休校中の自学自習プリント、作っている最中に休校は終わりましたが(効果はあったんですかね?)、きりのいいところまでやります。
重商主義の回ラスト2回はヨーロッパの対外進出。今回はアジア編です。
大航海時代、帝国主義の時代と並ぶ「ヨーロッパ主導のグローバル化」トピックとして入試頻出の範囲で、最近はアジア側からの見直しも起きています。
高校生の中には地図展開の単元を苦手にする人も多いです。
前回
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
目次
1 地図演習
1)白地図
説明文に当たる都市の名前と、その場所(1~19)を空欄に記入しましょう。地図はフリー素材を使用。
2)説明文
- ヴァスコ=ダ=ガマが喜望峰~マリンディ経由で到達。インド航路の開拓( )
- ポルトガルが香辛料交易の拠点として占領し総督府を置いた( )
- ポルトガルが1511年にイスラム王国を打倒して占領した。後にオランダが占領( )
- ポルトガルが1557年に明から居住権を得た( )
- ポルトガルがマムルーク朝の艦隊をここで破った( )
- ペルシア湾の出口の海港でポルトガル人が占領したが、サファヴィー朝のアッバース1世がイギリス東インド会社の援助を受けてここを奪回した( )
- スマトラ島北部。イスラーム王国が栄えた( )
- 清朝でヨーロッパ船の来港場として指定された海港都市( )
- 日本の対ヨーロッパ貿易拠点。江戸幕府にオランダ船が来航( )
- スペインがルソン島に開いた対中国貿易の拠点。フィリピンはフェリペ2世にちなむ( )
- オランダの香辛料貿易の拠点。現在のジャカルタ( )
- 1623年にオランダがイギリス商館員を殺害した事件( )
- イギリスの貿易の拠点。ベンガル湾。現コルカタ( )
- イギリスの貿易の拠点。インド洋の南。カーナティック戦争はここ( )
- イギリスの貿易の拠点。アラビア海側。現ムンバイ。鉄鋼業が盛ん( )
- フランスの貿易の拠点。カルカッタの北( )
- フランスの貿易の拠点。マドラスの南( )
- 18世紀にマドラス軍管区でイギリスとフランス軍が衝突。イギリスが勝利( )
- 1757年にイギリス東インド会社書記のクライブがフランスとインド土侯軍を破った( )
3)解答
1 カリカット e
2 ゴア d
3 マラッカ l
4 マカオ n
5 ディウ沖の海戦 b
6 ホルムズ a
7 アチェ r
8 広州 o
9 長崎 p
10 マニラ s
11 バタヴィア m
12 アンボイナ事件 q
13 カルカッタ k
14 マドラス g
15 ボンベイ c
16 シャンデルナゴル j
17 ポンディシェリ f
18 カーナティック戦争 h
19 プラッシーの戦い i
参考 『世界の歴史まっぷ』さんより
2 対アジア交易
*ポイント 既存の権力、商業圏が強力。新参者として参入する
1)空欄補充
(1) ポルトガル
インド航路の開拓→(1 )の占領(1510)…アジア貿易の根拠地
ムスリム商人との争い…ディウ沖の海戦(1509)
スリランカ・(2 )(1511年占領)・(3 )諸島(香辛料)
ペルシャ湾の(4 )を占領
広州で対明貿易を開始(1517)→(5 )の居住権獲得(1557)
王直の船で(6 )漂着(1543)→平戸に来航
→日本に中国産の生糸や絹織物を輸出、日本銀を入手
王室の独占事業→国内産業の発展につながらず
(2) スペイン
(7 )を領有
新大陸の銀をフィリピンの拠点(8 )へ 対中国貿易
(アカプルコ貿易 ガレオン貿易)
(3) オランダ
連合東インド会社の設立(1602)→ジャワ島の(9 )を拠点
ポルトガル商人の排除 東南アジアとインド南部で香辛料貿易
(10 )事件(1623)イギリス勢力を東南アジアから排除
マラッカ、ケープ植民地(1652)、セイロン島を占領
台湾の一時占領(鄭成功に追い出される)
アジア内貿易(対日貿易の利益利用)
(4) イギリス
インド経営に専念、(11 ・ ・ )
綿布(キャラコ)の輸入
(5) フランス
17世紀初め,東インド会社設立→コルベールの再建(1664)
(12 ・ )を基地 デュプレクスの開発
ベンガル:(13 )の戦い(1757)
イギリス東インド会社書記[14 ]がフランス・地方政権軍を破る
2)解答
3 補足
こちらを参考にしています。
1)インド洋海域の繁栄
当時インド洋海域では香辛料(インドや東南アジア)、乳香(アラビア半島)、馬(アラビア半島やペルシア、ヴィジャヤナガル王国が大量に買いつけたことで有名)、金や象牙(東アフリカ)、絹織物や絨毯(ペルシア)、綿織物(インド)などそれぞれの特産品を求めて貿易船が行き交っていました。
ここで活躍する商人はそれぞれ共同体を作っていました。8世紀以降にムスリム商人が進出しますが、ヒンドゥー、ジャイナ、ユダヤ、アルメニア正教会やキリスト教徒なども多数いて、商業上の慣習を守りながら競争していました。
彼らは季節風を利用して港町(港市)を訪れ取引を行っていました。マレー半島のマラッカ(中国産の陶磁器の集積地)、インドではカリカット(胡椒)、カンベイ(綿織物)、ペルシア湾のホルムズ、紅海入口のアデン(紅海~地中海交易の中継点)、東アフリカのキルワなどです。
