ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

鏑木清方展@京都国立近代美術館2022

はじめに

 新型コロナウイルス感染症は収束の見通しが立たないものの、美術館や博物館では換気・消毒の徹底や予約制をとりながら展示会が行なわれています。

 今回は京都国立近代美術館で開催中の鏑木清方展に行きました。予約制はなく、平日の午後にぶらっと行きました。まずまずの人出でしたが混雑というほどではなく、和装で鑑賞の方もみえました。

 展示品の写真撮影はNGなので、フライヤーやポップを使います。ブログ記事は展示の説明や図録、文中で紹介したリンク先を参考にしています。

美術館前

公式 

kiyokata2022.jp

鎌倉市鏑木清方記念美術館

www.kamakura-arts.or.jp

目次

 

1 鏑木清方

 鏑木清方(かぶらき・きよかた)は1878(明治11)年、東京神田に生まれました。13歳の時に浮世絵師の系譜を引く水野年方に入門し(清方の号は師匠からもらった)、17歳から清方の父親である採菊が経営していた「やまと新聞」に挿絵を描き始め、20代には新聞や雑誌の挿絵画家として活躍していました。

 鏑木は1901年に画家仲間と「烏合会(うごうかい)」を結成、泉鏡花の『三枚續(さんまいつづき)』の口絵と装幀を依頼され、鏡花と親交を結びました。この頃から日本画への関心を深め、特に文学から題材を得た作品を多く発表しはじめました。

 1927年、第8回帝展(今の日展)に出品した『築地明石町』が帝国美術院賞を受賞し、1929年に帝国美術院、1937年に帝国芸術院の会員に選出され、1944年に帝室技芸員になりました。しかし官製の展覧会は制約が多かったようで、烏合会の展覧会を中心に作品を発表しつつ、挿絵画家の活動も続けていました。

 東京大空襲で自宅が焼けたため、戦後清方は鎌倉市に自宅を構え、関東大震災東京大空襲で失われた明治時代の古き良き東京の下町風俗や美人を、93歳で亡くなるまで描き続けました。

毎日新聞1954年11月3日号より。著作権切れのためパブリックドメインの画像にあたります。

2 展示のみどころ

① 明治時代

 浄瑠璃の名シーンをモチーフにした作品が展示されていました。『金色夜叉』の絵看板は想像通りのお宮・貫一です。『雛市』は日本橋の雛市を描いた初期の作品で、ひな人形に興味津々な女の子を中心に明治の風俗が描き込まれています。

お土産のクリアファイルと展覧会のフライヤー。あれ?『雛市』が映り込んでいる…。

② 大正時代

 女性をモチーフに東京下町の日常を描く手法や、バックの風景をぼかし気味に描いて人物を強調する技法など、清方のスタイルが確立します。

 遊女が多く描かれています。泉鏡花『通夜物語』の主人公、丁山を描いた物語風の作品は清方本人も「会心の作」としています(フライヤーに映り込んでいる)。『晩涼』も泉鏡花の作品から、遊女に身を落とした巳代が遠くの山を眺める様子が切ないです。

 清方は別荘のあった金沢八景界隈を朝に長女と散歩するのを習慣としていて、『朝涼』はその様子を描いています。お下げ髪の長女が愛らしく、鎌倉市鏑木清方記念美術館のメイン展示物になっています。

こちら

www.kamakura-arts.or.jp

③ 昭和戦前

 今回のメイン、美人画三部作の展示です。三人勢揃いは関西初だそうです。

1)『築地明石町』

参考

sakamichi.tokyo

ホワイエの巨大ポップ

 清方が49歳のときに描き、第8回帝国美術院展覧会(1927年)で帝国美術院賞を受賞した清方渾身の作です。個人の所有で展示会の時には清方の依頼で貸し出されていましたが、1975年を最後に行方不明になり、44年ぶりに発見されて現在は国立美術館が所蔵しています。

artexhibition.jp

 明石町は現在の中央区明石町にあたり、1899年まで外国人居留地がありました。

 「見返り美人」を思わせる凛とした女性は、洋風の髪型(イギリス巻き、夜会巻き)、水色の小紋の着物の上に黒い羽織、指輪をしています。足元には終わりがけの朝顔が巻き付く洋風の垣根、背景にはうっすらと帆船が描かれています。

