受験生を悩ませる世界史の文化史、今回は入試でいきなり出ると困る先史時代、古代オリエントについてです。
今回からは従来の世界史Bの教科書だけでなく世界史探究の各社の教科書も参考にしています。文字資料は山川出版社の『世界史資料集』を利用しています。
目次
1 先史時代
①化石人類
1)「人類」の出現
人類の定義:(1 )歩行ができる→「文化」を持つ
人類の出現…地質時代では(2 )世
2)猿人
約700万年前:(3 )…
人類と識別される最古の化石骨。アフリカ、チャドで発見
トゥーマイ(希望の星)と名付けられる
約550万年前:(4 )猿人…エチオピア
約420万年前:(5 )…南アフリカ、アフリカ各地
文化…簡単な(6 )石器(礫石器)を作製・使用
3)原人
約240万年前:(7 )…原人の祖先
約180万年前:ホモ=エレクトス…アフリカで出現 各地に分散
約70万年前:(8 )原人…インドネシア、トリニール
約60万年前:(9 )原人…中国、周口店
文化…ハンドアックス(握斧)などの改良された打製石器
洞穴に住み、狩猟・採集生活を営む (10 )の使用
4)旧人
約70万年前 ハイデルベルク人…ドイツで発見 アフリカ、中国にも
ネアンデルタール人と現生人類の共通の祖先
約20万年前 (11 )人…ドイツ
脳容積は現代人とほぼ同じ,ヨーロッパ~西アジアに居住 新人と共存
文化…用途に応じた打製石器の使用(剥片石器)・毛皮の衣服
死者の(12 )、道具や身体への彩色
→宗教意識、美意識の芽生え?
5)新人
約20万年前…ハイデルベルク人から分化。アフリカ単一起源説
約4万年前:(13 )人(南フランス)
グリマルディ人(イタリア)(14 )人(中国)
文化
石器製作技術の進歩((15 )石器)、(16 )器の使用
狩猟・採集・漁労技術の向上
女性裸像…多産や豊穣を祈る宗教儀礼?
洞穴絵画…スペインの(17 )、フランスの(18 )
ラスコー壁画 http://www.lascaux.culture.fr/?lng=de#/fr/00.xml
ユーラシア、アフリカのほとんどの地域に広がる
→地域ごとの文化的な差異や人類の形質の違いが出現、言語の形成
空欄
1 直立二足
2 洪積
3 サヘラントロプス
4 ラミダス
5 アウストラロピテクス
6 打製
7 ホモ=ハビリス
8 ジャワ
9 北京
10 火
11 ネアンデルタール
12 埋葬
13 クロマニヨン
14 周口店上洞
15 細
16 骨角
17 アルタミラ
18 ラスコー
補足
「人間は文化を持つ」ではなく「文化を持つのが人間」
実教出版『世界史探究』、化石人類と人種や民族の項の「世界史の『ものさし』」というコラムに、「人種や民族という歴史用語は一見中立・客観的にみえても、権力を持つ側の支配の正統性のために作られた」とあります。
化石人類についても、従来は猿人→原人→旧人→新人と単線的に(アフリカからヨーロッパへ)「進化」したのような記述でしたが、最近の研究では旧人と新人は一時期共存し通婚の可能性もあること、新人の祖先はアフリカであること、などが明らかになっています。
新しい研究成果は私たちが今まで化石人類すら進歩主義史観やヨーロッパ中心史観で見ていなかったかを問いかけています。
