はじめに
新型コロナウイルス感染症は収束の見通しが立たないものの、美術館や博物館では換気・消毒の徹底や予約制をとりながら展示会が行なわれています。
今回は京都市京セラ美術館(旧京都市美術館)で開催されているポンペイ展に行きました。平日の午後、予約不要で入館できましたがまずまずのお客でした。
受付で確認したところ、非営利=個人の趣味の範囲内なら展示物の写真をブログに使ってもかまわないというありがたいお言葉をいただいたので、今回はガンガン写真を載せてポンペイ展を宣伝します。(`・ω・´)
入り口が魔改造されていました。チケットもICカードになってました。(*_*)
目次
1 ポンペイ
ポンペイはイタリア半島のナポリの南西にある遺跡です。紀元後79年にヴェスヴィオ火山の噴火で火山灰の下に埋没しました。
ポンペイは東西1600m、南北800mの程の中規模の都市で、東西に2本、南北に1本の大通りが通っています。人口は一万人程度と推定されています。
展示より。以下同じ
市民の多くが火砕流発生前にローマなどに避難しましたが、何らかの理由で街に留まった者の中から逃げ遅れた者約2000人が犠牲になりました。
火山灰に埋もれた遺体の部分だけが空洞になり、そこに石膏を流すと亡くなられた時の様子がわかります。
*刺激の強い画像です。閲覧注意 ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
ポンペイは長く忘れ去られていましたが、水路の工事中に地中に街区が埋もれていることがわかりました。1748年からブルボン家のカルロ王(後のスペイン王カルロス3世)の発案で本格的な発掘調査が始まりました。
*発展
スペイン継承戦争(1701~1713)でスペイン=ブルボン朝(フェリペ5世)が成立しましたが、ラシュタット条約でオーストリアはスペインからナポリを得ました。しかしポーランド継承戦争でスペインのドン=カルロががオーストリアを破り、シチリアとナポリを占領して王に即位します(国制上はシチリアとナポリは別の王国)。
ナポレオンがイタリアを占領していた1812年から13年にかけて街の市民生活や政治の中心であった公共広場(フォルム)が発掘されました。
フォルムの様子を描いたモザイク壁画
1830年に発見された家からはアレクサンドロス3世(大王)とダレイオス3世の戦いを描く、いわゆる「イッソス合戦の図」のモザイクが発見されました。
2 展示のみどころ
① 公共建築と宗教
水道はローマ都市文明の最重要アイテムです。ローマは征服地の上層部に文明を与えて手なづけました。ポンペイも紀元前89年閥族派のスラによって征服され、ローマの植民都市になりました。
詩人ホラティウスは「征服されたギリシア人は猛きローマを征服した(Graecia capta ferum victorem cepit)」という言葉を残していますが、ポンペイからもギリシア由来の神々の像や、演劇にまつわるものが多く出土しています。
上流階級の男性にとってギリシアの教養はステータスシンボルで、家にはギリシア神話にまつわるモザイク画がかけられていました。
街の守護神はウェヌス(ヴィーナス)です。
② 人々の活躍
ローマは階級社会でポンペイも例外なく貧富の差はありましたが、社会の流動性もありました。奴隷は主人の遺言やお金の支払いで解放奴隷になることができ、本人は元主人の庇護下に置かれましたが、解放奴隷の子どもは市民権が認められました。
解放奴隷のルキウス・カエキリウス・フェリックスとその息子ユクンドスは銀行業で財を成しました。これは父親のヘルマ柱胸像(長方形の柱の上に胸像が乗っている)で、柱にチ〇チ〇が生えています。
*刺激の強い画像です。閲覧注意
ローマは家父長制で女性の地位は高くなかったですが、既婚女性は「マトローナ」(女主人)と呼ばれ、公的な役職に就くものや、事業で財を成すものもいました。
③ 人々の暮らし
食べ物や調理器具、外科器具、日常品が展示されています。
膣鏡 おなかが痛くなってきた (>_<)
取っ手のとれ~る、ティ〇ァール
ポンペイにも一家に一台これがあったとは!🐙
④ 繁栄の歴史
ポンペイの著名な邸宅を紹介します。見事なモザイク画や銅像に目を奪われます。
おわりに
ポンペイ展は過去何度か鑑賞していますが、今回はポンペイで生活していた人のリアルな暮らしぶりがわかるように構成されています。
会期は7月3日までです。お早めに。
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