ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

世界史文化史直前チェック(南アジア)

 入試で重視される割には授業で隅に追いやられがちな文化史、今回は南アジア(主にインド)の文化史です。

 世界史B・世界史探究の教科書(実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、教員向け指導書(山川『詳説世界史』)、ミネルヴァ書房『論点・東洋史学』を参考にしています。

 使用している画像はパブリックドメインのものです。

目次

 

1 インダス文明

成立 青銅器文化 先住の(1      )人説が有力

遺跡 インダス川流域の(2      )(下流 シンド地方)

(3      )(中流 パンジャーヴ地方)

インド西部のロータル・ドーラヴィーラーなど

特色

 沐浴場や穀物倉などをそなえた煉瓦造りの計画都市 城壁や王宮はない

 (4      )文字(未解読)や彩文土器・印章を使用

 菩提樹や牛の信仰 メソポタミア文明との交流

衰退:河川の流路変化説

空欄

1    ドラヴィダ
2    モエンジョ=ダーロ 
3    ハラッパー 
4    インダス 

補足

① インダス文明の特異性

 『論点・東洋史学』とNHK四大文明』を参考にしています。

 インダス文明は古代四大文明のひとつとされていますが、他の三大文明に共通する王や王墓、中央集権的な社会構造、労働集約的な灌漑農業、軍隊や戦争の痕跡、強力な宗教施設の存在を確認することができません。

 発掘調査の進展で明らかになってきたことは、大沐浴場などの大型の建物を有する都市遺跡は全体の5%程度で、それ以外の集落跡からはインダス文明の特徴は見られず、出土する作物の遺跡も麦類から雑穀と様々です。つまり共通性を持つ都市文明と多様な農村文化が共存していたということです。

 モエンジョ=ダーロから南東450kmにあるドーラヴィーラ遺跡は、遺跡の周りを乾季用の貯水槽が取り囲みます。雨期にここに水がたまり、そこから河川を経由してアラビア海に出て、メソポタミア地域と交易をしていたと考えられています。

media.eurasia.co.jp

 インダス文明の都市は多様な農村集落と外の世界を結ぶ「ハブ」だったのかもしれません。

 インダス文明が滅亡した原因のうち有力視されているのは環境変動で、河川の流路の変化や大規模な洪水が考えられています。バイパスができると旧道の商店街が寂れるのと同じで、河川の流路の変化で都市が「ハブ」としての機能を失い、都市および都市と農村のネットワークが放棄されたという説です。

 都市文明の技術は継承されませんでしたが、その後もパンジャーブ地方やシンド地方では都市を持たない地域文化が営まれました。

 インダス文明衰退の理由やその過程については依然不明で、インダス文字も未解読のままです。さらなる解明は今後の発掘調査を待つしかありません。

 インダス文字。未解読ですがドラヴィダ語の文法に似ているようです。印章はメソポタミアの遺跡やイラン、中央アジアの各地で発見されていて、壺などの容器の封印に使われていた形跡があります。この時代に海洋や遊牧世界を中継して広範囲の交易が行われていたこと、商取引の慣行も整備されていたことなど驚きを禁じ得ません。

 海洋交易が盛んだったことを偲ばせます。

2 ヴェーダ時代

(5     )人(インド=ヨーロッパ語系)

 前1500年頃、パンジャーブ地方に進入

 自然崇拝(インドラ=雷 アグニ=火)

ヴェーダの成立=最古の賛歌集『(6        )』など

前1000年ころ ガンジス川流域へ移動、鉄器を使用して定住農耕社会を形成

(7     )(種姓)身分的上下関係 アーリヤ人の先住民との差別化が原型

 バラモン(司祭) (8      )(戦士)

 (9     )(庶民 後に商人) (10    )(隷属民 後に農民)

(11    )教…自然神を崇拝しヴェーダ聖典として,バラモンが祭祀を司る

(12    ):世襲の職業や信仰と結びついた社会集団

 他集団との結婚や食事を制限。時代とともに細分化

南アジアではヴァルナとジャーティが組み合わさった社会制度が形成

→いわゆる(13     )制度(ポルトガルの「カスタ」から)