そもそも「誰が最初の人類か」という定義ですが、教科書を読んでいくとまず「文化を持つのが人類」のようです。「文化」は、生命維持のために自然を何らかの形で加工したり、宗教意識や美意識など生命維持と直結しない思考をすることと定義され、それに関わる遺物と同時に見つかっている化石を「人類」と呼んでいます。
歴史が叙述である以上何らかの「ものさし」で事実を取捨選択する必要はありますし、私たちは時代のフィルター越しものを見てしまうことも避けられません。
そうした自分の立ち位置を常に自覚し、物事を相対化することは歴史を学ぶ時に必要な姿勢であり、「世界史」というカテゴリーは物事を時系列と空間によって比較・関連づけするのに有効な手立てです。
こちら
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
②新石器時代
完新世(沖積世 約1万年前 後氷期…温暖化)…人類が各地へ移動
(19 )石器時代…(20 )石器 土器
西アジアで農耕・牧畜の開始(麦の栽培 ヤギ・羊・牛の飼育)
狩猟・採集による(21 )経済から農耕・牧畜による(22 )経済
西アジア…「肥沃な三日月地帯」
初期農耕遺跡…ジャルモ、イェリコ
乾地農法(水をやらない) 略奪農法(肥料をやらない)
→(23 )農法(水を使用する)の出現
文明の形成
公共事業実施や遊牧民との抗争
社会の分業化 …王権・神官・書記・軍人
都市文明の形成…都市・(24 )・(25 )器
空欄
19 新
20 磨製
21 獲得
22 生産
23 灌漑
24 文字
25 金属
補足
文化と文明はどう違う?
約1万年前に地球の温暖化によって現在とほぼ変わらない地形・気候になりました。しかし一部地域では乾燥化が進んで植生が変わり、これまでのように狩猟や採集だけでは生活できなくなりました。
そこで人類は穀物を栽培したり、動物を家畜にしましたが、それは一足飛びに行われたわけではなく、長い時間をかけて野生の植物・動物の中から利用価値の高い種を選び、その突然変異種を育てたり、接ぎ木や交配を通じて品種改良を行った結果です。今でいう遺伝子組み換え技術の古代人版です。
こうして人類は洞窟から出て食糧の生産に適する平地や水辺に集落をつくるようになります。ただし初期の農法は水も肥料も使わないため生産力が低く、耕地を変える必要がありました。
イェリコ遺跡。最古期の農耕定住遺跡。石の周壁を持つ。パブリックドメイン
定住集落が大きくなり、私たちの言う「国家」が生まれる契機となるのが、灌漑農法と青銅器の発明です。
水をふんだんに利用できるようになって生産力が増大し、余剰生産物が生まれます。この過程で人類の中で「分業」と「身分」が発生します。すなわち青銅器を作ったり土木工事に長けた職人、生産物を交換する商人などです。
アルキメデスのスクリュー。ハンドルを回すと水が昇ってくる仕掛け。
そして蓄積される富が増えればそれをめぐって争いも発生します。そこで集落を守る戦士が生まれます。また収穫は人間の及ばない自然の力に左右されるし、戦争も運がつきものです。そこで信仰が生まれ、その祭祀を行う神官が生まれます。
指導者は公共事業を差配し、そこで生まれた富を守るために城壁を作り、神殿を作って収穫物を集めてスペシャリスト(神官・戦士)に分配する、そのためには収穫物や税の管理が必要で、文字とそれを扱う書記が生まれます。
したがって「文明」とは「社会の組織化パッケージ」、ハード面では都市・建築・文字・冶金(金属生成)、ソフト面では身分・信仰・政治的権威・記録を指します。いわゆる「四大文明」は大河の流域で都市という形で営まれます。
