授業ではあまり先生が触れない割に入試で出題される遊牧民の世界、第3回は騎馬遊牧民の出現と遊牧国家の出現についてです。
今回の問いは次の3つです。
- 遊牧民が馬に乗る技術を手に入れてどうなった?
- 草原の道とオアシスの道の関係は?
- 遊牧国家ってどうして突然強大化したかと思ったら急に崩壊するの?
実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社(新世界史、詳説世界史)と、山川出版社『詳説世界史研究』『世界各国史4中央アジア』、講座岩波世界歴史(第2シリーズ)第3巻を参考にしています。
図版は断りがない限りウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像です。
その他
上記のダイジェスト版
目次
1 中央ユーラシア
啓隆社さんから記号なし地図の使用の許可をいただきました。ご協力ありがとうございます!
補足
新しい教科書では「内陸アジア」に代わって、ユーラシア大陸中央部、パミール高原の東西に広がる砂漠・オアシス地域とそれに隣接する草原地帯、東はモンゴル高原や満州西部、西は黒海北岸やハンガリー、南北はチベット高原からシベリア南部にかけての広大な乾燥地帯を指す「中央ユーラシア」という呼称が使われています。
ユーラシアのステップベルト 水色の部分
モンゴル高原から草原地帯をまっすぐひた走ると黒海北岸に達します。フン人、アヴァール人、モンゴルなどのルートです。その南の砂漠地帯にオアシスが点在します。
2 騎馬遊牧民の出現
紀元前7600年頃 西アジアの「肥沃な(1 )地帯」で定住生活が始まる
野生麦の栽培、野生動物(羊、ヤギ、牛、豚)の家畜化(牧畜)
紀元前2500年頃 乾燥化により草原地帯が形成
(2 )の出現 家畜の群れを連れて季節に応じて移動する
馬の家畜化:最初は車を引かせる→騎馬技術の発明
空欄
1 三日月
2 遊牧
補足
① 馬の家畜化
「肥沃な三日月地帯」とよばれる西アジア地域で農耕や家畜の飼育が発明され、中央ユーラシアにも伝わります。中央ユーラシアでは紀元前3500年ごろに野生の馬が家畜化されたとされます。
さらに紀元前2000年頃にはスポークが発明され(それまでは丸板の車輪)、青銅製の馬具を装備した一対の馬に二輪の車を引かせる馬車戦車(チャリオット)が発明されました。
アブシンベル神殿に残るヒッタイトのスポーク式馬車戦車 鉄製の車軸のおかげで3人乗れる
馬車戦車の伝播。かつては西アジア起源とされていましたが、発掘調査から中央ユーラシア草原地帯西部を発祥とする説もあります。
Dbachmannさん作。クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 Unported
本文とは全く関係のない動画 シルバーチャリオッツ
紀元前一千年紀に入る頃に人が轡(くつわ)と手綱(たづな)によって直接馬に乗る技術とそのための青銅製の馬具が発明され、中央ユーラシア全域に伝わりました。
パジリク古墳群の壁画。轡と手綱は描かれていますが、足を置く鐙(あぶみ)や腰掛ける鞍(くら)が発明されるのは紀元後3世紀なので描かれていません。
② 騎馬遊牧民
中央ユーラシアでは羊、ヤギ、馬、牛、ラクダを財産として生活していました。家畜は人間の食用に耐えない草を食べ、その乳は乳製品や酒の原料となり、肉は食料に、毛皮は衣服や容器に、毛はフェルトに加工されて衣服や住居になりました。
しかし農耕に比べれば生産性は圧倒的に低く、一家族が生活するにも大量の家畜と飼育のための草場や水飲み場が必要です。そこで家畜を連れて季節的に移動することになります。これが「遊牧」です。
馬車戦車は急停止・急発進は無理で、狭いところも苦手です。騎馬技術はそれらを可能にし、少人数で大量の家畜をどこへでも連れていくことができるようになりました。
こうして紀元前9世紀から前8世紀にかけてユーラシア各地で「騎馬遊牧民」が出現しました。家畜と人口が増加してくれば争いが生じます。彼らは馬上から弓を射る技術を覚え、鉄器が伝わるとその力はさらに増しました。
過酷な乾燥地帯での生存競争で強靭な肉体と精神力を身につけ、機動力に優れた軍事力を駆使する騎馬遊牧民は18世紀までは最強の集団、つまり今は「世界の中心」みたいな顔をしているヨーロッパや中国の方がかつては「周縁」だったといっても過言ではありません。
3 遊牧国家の出現
(3 ) 前6世紀~前4世紀
[4 ]の『歴史』に叙述 アケメネス朝と争う
独特な動物紋様 馬具
前4世紀頃 中央ユーラシア東部で遊牧民の活動が活発化
(5 )(天山山脈北嶺) (6 )(河西地方)
(7 )(モンゴル高原南部 陰山山脈)
遊牧民と農耕民の関係
(8 )の道…遊牧民の活動する草原地帯
(9 )の道…砂漠周辺のオアシスでは農耕可能
遊牧民は食料をオアシスに、オアシス民は交通の安全を遊牧民に依存
遊牧民が政治権力を掌握、オアシス民が協力する遊牧国家の形成
空欄
3 スキタイ
4 ヘロドトス
5 月氏
6 烏孫
7 匈奴
8 草原
9 オアシス
補足
① スキタイ文化はどこからどこへ伝わった?
