザンツを経由して受容している

 次回は古代ローマ文化