ただしこれはメソポタミアやエジプトを基準にした定義で、例えばヒッタイトの文明は大河のない高原地帯で形成されていますし、古代メソアメリカ文明は金属や都市は持つものの文字を持たず、遊牧民は都市や文字を持たずに金属器を発達させています。「都市=文明」説の背景に西欧中心的な発想(オリエントからギリシア・ローマという旧約聖書的世界観)が潜んでいることに留意したいです。
また昔の教科書ではヒッタイトなどインド=ヨーロッパ語系の人々の活動を強調する傾向にありましたが、アーリヤ人至上主義はナチズムのプロパガンダに用いられた過去があるので注意が必要です。
ヒッタイトからさかのぼること1000年前の地層から鉄の遺物が発見されたり、アナトリア以外で鉄を作った形跡がある遺跡が見つかっています。
2 メソポタミア
民族・言語系統不明
都市遺跡…(1 )、ウルク、ラガシュ
(2 )器の使用 (3 ):祭儀の場
天文・暦法の発達:七曜制 (4 )進法
(6 )文字…(7 )に記録
アッカド人
セム語系 アムル人
[8 ]法典… 同害(9 )法 身分による刑罰の違い
ヒッタイト人 最古の(10 )器
リディア王国 最古の(11 )
文字:
アッカド語は国際言語
→アマルナ文書 オリエントの国家間の手紙 複雑な同盟関係
グローテフェント→ペルセポリス碑文
[12 ]→ベスヒトゥーン碑文(ザクロス)
信仰
各都市に守り神。王は神の代理
空欄
1 ウル
2 青銅
3 ジッグラト
4 六十
5 太陰太陽
6 楔形
7 粘土板
8 ハンムラビ
9 復讐
10 鉄
11 (打刻)貨幣
12 ローリンソン
補足
1)メソポタミアは王は神の代理、エジプトは王は神?
シリア・パレスチナ地方からティグリス・ユーフラテス川に挟まれたメソポタミア地方にいたる「肥沃な三日月地帯」では、古くから羊や山羊・らくだを飼育する遊牧生活や天水に頼る乾地農業に加えて、沿海や河川流域の平野、点在するオアシスで、麦・豆類、オリーヴ・ナツメヤシなどを栽培する小規模な灌漑農業が営まれていました。
やがてティグリス・ユーフラテス川、ナイル川流域で季節的な増水を利用した大規模な灌漑農業が発達し、定住が進みました。
豊かな農業生産に恵まれたメソポタミアは周辺の高原地帯からは丸見えです。そのためセム語系やインド=ヨーロッパ語系の遊牧民や山岳民が絶えず侵入してくるので、めまぐるしく王朝が交替しました。
一方エジプトは北は地中海、ナイル川の東西は砂漠、南はナイル川の急流と四方を自然の要害で守られているので外敵の侵入を受けにくく、エジプト語系の人々が長期にわたって王朝を維持していました。
メソポタミアではそれぞれの都市が神々を祀り、王は神の代理を政治的権威にしていました。エジプトは同じ語系の人々の文化圏なので「王は神」といった方がインパクトがありますが、王朝がコロコロ変わり、各地で違う神を信仰しているメソポタミアでは「王は神の代理」を名乗った方が互換性があります。
いずれにせよオリエントでは大河を利用した治水・灌漑事業に多数の住民を組織・動員する必要から、宗教の権威によって統治する強力な神権政治の仕組みが早くから発達したといえます。
オリエントの地図。啓隆社提供。ティグリス川、ユーフラテス川、ナイル川の位置を確認しましょう。○の都市名も言えるようにしましょう。
2)洪水が都市文明を育んだ?