19世紀 イギリスの植民地支配でカーストによる分断が進む

1950年 新憲法カースト差別禁止が明文化(アンベードカル)

空欄

5    アーリヤ
6    リグ=ヴェーダ 
7    ヴァルナ 
8    クシャトリヤ
9    ヴァイシャ
10    シュードラ
11    バラモン
12    ジャーティー 
13    カースト

補足

① 『ヴェーダ』の世界

 古い教科書には「アーリヤ人が侵入してインダス文明を滅亡させた」説がありましたが(「文明化したインド=ヨーロッパ語族が遅れたアジアを征服した」という史観)、インダス文明衰退と彼らの侵入は時代にずれがあるので現在は否定されています。遺跡調査からアーリヤ人の侵入は小集団ごとに長期にわたって漸進的に行われたと考えられています。

 この時期に編纂された『リグ=ヴェーダ』の中には現地人の用語の借用が見られ、アーリヤ人は農耕先住民と接触・衝突を繰り返しながら現地に溶け込んだようです。アーリヤ人は生産者である先住民を支配下に置いて部族社会を形成し、季節に合わせて移動と定住を繰り返していたと考えられています。

 部族は首長(ラージャン)に率いられ、戦士集団と生産者の間には階層差はあったものの、この時点では後のカーストのような隔絶はなかったと考えられています。

 アーリヤ人の様子は『リグ=ヴェーダ』などの文献資料(『アタルヴァ=ヴェーダ』『ヤジュル=ヴェーダ』『サーマ=ヴェーダ』)から垣間見ることができます。

サーマヴェーダの詠唱


www.youtube.com

3 都市国家新宗教(前6世紀頃)

① (14      )哲学

 祭式至上主義から内面を重視するバラモン教の改革運動

 梵我一如(ブラフマン(梵)とアートマン(我)を一致させる)

② 仏教…クシャトリヤに広まる

 [15          ]が開祖 マガダ国のクシャトリヤ出身

 ヴァルナ制を否定,慈悲の心と人間の平等

 (16     )の実践により解脱を説く

③ ジャイナ教…ヴァイシャ,特に商人の支持

 [17         ]を始祖 クシャトリヤ出身

 ヴァルナ制を否定し,苦行と(18      )を強調

空欄

14    ウパニシャッド 
15    ガウタマ=シッダールタ 
16    八正道 
17    ヴァルダマーナ 
18    不殺生 

補足

① 仏陀ヴァルダマーナ

 ガウタマ=シッダールタ(釈迦)はシャカ族の王家に生まれ、叔母の住むカピラ城で養育されました。ある日彼は城外にいる病人や貧者を見てショックを受け、29歳の時に妻や子を置いて出家しました。

 彼は6年にわたって厳しい苦行を続けましたが悟りを開けず、苦行を中断して何とか川のほとりにたどり着いて沐浴をしていたところ、スジャータに乳がゆをもらって元気を取り戻し、ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想した末に悟りを開いた(ブッダ仏陀)=悟りを開いたもの)とされています。

スジャータでミルクと言えばこれ

 ブッダは人生は苦(四苦=生老病死)とし、なぜ苦しいかというと万物の真実の姿(縁起)につい無知(無明)だからとします。

 仏陀四諦(人間を苦しめているのは「苦から逃れたい」という自身の執着なのでその執着を断つ)と八正道(神経を集中させ、物事を正しくとらえ、欲望のままに行動しない中道な生き方)を実践することで涅槃に達すると説きました。

 ジャイナ教の祖であるヴァルダマーナマハーヴィーラ)は王族として生まれ、何不自由のない生活を送っていました。両親の死を機会に28歳で出家し、苦行の旅を続けました。13年後にサーラ樹下で瞑想の後悟りを開き「ジナ」(勝利者)となりました。

 彼は「人が行為すると人の霊魂に微細な物質が垢のように付着し、霊魂を輪廻させる原因となる、だから修行によって古い垢を落とし、新たな垢の付着を阻止しなければならない」と説きました。