東アジアでは内陸の帝国が港に役所を置いて(市舶司は有名)貿易を管理していましたが、インド洋海域では港町は内陸の政治権力から独立し、交易の場を提供して交易品への関税を収入源にしていました。
2)ポルトガル
そこへポルトガルがやってきます。ヴァスコ=ダ=ガマはムスリムを敵扱いし、寄港地では大砲で威嚇して略奪します。カリカットでは税金を踏み倒して出航します。
ガマは「倍返しだ!」とばかりに次の航海では屈辱を受けたカリカットで略奪・破壊を行います。
しかしポルトガルの人口や経済力ではインド洋を支配下に置くことは不可能です。そこでポルトガルは拠点を抑えて要塞や商館を置き、アジアの商人から通行税(「貿易許可証」(カルタス)を売りつける)を取り立てる方針に転換します。
また香辛料はインド洋海域内で流通していますから、ポルトガルがすべて独占することは無理です(香辛料の一部は西アジアやエジプトからヴェネツィアに流れます)。
さらにインド洋交易にとって香辛料はごく一部です。それ以外の多種多様な商品の取引はそのまま続きます。
ポルトガルは東アジア海域でも同じ暴力的な手段を用いようとして明にコテンパンにされたので、倭寇を介し、現地のルールを受け入れて交易をします。
日本との交易についてはこちら
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
ポルトガルがマラッカ海峡を占領したことに対して、ムスリム商人はジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡を抜けてジャワ海に入るルートを開拓します。その途上であるスマトラ島北部にはアチェ王国、スンダ海峡に面するジャワ島西部にはバンテン王国、その東にはマタラム王国などムスリム国家が繁栄します。
アチェ王国はオスマン帝国と直接交易し、香辛料を輸出して火器を輸入し、ポルトガルの武装船団に対抗しました。
17世紀にオランダがポルトガルに代わってインド洋海域に進出すると、ポルトガルはアフリカの奴隷貿易に重点を移します。
3)オランダ
オランダもポルトガルに負けず劣らず暴力的な方法で香辛料貿易を行い、競合相手のイギリスを1623年のアンボイナ事件を契機に追い出します。
17世紀にヨーロッパでは戦乱が相次ぎますが、その中でオランダが経済発展を維持できたのは日本との取引があったからだと言われています。
東南アジアでは横柄極まりないオランダが、江戸幕府に対しては「カピタンの江戸参府」など無理難題に応じていたことから、その利益が莫大であったと想像できます。
しかし17世紀後半に香辛料価格が暴落して利益があがらなくなります。また明清交替の中で台湾を失い、遷界令(康熙帝が台湾攻めのため大陸沿岸部の交易を禁止した)によって中国産の絹織物や陶磁器を入手することが困難になりました。
代わりに日本の有田焼や伊万里焼(秀吉の朝鮮出兵で捕虜になった陶工が製法を伝えた)を輸出しましたが、交易の利益は減りました。
オランダ東インド会社のロゴ入り染付。ウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの写真
4)イギリス
一方東南アジアから締め出されたイギリスはマドラス・ボンベイ・カルカッタに拠点を築いてインド経営に注力します。インド産綿製品はキャラコ、モスリンなどと呼ばれ、ヨーロッパに輸出されて王侯貴族や都市市民の衣生活を一変させます。
またインド産綿製品は大西洋の三角貿易で再輸出され、「こんなに儲かるなら自分で作っちゃえば?」(輸入代替品)と、奴隷貿易の拠点であったリヴァプールの富が後背地であるマンチェスターに投下され、機械織り綿布生産が始まります。
マドラス(現チェンナイ)のセント・ジョージ要塞 ウィキメディアコモンズ パブリックドメインの画像
フランスはコルベールのもと1670年代にインドに進出しますが、イギリスがこれを破ってインドの支配に乗り出します。
5)東インド会社
インド貿易は高い利益率が見込めるものの、船に船員に商品購入資金と準備のハードルが高く、しかも船が戻ってこなければすべてパーです。
それで会社方式で資金を集め、出資率に応じて元本と利益を出資者に返すという方法でリスク回避をすることにしました。
イギリスでは1600年にエリザベス1世がロンドンの商人たちが作った会社に特許状を与えます。いわゆるイギリス東インド会社です。
オランダでは当時複数の港町が貿易会社を設立し、しのぎを削っていました。これらの会社が合同して1602年にオランダで連合東インド会社(VOC)が成立します。
VOCはイギリスのように一回ごとの航海で清算するのではなく、集められた資本は10年間据え置かれて、出資者は配当を受け取っていました。現在の株式会社に近い形です。
おわりに
世界史の教科書の記述だとヨーロッパとアジアの取引が中心になりますが、「アジア内貿易」、ポルトガルやオランダは日本と取引を行って銀を手に入れ、それでアジアの物産を買っています。
要塞の様子を見ていると、グローバルな取引に慣れている他国の商人の間でヨーロッパ人は武力が頼りだったことを思わせます。