ティグリス川、ユーフラテス川が押し流してきた沃土は豊作をもたらしました。しかし水源地帯の雪解けに伴って春先に定期的に洪水が発生して南部の農地に被害をもたらしていました。
そこで人々は人工的な運河で洪水を制御し、さらに灌漑・排水設備を整えました。その結果農業生産が高まりましたが、メソポタミア南部は鉱物、石材、木材に乏しく、不人々は余剰穀物を対価に交易でそれらを入手しました。
こうしてメソポタミア南部に都市文明が開花します。最初に都市文明を築いたのがシュメール人です。彼らの都市国家では、王を中心に(シュメール王の系譜によると覇権は都市間で移動したらしい)、神官・役人・戦士などが都市の神をまつり、政治や経済・軍事の実権を握って人々を支配する階級社会が成立しました。
その結果、優勢な都市国家の支配層には莫大な富が集まり、壮大な神殿・宮殿・王墓がつくられて、豪華なシュメール文化が栄えました。
ウルナンムのジッグラトのコンピューターによる復元 Leonard Woolley作。パブリックドメイン
いわゆる「バベルの塔」はこのジッグラトがモデルと言われています。
本文とは関係ありません。
特に洪水を予測するために天文学が発達し、月の満ち欠けを利用した暦(大陰暦)とその日数(28日)を4分した七曜制が発明されました。
また石材の不足から粘土を利用した日干し煉瓦が多用され、河に生える葦(ヨシ)を粘土板に押し当てて収穫物の出納を記録する楔形文字も生まれました。
シュメールの人々は海外の商品を楽しみ、ビールを愛飲するなど私たちと同じ都市生活を満喫していましたが、出土した粘土板の格言からは「人生は一度きり」「あまり考えないで結婚」などシニカルなものが目立ちます。洪水とともに生きるシュメール人の心性の表れかもしれません。
シュメール人はアッカド人に征服され、その後一時期復活しますが(ウル第3王朝)古バビロニアに征服され、セム語系の中に埋没してしまいます。しかし楔形文字はアッカド語の表記に使われ、アケメネス朝では表音化されて古代ペルシア語を表記するのに使われるなど、その文化はオリエントで受け継がれました。
ウルクの王ギルガメシュを主人公にしたシュメール語の物語を死と友情を描いたアッカド語の物語にまとめたのが『ギルガメシュ叙事詩』で、後にヒッタイト語にも翻訳されています。洪水の話や、自然を破壊したために自らの力が衰えるなど、現代の私たちが読んでもグサッと来る話です。
引用。山川出版社『世界史資料集』より
「葦屋よ,聞け,壁よ,考えよ。シュルパックの人,ウバラ=トウトの息子よ,家を打ち壊し,船を造れ。…すべての生きものの種を船へ積み込め。お前が造るべきその船は,その寸法を定められた通りにせねばならぬ…」…地平線から黒雲が立ち昇った。アダドはその真ん中で雷鳴をならした。国土は〔壷〕のように閉じ込められた。一日のあいだ嵐が。速さを増し,戦いのように。お互いに見えることもできず,人びとは天からさえ見分けることができなかった。神々は洪水に驚きあわて,そして退いてアヌの天へと登った。…六日晩にわたって,嵐と洪水が押し寄せ,台風が国土を荒らした。七日目がやってくると,洪水の嵐は戦いに敗れた。(高橋正男訳)
3)ハンムラビ法典は実際に使われたの?
1.人が他人を殺人の罪で告訴し、その罪を立証できなかったなら、告訴人は殺されなければならない。
195.息子がその父親を殴ったならば、彼は自分の腕を切り落とさなければならない。
196.他人の目をつぶしたならば、自分の目をつぶさなければならない。
199.他人の奴隷の目をつぶしたり、他人の奴隷の骨を折ったならば、奴隷の値段の半額を支払わなければならない。(中田一郎訳『ハンムラビ「法典」』一部改変)
1901年から02年にかけてイランのスサを発掘していたフランス隊によって発見された石柱には楔形文字が刻まれていました。これがバビロニアのハンムラビ王によって集大成された法典だとわかりました。
*バビロンにあった石柱がなぜイランにあったかというと、紀元前12世紀にバビロニアに侵入したエラム人が持ち帰ったからだとされています。エラム人はメソポタミアでは算出しない石材を征服地から略奪し、再利用するときに碑文を削り取っていましたが、ハンムラビ法典の碑文はほぼ完全な形で残っています。
著作者:Deror aviとone more author Attribution
メソポタミアではシュメール人のウル第3王朝、アムル人のバビロニア、エラム人などが争っていました。紀元前18世紀初頭にハンムラビ王が即位したときにはバビロニアは弱小でしたが、彼は灌漑事業などを行って次第に国力を高め、一時期メソポタミアを統一しました。