 ジャイナ教の不殺生はこの垢の付着を防ぐためで、世界史の資料集で信者がマスクをして箒を持っているのは、お口をポカンと開けていてバナナ虫を飲みこんだり、歩いていて生き物を踏み殺さないためです。

 仏教とジャイナ教は同時期に生まれ、開祖は似たような人生の中で悟りを開き、「正しいこと」を実践することで解脱することを説きますが、執着を断ち「中道」を目指す仏教と、生活全般にわたって極端な厳しさを追及するジャイナ教は対称的です。

 ジャイナ教はその後インドに広がり、現在12億人のインドでは少数派ですが約500万人の信者の大半はインドにいます。

マハーヴィーラの像。彼は衣服を捨てて虚空をまとい(裸)、遊行しつつ苦行に専念しました。そのためジャイナ教には白衣派と裸行派が存在します。資料集に出てくる前者は僧尼の着衣を認めますが、後者は無所有の教えに反するとして裸行の厳守を説き、裸行できない女子は解脱できないと説きます。Σ(゚Д゚)

4 インド古代王朝(前4世紀頃~3世紀)

① マウリヤ朝:前4世紀後半に成立 都:パータリプトラ

[19      ]王(前3世紀半ば)

 カリンガの征服→(20    )(法)による政治

 石柱碑碑・石柱碑を建立 仏塔(21     )の建設

 第3回(22   )結集(パーリ語)、スリランカへ布教

 →部派仏教のうち(23     )仏教が定着…個人の修行による解脱

  南伝仏教ミャンマー(パガン朝)。タイ、カンボジア

石柱碑

 ② 南インドの諸王朝…ドラヴィダ系、インド洋交易で栄える

(24        )朝(前1~後3世紀)

 マウリヤ朝衰退後デカン高原に成立

 仏教やジャイナ教が盛ん 北インドからバラモンが招かれる

南端部:チョーラ朝パーンディヤ朝(ともに前3~後13~14世紀)

 ドラヴィダ系のタミル語による文芸活動

 「海の道」…南インドからは綿布が輸出される

(25       )

 紀元後すぐのギリシア人の著作 季節風貿易(ヒッパロスの風)の様子

スリランカ(セイロン島)

 前5世紀にシンハラ人が王国を作ったとされる

 前3世紀 アショーカ王の布教 上座部仏教が普及

 前2世紀以降、タミル人の移住者が増加

③ クシャーナ朝:(後1世紀~3世紀)

イラン系シャカ族。中央アジア北インドに建国 都:プルシャプラ

 [26      ]王(2世紀)仏教の保護(第4回仏典結集)

(27    )仏教

 出家者に限らず在家者を含めた一切の衆生の救済をを目指す

 (28     ):悟りを求め修行するとともに他の者も悟りに導く衆生

 2世紀に[29       ](竜樹)が教理(中論)を体系化

北伝仏教…中央アジア→中国→朝鮮→日本へ

(30      )美術

 大乗仏教の菩薩信仰→仏像の政策

 ヘレニズム文化の影響をうけた写実的な仏教美術

東京国立美術館

マトゥラー美術

 2世紀にマトゥラーで作成された土着的な仏像美術

ギメ美術館蔵 

空欄

19    アショーカ 
20    ダルマ
21    ストゥーパ
22    仏典
23    上座部 
24    サータヴァーハナ
25    エリュトゥラー海案内記
26    カニシカ 
27    大乗 
28    菩薩 
29    ナーガールジュナ 
30    ガンダーラ 

補足

① 後悔先に立たず

 チャンドラグプタはマガダ国の辺境で挙兵しナンダ朝を倒して前317年にマウリヤ朝を建てると、西北インドからギリシア人勢力を追い出し、さらにセレウコス朝を破ってインダス川からガンジス川にまたがる帝国を形成しました。

 その後マウリヤ朝デカン高原に支配領域を広げ、第三代のアショーカ王はカリンガを征服し、半島南端部を除くインド大陸の統一を完成しました(2024年の共通テスト本試で出題)。