「スキタイ」は紀元前7世紀から紀元前4世紀にかけて北カフカスから黒海北岸で支配的であった騎馬遊牧民に対してギリシア人が与えた名称です。
古い世界史の教科書には「スキタイの騎馬文化が東方に伝わった」とありましたが、考古学調査ではモンゴル高原や中国北部までの広い範囲で同時期にスキタイと同様の文化が存在していたことがわかっています。
南シベリアのトゥバ共和国の古墳から初期スキタイの馬具が発見され、木材は炭素測定法からスキタイが黒海北岸で台頭したよりも古い年代であることがわかりました。
つまりユーラシア全般に比較的共通した文化や習慣を持つ騎馬遊牧民が、相互に交流を保ちつつ、独自の世界を形成していて、そのうちギリシアの歴史書に最初に名を残した強力遊牧国家がスキタイだったということです。
西方の遺跡の発掘が時代的に早かったこと、スキタイの古墳群や遺物が特に豪華だったこともありますが、「文明は進んだ西側から遅れた東側に波及するもの」という西洋中心主義的な思い込みもあったかもしれません。
スキタイ文化は金属器が特徴的です。教科書に出てくる胸飾りはギリシアの写実的美術の影響を受けた後期のもので、上段に遊牧民の生活、中段に植物、下段に動物の闘争(想像上の動物であるグリフォンが馬や豚をかじっている)が描かれていて、中段と下段はスキタイが自らの力の源と考えていたものと思われます。
参考
② 遊牧民とオアシスの民
カナートの模式図
移動生活を基本とする遊牧民は余分な蓄えを持たず、家畜から得られない穀物や金属製品は交易で補う必要がありました。
一方山脈の麓にある砂漠地帯では、雪解け水による河川や地下水を利用して(この仕組みがカナート)砂漠の中に人工的な耕地や集落(オアシス)が形成されました。
オアシスでは農業生産と交易に支えられて都市国家や都市国家連合が作られましたが(オアシス国家)、それぞれが地理的に孤立している上(維持できる人口に限りがありました。
そこでオアシスの農耕民は農産物や手工業製品を、草原の遊牧民は畜産品や移動手段・安全保障を提供し合い、国際商人がそれらの間で遠距離交易に従事しました。
こうして騎馬軍事力を持つ遊牧民が政治権力を握り、経済力を持つオアシス民や国際商人が協力したとき、強力な遊牧国家が成立しました。
ただし遊牧民はいくつかのグループに分かれて移動生活を送る武装集団です。リーダーは彼らを統制し、その利害(だれがどこの草原を利用するか)を調整する必要があるので、かなりの器量が求められます。
強力なリーダーが出現すれば多種多様な遊牧民を糾合して巨大が遊牧国家が出現し、リーダーが死んで後継者が凡庸なら瞬く間に分裂・解体します。また遊牧国家が例外なく敵味方関係なしに実力本位で取り立てるのも、彼らの柔軟さの一面です(この項帝国書院の教科書より)。
3 匈奴の台頭
前4世紀 戦国の七雄の燕、趙が(10 )を建築
前3世紀後半 秦の始皇帝
前3世紀末 [11 ]が東胡、月氏をやぶりモンゴル高原を統一
漢の高祖をやぶり(白登山の戦い)、毎年絹や食料を送らせる
軍事・社会・政治組織は十進法 単于を中心に左右両翼体制
前1世紀 東西に分裂 東匈奴は漢に服属
後1世紀 東匈奴は南北に分裂
→北匈奴は1世紀末に西へ フン人の移動
空欄
10 長城
11 冒頓単于
12 張騫
補足
紀元前2世紀のユーラシア。トーマスA.レスマンさん作成。「公的および/または教育的使用のために無料」です。Creative Commons Attribution3.0Unported