しかし武力による支配は長続きしません。そこでハンムラビ王は行政組織を整え、自ら役人に細かく指示を出していたことが粘土板からうかがい知ることができます。
その集大成がハンムラビ法典です。法典は三つのパートからなり、第一パートはハンムラビが神々を敬い神殿を立てたこと、マルドク神から地上の支配を任されたことがかられていて、第二パートが有名な条文、最後のパートがこの法律を守らないと神の罰が下ることが書かれています。
条文は同害復讐法で有名な罰則以外にも、小作地、家屋の賃貸、婚姻、養子縁組などの規定がありますが、当時の裁判記録にはこの法律を実施したという証拠が見当たらないそうです。
つまりハンムラビ法典碑は王の所信表明であり、王は武力行使は控えて、神の罰で人々を威嚇しつつ、シュメール人以来の現地の法律を集大成して、それをもとに自らの支配を正当化しようとしたのかもしれません。
身分による刑罰の違いは、アムル人と被征服民との間に上下関係(自由人・不自由人・奴隷)が存在するからだと考えられます。
3 エジプト・スーダン
① エジプト
ナイル川の定期的な氾濫を利用した灌漑農業
ピラミッド時代 ギザの[13 ]王のものが最大
信仰
霊魂不滅 ミイラ 『(14 )の書』…(15 )紙に記録
王(ファラオ)は現人神
テーベ神アモンとラーが合体…(16 )信仰
[17 ]4世: (18 )に遷都
(19 )一神教の強要 アマルナ美術(写実的)
天文・暦法
(20 )暦→ナイルの氾濫を予測 ローマの(21 )暦 十進法
文字
神聖文字(22 )、神官文字、民衆文字(デモティック)
(23 )ストーン…[24 ]が解読
② スーダン
ヌビア地方(ナイル川上流):エジプト文化の影響
{25 }王国 前10世紀ごろ成立。新王国の征服を受ける
前8世紀 エジプトを支配(第25王朝)黒人のファラオ
(26 )王国
紅海方面とナイル川上流域を結ぶ交易で繁栄
製鉄技術 独自のピラミッド メロエ文字(未解読)
4世紀に(27 )王国(アラビアからエチオピアに侵入)に滅ぼされる
空欄
13 クフ
14 死者
15 パピルス
16 アモン=ラー
17 アメンホテプ4世
18 テル=エル=アマルナ
19 アトン
20 太陽
21 ユリウス
22 ヒエログリフ
23 ロゼッタ
24 シャンポリオン
25 クシュ
26 メロエ
27 アクスム
補足
1)ピラミッドって何のために作ったの?
ケオプスは一切の神殿を閉鎖し,すべてのエジプト人に供犠を禁じて彼のために働
かせたという。あるものはアラビア山中の石切場から石を受けとってナイル川までひ
かされ,他のものたちには舟で川を渡されてきた石を受けとってリビア山という山まで運ばせた。3カ月交替で常時10万人の人間が働いた。苦役の民は石材をひく道路をつくるのに10年…ピラミッド自体には20年を要したという。このケオプスほ50年在位し,没後その弟ケフレンが王位を継ぎ,万事前者のやりかたを行なったが,ピラミッドもそうだという。だが大きさは前者のものに及ばなかった。…ケフレンは56年在位したという。…エジプト人たちの間ではこあ106年間は,すべてが最悪で,この期間中神殿は閉ざされて開かれなかったとかぞえられている。エジプト人たちは憎しみによりこの両王の名を全く口にしたがらない。〔ヘロドトス「歴史」金澤良樹訳〕
ギザのピラミッド。パブリックドメインQより
ヘロドトスは『歴史』の中でギリシアとアケメネス朝の戦いを描いていますが、その前段階としてエジプトの様子を描いています。
彼はピラミッド建設の従事者を「苦役の民」と呼んでいますが、NHKの『四大文明』エジプトの回によると、建設現場の近くに従業員の施設の遺跡があり、「友達の葬式でミイラを作る手伝いをするから休む」「サソリに刺されたので休む」など労務管理の文書が見つかっています。
ピラミッドは何のために作られたのかはいまだ不明な点が多いですが、四角錘の形状は天に昇る階段をイメージしているというのが無難な解釈です。
ピラミッドはナイル川が最大に増水した際の畔に位置しているので、石材などはその時期に船で運んだと考えられます。そこから「ピラミッド公共事業説」(農閑期の農民の失業対策)を唱える人もいますが、ナイル川の氾濫に支えられた当時のエジプトは豊かだったので、現在の視点から見過ぎという意見もあります。
2)八百万神のエジプトで急に一神教?