 しかしこの戦争で10万人が殺され、さらにその幾倍の人々が戦禍で亡くなりました。アショーカ王はこの惨状を見て大きなショックを受けたと磨崖碑に刻まれています。

 そこでアショーカ王は武力による征服をやめ、ダルマ(法)にもとづく政治を開始し、各地の岩石や石柱に政治方針を刻ませました。

 この「ダルマ」とはインドでは法律、宗教、正義、規範など広い意味で使われていて、仏陀の教えも『マヌ法典』の教えも「ダルマ」です。碑文には仏教の影響を感じますが、それ以外の宗教を禁じてはいません。

 石柱には生類を殺したり傷つけたりしないこと、父母に従順であること、親族・友人・知人と正しい交際をすること、出家者やバラモンに布施をすること、長老を敬うこと、奴隷や貧者を慈しむこと、など社会的倫理が刻まれています。

 アショーカ王はまた井戸を掘り、樹木を植え、道路を整備し、人間や家畜のための病院を建てるなど社会事業も行いました。

 なおNHKEテレ『高校講座世界史』でアショーカ王寺田ちひろ♡に「もっと早く気が付け!」と叱られていました。(´・ω・`)

 アショーカ王の死後帝国は分裂をはじめ、再び武力の時代になります。

5 インド古代王朝(4世紀~7世紀)

グプタ朝:4世紀成立 都:パータリプトラ

チャンドラグプタ2世の時東晋の僧[31     ]が来朝。『仏国記』

 (32      )教

 紀元前後のころからバラモン教民間信仰の融合で成立

 創造神ブラフマー神、万能の主宰者ヴィシュヌ

 破壊と創造の(33     )神

 特定の教義や聖典なし 『(34   )法典』が日常生活の規範

(35      )文学

 代表的戯曲:宮廷詩人カーリダーサの『(36      )』

 叙事詩:『マハーバーラタ』『 (37      )』が完成

 学問:数字・十進法・(38    )の概念→イスラーム世界へ

仏教

 王の保護をうけて栄え,5世紀に(39      )僧院が建立される

 純インド的な表情をもつグブタ様式の仏教美術が成立

 (40      )やエローラの石窟寺院の主要部が建立される

インド古典文化の黄金期と「インド化」

 ヒンドゥー教大乗仏教とそれに基づく王権観念、サンスクリット語

 ヒンドゥーの神話が整理され、中南部や東南アジアに伝播する

 →王権の正当性の根拠に利用される

アジャンター第1窟の守門神

 ヴァルダナ朝(7世紀)ハルシャ王北インド統一

 唐僧[41    ]が陸路訪れる。大唐西域記

 王朝衰退後に唐僧[42    ]が海路訪印。『南海寄帰内法伝』

 (43     )運動

 7世紀ころから。ヒンドゥー教の神に対する絶対帰依の運動

 チョーラ朝やバッラヴァ朝(3世紀後半~9世紀末)で民衆に広まる

空欄

31    法顕 
32    ヒンドゥー 
33    シヴァ 
34    マヌ 
35    サンスクリット 
36    シャクンタラー 
37    ラーマーヤナ 
38    ゼロ 
39    ナーランダー 
40    アジャンター  
41    玄奘 
42    義浄 
43    バクティ 

補足

① インドで仏教が衰退したのはなぜ?

 ガンジス川に流域で都市国家が形成されると、その担い手であるクシャトリヤ階級は祭儀を握るバラモン階級に対抗する新たな国家統合の理念を必要としました。また都市国家の形成で商工業が発達し、ヴァイシャ層の中には豊かになるものもいる一方、貧富の差も拡大しました。

 この変化の中でバラモン教への批判が起こり、紀元前6世紀から5世紀にかけて仏教やジャイナ教が生まれました。王族は仏教を自らの権威に、すなわち国家仏教として利用しました。大がかりな石窟寺院やナーランダー僧院はその一例です。

 しかし仏教の教理研究は民衆から遊離する一方、ヒンドゥー教は土着の神々を取り込み(シヴァ神ヴィシュヌ神と同一視する。仏陀ヴィシュヌ神の化身)、平易な儀礼で家庭の祭事を執行することで民衆の中に浸透していきました。