 幼少期を築地界隈で過ごした清方にとって明石町は遊び場で、居留地の異国情緒とそこに出入りする和洋ハイブリッドの貴婦人に清方はさぞやドキドキしたのでしょう。おませちゃんです。(*゚∀゚)σ)∀`)プニ♪

 ぶんぶんは幼少時名画を図案にした「切手趣味週間」の切手がお気に入りで、『築地明石町』の切手を買おうと思ったらシート売り(20枚綴り)と言われてショックした記憶があります。ぶんぶんにとってこの絵は40年来の恋人です。

2)『新富町

参考

sakamichi.tokyo

 築地の外国人居留地の客を見込んで京橋区新富町に花街ができていました。つぶし島田の髪型の新富芸者は利休色の江戸小紋の羽織、足もと・手もとからカエデの柄の着物がのぞいています。ご出勤?

 背景の新富座の演目は『仮名手本忠臣蔵』(新富町の近くに赤穂浪士が歩いたルートがある)だそうです。観劇後、お金持ちの観客は飲み屋になだれ込んで「芸者をあげた」のでしょう。

 清方の通う小学校には芝居関係者が多く、最初は役者になろうとして授業をサボったため父親に叱られ、その後挿絵師を目指したそうです。つまりこの絵には清方のこっぱずかしい思い出が詰まっているのですが、裏話抜きで見事な美人画です。

 しかし貴婦人の次は芸者、おませにも程があります。(ノω`*)σ)Д`*)))コノコノ♪

3)『浜町河岸』

参考

sakamichi.tokyo

 清方は28歳から6年間、日本橋浜町に居住していました。

 浜町には歌舞伎踊りの藤間流・二代目藤間勘右衛門の家があり、多くの生徒が通っていました。この女性もおそらく稽古の帰り、扇子をくわえて身体を傾ける姿はほほえましく、師匠に指導された箇所を復習しているのでしょうか。松竹梅の着物の裾から流水文の下着がちらりとみえるところもおしゃれです。

 背景の火の見櫓は関東大震災前まではあったと清方自身は回想しています。他の2作からは幼少期の年上女性に対する憧れを感じますが(構図も見上げている感じ)、『浜町河岸』は大きなお友だちが「お嬢ちゃん、お稽古の帰り?」と年下娘に「萌え」ている(構図もやや上から見下ろす感じ)印象です。(*´д`*)♡

 なお今下校する女子生徒をジロジロ見たら通報案件です。

④ 戦後

 鎌倉市に移住した清方は、93歳で亡くなるまで失われた明治の風俗を精力的に描き続けました(フライヤーにあり)。また大佛次郎が戦前に寄稿していた文芸誌『苦楽』を1946年に復活させた際に、彼のすすめで表紙画や挿絵を提供しました。

 

おわりに

 ぶんぶんは40年前にこの切手を見て、シュッとした洋髪・和装のお姉さんに説明できない何かを感じました。

 いつの時代でも大人の女性にときめき、無邪気な娘さんに萌えるものです(通報案件)。リアルな明治を知らない私たちが清方の絵を見て何か懐かしさを感じるのは、シンプルな構図の中に彼の過ぎし日への愛着が圧縮されていて、それが私たちの心の奥底にしまい込んだものを解凍させるからかもしれません。

 会期は7月10日までです。お早めに。

追加

 『たけくらべ』ラストシーンの美登利の絵は「実写化したらイメージ壊れるからやめて」という人も納得の一品です。現場で堪能してください。