紀元前16世紀半ばにヒクソスを追放して成立した第18王朝はシリア・パレスティナ地方にたびたび出兵し、紀元前15世紀のトトメス3世はこの地を植民地化しました。
本文とは関係ありません。
アマルナで発見されたアッカド語の楔形文字で書かれた粘土板(アマルナ文書)からは、当時のオリエントにはエジプトに加えてミタンニ、ヒッタイト、遅れてアッシリアなどの強国を中心に、黄金の贈与や王女の婚姻によって同盟関係を結んでいたことが読み取れます(後述)。
しかし征服活動の成功でテーベの守護神アメン(アモン)が篤く信仰され、貢ぎ物や戦利品、征服地の寄進などの富がアメンの神官団に集まり、彼らが政治に介入するようになり、王権と神官団の対立が激化しました。
アメンヘテプ(アメンホテプ)4世は神官団を排し王権の一元支配をめざして、太陽神アテン(アトン)を唯一の神とし、王都をテーベから新都アマルナに移しました。自らも「アクエンアテン」(アテン神に有益なるもの)と改称しました。
アクエンアテンが家族とアテンを信仰している姿 パブリックドメイン
参考 Egypt Picture - Panel with a Scene of the Adoration of Aten
しかしアトン神は太陽をイメージした丸と複数の手(太陽光線のイメージ)で表現され、当時のエジプトで信仰されていた動物の似姿の神々に比べると抽象的です。
参考
結局アクエンアテンは治世17年目に公的な記録から姿を消し、後の息子ツタンカーメンの時代に王都は破壊され放棄されました。アテン神も多神教のひとつの神に戻りました。
約3000年の古代エジプトの時代の中でわずか17年のこの時代が教科書に載るのは、この時代の写実的な芸術とユダヤ教に先立つ一神教、つまり「早すぎた西欧的文化」が西欧中心史観の立場からは興味をそそるのでしょう。
ベルリン美術館にある王妃ネフェルティティの胸像
3)3300年前にビジネス定型文?