 7世紀以降に南インドシヴァ神ヴィシュヌ神に対する熱烈な信仰を地方語で歌う宗教詩人が現れました。このバクティ信仰は日常生活の中でも可能で容易な宗教実践として発展し、次第に北インドにも広がりました。

 こうして仏教は複雑な教理と出家主義のために民衆の中に根付くことができず、東インドでは12世紀までは王朝の保護をもと繫栄を保ちましたが、武人と商人の広域政権が衰退するとともにインドから姿を消しました。

 一方各地の首長は宮廷にバラモンを招聘し、部族の守護神をヒンドゥー神に転換させ、自らの王権をサンスクリット文化で正当化しました(インドの中での「インド化」)。その結果農耕を中心とする多様な地域文化とカースト社会が南インドで波及することになります。

② 冒険譚の定番はお姫様の奪還

 『ラーマーヤナ』は7巻およそ25,000頌からなるインドの叙事詩で、紀元後4~5世紀に現在あるような形のものが成立したと考えられています。

 ラーマは王国の長子で後継者と目されていましたが陰謀で追放され、妻シータと弟ラクシュマナと森で暮らしていました。ある日シータがランカー島の魔王ラーヴァナに誘拐され、二人はランカー島に向かいます。途中猿の将軍ハヌマーンを仲間にし、激しい戦いの末ラーヴァナを打ち取ります。

 弟と一緒に姫を魔王から救出するってどこかで聞いたような…。

 ラーマはヴィシュヌ神の化身として広く民衆の間で崇められるようになりました。『ラーマーヤナ』はその後東南アジア世界に伝えられ、各地の文化と融合して独自の発展を遂げ、今も舞踏や影絵芝居のテーマとして親しまれています。タイのラタナコーシン朝の王が「ラーマx世」を名乗るのも王権をヴィシュヌ神で正当化するためです。

 カーリダーサの『シャクンタラー』も王子が一目ぼれした女性が魔女に連れ去られ、奪い返しに行く話です。『スターウォーズ』の原型であるアメリカの「スペースオペラ」も基本お姫様奪還の物語で、古今東西このテーマは再生産され続けています。

 ところでラーマは救出したシータがラーヴァナと「できている」のではないかと疑ったので、シータは身の潔白を証明するために燃え盛る火の中に飛び込みます。ん?もしかしてピーチ(以下自粛)。

 ラーヴァナを打ち取るラーマ。パブリックドメイン

6 南アジア世界とイスラーム

① 北インド

10世紀以後イスラームの侵入

 10世紀:(44    )朝、12世紀:(45    )朝

 13世紀:(46    )王朝:アイバクが創始 都:デリー

 →以後イスラームの政権続く(デリー=スルタン朝

最初は寺院を破壊するが、その後は信仰を保障

スーフィーズムの流入バクティとの共通性 イスラームが受容される

ハルジー朝:地租の金納化 南インドへ侵攻

② 南インド

10~11世紀 (47    )朝の最盛期 「海の道」の交易で繁栄

 セイロン島や東南アジアに軍事遠征 北宋に商人使節を派遣

14~17世紀 (48        )王国

 ヒンドゥー王朝。トゥグルク朝と争う

 インド洋交易で西アジアから馬を大量に入手

 17世紀にイスラーム勢力との争いで衰退

③ ムガル帝国

ティムールの子孫[49    ]がカーブルを拠点に北インドに進出

 ロディー朝を破ってムガル帝国の基礎を築く

 『バーブル・ナーマ』:トルコ系のチャガタイ語による回想録

第3代 [50     ]