匈奴は「Xiongnu khanate」 マウリヤ朝、パルティア、バクトリアの名前を見えます。
① 冒頓単于
スキタイが台頭していた時代、中国の春秋・戦国時代には北方や西方に「蛮族」が台頭し、燕、趙、秦はそれに対抗するため長城を築くなどしていましたが、前3世紀後半に東胡・匈奴・月氏が強大化しました。
*趙の武霊王は騎馬戦術を採用し、自軍に「胡服騎射」(袖が短い上着にズボン)を導入しましたが、「蛮族」の衣装を着ることには反対が多く、王は守旧派に暗殺されました。我乃野0082鹤さんの作品。Creative Commons Attribution-Share Alike4.0International
司馬遷は『史記』で匈奴について詳細に記述しています。「移動しながら生活し、農耕はせず、騎馬に長け全員が戦士、有利と見れば攻め、不利と見れば撤退する」という匈奴の様子はヘロドトスの『歴史』のスキタイに関する記述と驚くほど似ています。
司馬遷によると、冒頓単于の父は後妻の子を後継者にしようとして彼を月氏へ人質に差し出した上で月氏を攻撃しましたが、計略を察知した冒頓は馬を盗んで帰ってきました。その後冒頓は部下に自分の愛馬や父の妃や馬を射るように命じ、ためらったものは殺し、忠誠を誓う者たちで父を暗殺しました。
また冒頓は東胡に愛馬や妃をあっさり与えたので、東胡があなどって領地を欲しいと言ってくると一転出兵して東胡を滅ぼした、と司馬遷は伝えます。
冒頓はさらに月氏を西方に追い払い、モンゴル高原に大帝国を建設しました。
劉邦が項羽を破って漢王朝を開くと(高祖)、北方を警備していた韓王信は匈奴との和平を探っていましたが、それが高祖に裏切りではないかという疑念を抱かせ、身の危険を感じた韓王信は匈奴に降伏しました。
高祖は韓王信を討つべく自ら軍を率いましたが、冒頓は平城郊外の白登山に劉邦軍をおびき寄せ包囲しました。絶体絶命の高祖は冒頓の妃に贈り物を送って和平を乞い、高祖は一族の子女を匈奴に嫁がせ、匈奴に毎年絹、穀物、酒などを献上することを約束しました。
② 持続可能な遊牧国家?
漢の懐柔によって匈奴の攻撃はやや和らぎますが、略奪行為は続きました。ただし略奪の対象は人間や家畜で、モンゴル北部からは農耕を行っていたと考えられる遺跡が発見されています。
遊牧民が「ヒャッハー!」と農耕民から略奪するだけではいつかは滅びます。蓄えることが難しい騎馬遊牧民は天災には脆弱で、実際に匈奴が東西に分裂したのは冷害によって家畜が大量死した時期と重なります。そこで農耕民を誘拐して穀物を作らせてたと考えられます。
最近は、モンゴル高原と華北には明確な地理的境界や生態環境の境界がなく、遊牧民の活動する草原と農耕民の耕作可能地域が入り組んでいて、この地域を足掛かりに遊牧国家が台頭する、とする説もあります。
参考
ただし騎馬遊牧民は厳しい生活の中で武力を身につけているからこそ農耕民を服従させることが可能です。『史記』によると、匈奴に仕えた漢の宦官の中行説は、単于に「絹の服や漢の食べ物になじめば匈奴はたちまち漢化してしまう」といさめています。
この遊牧国家のディレンマ(農耕世界を征服して文化を受容すると戦闘力が低下する)はこの後も起こります。
*発展
中行説は行政や外交でも活躍し、家畜の数を記録して課税する仕組みを考えたり、漢に送る木簡を漢よりちょっと大きくし、書き出しも「天地の生むところ、日月のおくところの匈奴大単于が謹んで問う、漢の皇帝はご無事でおられようか」と大単于の修飾語を多めにし、漢に対等以上に振舞うよう指示した、と司馬遷は記します。