アマルナ文書
①私の兄弟であるあなたが,御息女との結婚をお許しにならず「昔からエジプトの王女は誰にも与えられたことがない」と御返事下さったとき,私は「陛下は何ゆえにそう仰せられるのですか。王である陛下は御心のままに振舞えるでしょう。陛下が与えるならば,誰が異議を唱えるでしょうか?」と。この件についての私の兄弟への返事は次の通りです。成人した娘や美女がいるでしょう。御心のまま美人の 1人をお送り下さい。…あなたは兄弟の契 りと友好関係を求めておられるのではありませんか?…私の兄弟はどうして1人の婦人をも下さらないのですか?…私にも娘がおりますが,その 1人を断わりはしないでしょう。
②あなたの僕であるアブディ=へバは私の主人であられる王に申し上げます。…人々は私が陛下にそむいたと誹謗しております。…どうして私が主君であられる陛下にそむくのですか?…陛下の領土は失われつちあります。…臣侯たちはすべて失われて一人もも陛下の側にとどまっておりません。バビルは陛下の全領土で掠奪を行なっております。本年軍が送られるならば,陛下の領土は安泰なのです。〔屋形禎亮訳〕
アマルナ文書とは1886年エジプトのアマルナ遺跡から出土した王室の書簡約380通で、エジプト新王国の第18王朝アメンホテプ3世、アメンホテプ4世がオリエント各国の諸王との間に交わした外交文書の複本(コピー)です。3通をのぞきすべて当時のアッカド語で、楔形文字で書かれています。
①はカッシート人のバビロニア王がアメンホテプ3世に宛てたもので、婚姻関係によって友好関係を保証しようとすることが見て取れます。また書き出しが「兄弟」で、対等な関係であることが主張されています。かつては小国であったアッシリアもこの時期強大化してきたのでエジプト王を「兄弟」と呼んでいます。
②はシリア地域の藩侯(エジプトに臣従する有力者)がアメンホテプ4世に援軍を要請する文書で、シリア地域の藩侯が離反している様子(手紙を出した人も疑われている模様)がうかがえます。書き出しから両者の上下関係が見て取れます。
3300年前に女性や贈り物を通じた同盟関係や、人間関係に合わせたビジネス定型文が存在していたのは驚きです。
興味がわいた人はこれへ
4)死んだらどうなるの?
おお大いなる神,二つのマアトの主よ!… 私はあなたのおそばに参りました。…私は人々に不正を行ったことはありません。人々を虐待したことはありません。神を冒瀆したことはありません。貧しい人のもちものを奪ったことほありません。…人を飢えさせたことはありません。泣かせたことはありません。殺したことほありません。殺すのを命じたことはありません。はかりの目方をごまかしたことはありません。…畑をごまかしたことはありません。…増水季に水を堰きとめたことはありません。
Ägyptisches Museum Berlin Interfaseさん撮影 パブリックドメイン
死者の書は、古代エジプトで冥福を祈り死者とともに埋葬された葬祭文書です。死者の霊魂が肉体を離れてから死後の楽園に入るまでの過程・道しるべが描かれ、死者の裁判官オシリスに会った時に語るべきことなどが記されています。
画像では死者の心臓が天秤にかけられ、羽より重ければ書かれたことが嘘と判断され、魂を食べる幻獣アメミットに喰われ二度と転生できなくなります。
畑の広さのごまかしや水利権の争いなど不正の中身は今と変わりません。某国の政治家のように嘘を嘘で上塗りしたり、自己の利益のために思い付きの政策を行なって問題が起きても誤りを認めない人はアメミットに確実に食べられます。
カノプス容器。ミイラを作るとき魂が宿るとされていた心臓を除き、特に重要と考えられていた臓器を取り出し、保存するために使われていたと考えられています。復活した時に「内臓がないぞう(以下略)」
情報源/撮影者 http://dams.antwerpen.be/asset/eZVRVUnXUPdZgV8OfjR8YPji クリエイティブ・コモンズ CC0 1.0 全世界 パブリック・ドメイン
メロエのピラミッド。第25王朝を建てたヌビア人の頃にはピラミッドが何のために作られたのかは忘れられていて、「たぶんファラオの墓だろう」という認識からメロエのピラミッドはきっちりお墓の構造をしています。
復習
おわりに
古代オリエントの文明についてみてきましたが、文明を持つものがそうでないものを野蛮扱いするというのは、中国や19世紀ヨーロッパにみられます。「文明が野蛮を征服して文明化するのは文明の使命」というのは帝国主義の論法です。
世界史探究では毎回問いを立てたり話し合い活動をしますが。生徒が「日本はスゴイ、外国は遅れている」のような素朴史観を持っていると文明と野蛮の二項対立でものを考える恐れがあります。
「野蛮は文明になる前」というような単線的発展段階論ではなく、文明が「野蛮」を「発見(創造)」したという見方を学びたいものです。