 (51     )制

 有力者に官位を与えて等級づけ、保有すべき騎兵・騎馬数と給与を定める

 ヒンドゥーへの(52    )廃止 首都をアグラに移す

第6代 アウラングゼーブ:熱心なスンナ派ヒンドゥーへのジズヤ復活

→各地で反乱

 西インド…マラーター王国ヒンドゥー国家 シヴァージーの建国

 北西インド…シク教徒の強大化

言語

 公用語ペルシア語,デリー周辺の民衆はヒンディー語を使用

 (53     )語…ペルシア語と地方語が混成 パキスタンの国語

美術

 ムガル絵画(宮廷):細密画(ミニアチュール)の影響

 ラージプート絵画(ヒンドゥー教徒

宗教

15世紀:カビールイスラームヒンドゥーの融合 不可触民への差別禁止

16世紀:(54    )教:[55     ]が創始

 スーフィーの影響、一神教カースト制度を批判

建築

クトゥブ=ミナール:奴隷王朝時代。インド最初のモスク。デリー

(56       ):シャー=ジャハーンの時建設。アグラ

空欄

44    ガズナ
45    ゴール
46    奴隷
47    チョーラ
48    ヴィジャヤナガル
49    バーブ
50    アクバル
51    マンサブダール
52    ジズヤ
53    ウルドゥー 
54    シク 
55    ナーナク 
56    タージ=マハル

補足

① 南インドイスラーム

 後期チョーラ朝は9世紀に復興し、パッラヴァ朝を倒して南インドを統一しました。チョーラ朝南インドで水田開発を進め、11世紀にはスリランカスマトラ島に遠征軍を送るなど東のインド洋の覇権を握りました。

 当時東南アジア海域では無数の港市国家が生まれていて、11世紀には「三仏斉」と呼ばれる連合国家を作り、宋に朝貢して対中国貿易で繁栄していました。

 またチョーラ朝のもとで南インドヒンドゥー文明が確立しました。

教科書によく出てくる「踊るシヴァ神」。ギメ美術館蔵

 インド洋東西両海岸諸地域にはムスリム商人や東南アジアの商人船が来航し、12~13世紀には中国商人のジャンク船も来航するなど中継貿易で繁栄しました。

 インドからはインド産香辛料(胡椒)、米、綿布が、「海の道」からは東南アジア産香辛料(ナツメグクローブ)、中国産の陶磁器や絹、西アジア産のナツメヤシや馬などが集まりました。

 特に南インドヒンドゥー諸王国が北方からのイスラーム騎馬軍団に対抗するために西アジアかあら馬を大量に買い付けました。有名なのは14世紀にデカン高原でおこったヴィジャヤナガル王国で、17世紀まで南インド一帯を支配し、北方のイスラーム諸王朝に対峙しました。

 争いの過程で王国はイスラームの文化や制度を採り入れ、王権の権威付けに使っていた様子が共通テスト世界史B、2023年追試で出題されていました。

 ヴィジャヤナガル王国の支配下で、南インドの綿花やサトウキビなどの商品生産とそれにともなう手工業・商業が発達し、経済発展を基礎とした地方領主が自立しました。1498年にヴァスコ=ダ=ガマが訪れたカリカット王国やコーチン王国もこうした地方領主のひとつです。

② シク教の多様性

 15世紀に生まれたカビールヒンドゥー教の聖地ベナレスの出身で、イスラームに集団改宗した織工カーストに属し、機を織りながらヒンディー語で民衆に教えを説いたとされます。彼はヒンドゥーイスラーム双方の教条主義を批判し、ヴァルナ制などの差別を糾弾し、唯一の真実である人間が本来持つ神性への覚醒と帰依を訴えました。

 シク教を創始したナーナクカビールと同じくヒンドゥーイスラムの形式化やカーストを否定し、輪廻転生を繰り返した末に神と合一することを説きました。

 ナーナクの思想にはバクティスーフィーの影響がみられる一方、ヴァルナを否定しつつ輪廻転生は認めるなどヒンドゥーの影響も見られます。またバクティヴィシュヌ神など実体のある神への帰依を説きますが、シク教唯一神は抽象的です。

 シク教はインドの多様性の象徴といえます。

 なおシク教は成立時より裕福な層の帰依が多かったことから、イギリス統治時代のインドでは官吏や軍人(シク戦争でイギリスを苦しめた)としてシク教徒が多く登用されました。現地の中間エリート層育成による「分割統治」です。

 彼らは職務で海外に渡航する場合もターバンを着用することが認められていたので、私たちの「インド人=ターバン」というイメージにつながりました。オリエンタリズム(西洋のフィルターを通して見たアジア)の一例です。

 義和団事件(北清事変)の八か国連合軍

 シク教の聖地は虐殺事件で有名なアムリットサルで、金色の寺は観光名所です。

skyticket.jp

③ スリランカの内戦

 スリランカ民主社会主義共和国ではアーリヤ系のシンハラ人(74%、主に仏教)とドラヴィダ系のタミル人(18%、主にヒンドゥー教)が長く内戦を続けていました。

 シンハラ人は紀元5世紀に北インドから上陸し、先住民と融合して定着しました。タミル人は紀元前2世紀中頃にセイロン島北部に到来、英国植民地時代には紅茶などのプランテーション労働者として強制移住させられ、定住するようになりました。

 セイロン島は1815年にイギリスの植民地になりました。イギリスは少数派のタミル人を行政府官吏に重用して多数派のシンハラ人を統治させる「分割統治」を行いました。これに不満なシンハラ人の中で仏教を軸とするナショナリズムが高まりました。

 スリランカは1948年にイギリス連邦自治領「セイロン」として独立、1951年にスリランカ自由党を創設したバンダラナイケがシンハラ人優遇政策を掲げて1956年の選挙で圧勝し、シンハラ語を唯一の公用語とし、1972年公布の新憲法ではシンハラ人の大多数が信仰する仏教に特別な地位を与えることを宣言、独立時の憲法にあった少数派保護条項をほとんど削除しました。

 タミル人はこれに猛反発し、民族内での結束を強めて武装組織を次々結成、スリランカ北・東部をタミル人のホームランドとして独立を求めるようになりました。「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE)という過激派も結成され、内戦は泥沼化しました。

 2009年にLTTEの議長が戦闘で死亡したことを受けて大統領は内戦の終結を宣言しました。その後大統領はシンハラ人とタミル人の和解を進めるため、北・東部を含む各州に一定の自治を認める「権限委譲」を進めていく考えを示しています。

 26年間に及んだ内戦による死者は7万人以上、約28万人ものタミル人らが国内避難民となり、避難民キャンプでの生活を余儀なくされています。

 入試ではシンハラ人とタミル人の判別で終わってしまいがちですが、宗教や歴史は生活を豊かにする一方、命を奪うことにつながる可能性もあります。世界史の学習は大事と痛感します。

参考

www.hurights.or.jp

④ インド=イスラーム文化

 私たちはつい「ヒンドゥームスリム」という二項対立で考えがちですが、これはイギリスがインドを支配するための分断政策およびインド・パキスタンの分離独立によるナショナリズムに由来します。カースト差別もイギリスが煽ったものです。

 インドへのムスリム勢力の進出はウマイヤ朝インダス川地域への侵攻から始まり、14世紀にはトゥグルク朝の進出でインド南部にイスラーム地方政権が建てられました。

 インドで改宗が進んだ理由として、これまでは支配者による強制、経済的な利益、スーフィーの活動が挙げられていましたが、最近はムガル帝国時代の開墾事業で現地人が指導者に感化されたことや、現地の多神教イスラームの神、天使、聖者(イスラームでは殉教者が聖者と崇められる)と同一視され融合していったことを指摘する研究もあります。

 今に伝わるインド=イスラーム文化はそうした融合の象徴です。今世界では異なる集団を排除する時に宗教で正当化する事例が枚挙にいとまがありません。先人の知恵に触れながらこの項を終わります。

クトをゥブ=ミナール 著者死後70年経過なのでパブリックドメイン

ムガル絵画 『バーブル・ナーマ』の挿絵

ラージプート絵画 『ラーマーヤナ』のワンシーン

タージ=マハル

 シャー=ジャハーンが亡き愛妃ムムターズ=マハルのために建設した廟。ドームとミナレットイスラーム建築ですが、横の小楼はインド建築の様式です。パブリックドメインQより。

リンク集

近現代のインド

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

仏教の本場チベット

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

文化史リンク集

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com