このことから「匈奴が漢を服属させていた」とする解釈も成り立ちます。
なお王権の正当性を天や雷に求める記述は他の遊牧民にもみられます。現代でもゴルフ場で一番怖いのは落雷です。⚡
③ 内紛と分裂
冒頓の死後も匈奴と漢は和睦と侵攻を繰り返しましたが、武帝の攻撃と、匈奴に服属している西域や烏孫、匈奴と連絡を取り合っていた羌への離反工作が功を奏して、戦局は次第に漢に有利になります。
*発展:とはいえ漢も苦戦し、紀元前99年には李陵が単于の本隊に敗北して捕虜となり(武帝が李陵の一族を皆殺しにしたので李陵は匈奴の将軍になった)、前90年には李広利が捕らえられて単于に重用されましたが讒言で殺されました。李陵の悲劇は後世多くの文学作品に取り上げられています。
匈奴側も後継者争いや宮廷の内紛が起きて衰え、紀元前1世紀には兄(郅支(しっし)単于)と弟(呼韓邪(こかんや)単于)が争い、兄側が勝利します。敗れた弟は援助を求めるため漢の臣下になり(東匈奴)、兄は西方に拠点を移しました(西匈奴)。
しかし西匈奴が横暴なので周辺諸国の反発を買い、漢の西域都護の攻撃を受けて崩壊しました。
東匈奴の呼韓邪単于はその後も漢との関係を深め、元曲で知られる王昭君を妃に迎えました。しかし新たに実権を握り周を理想化した王莽は、匈奴を従属国扱いにしようとしたため匈奴が反発、オアシス都市を味方につけて王莽に対抗します。
この後王莽が死ぬと東匈奴は一時強盛を誇りますが再び跡目争いが発生し、紀元後1世紀半ばに漢から独立を志向する集団(北匈奴)と、漢との和睦を求める集団(南匈奴)に分裂します。
南匈奴は3世紀に中国内地に侵攻して「五胡」のひとつとなり、北匈奴はさらに西進して『後漢書』2世紀の記録を最後に姿を消します。
4世紀にヨーロッパにやってきたフン人は北匈奴だという説がありますが(匈奴とフンは音が類似)、「騎馬遊牧民はリーダーのもと様々な集団が大帝国を作る」という「柔軟性」の視点からすれば、フン人の中に匈奴の末裔がいても不思議ではありません。また遊牧民集団が「匈奴」ブランドを拝借したとも考えられます。
「民族」や「人種」という近代的な発想だけで遊牧民を論じてはいけないということです。
休憩
東匈奴は「服属」しているので「公主降嫁」ではなく宮女である王昭君が派遣されました。王昭君は呼韓邪単于の妻として寧胡閼氏と号し、一男をもうけました。その後呼韓邪単于が死亡したため、義理の息子に当たる復株累若鞮単于の妻になって二女をもうけました。
騎馬遊牧民の世界では男性が戦争で死亡し未亡人が大量に発生するので、弟が兄の妻を嫁にするとうことが行われていました。ある意味合理的です。
4 その他中央ユーラシアの遊牧民とオアシス民
パミール高原以西の世界
(13 )(フェルガナ)シル川上流 前3世紀ごろ
武帝が「汗血馬」を求めて李広利を大宛へ派遣
(14 ) 月氏がアム川上流に建国 張騫の来訪
大夏(トハラ)を服属させ東西交易で繁栄
(15 )人 アム川とシル川の間 ソグディアナのイラン系
東西交易の中継商人として中央ユーラシアや中国に居留地を設ける
タリム盆地のオアシス都市
後漢の[17 ](西域都護)が諸国を服属させる 仏教受容
空欄
13 大宛
14 大月氏
15 ソグド
16 敦煌
17 班超
補足
地図 トムルさん作成。パブリックドメインの画像
① オアシス都市は国際商業のジャンクション
アラル海の南、ソグディアナ地方はアケメネス朝のレリーフにソグド人やフタコブラクダを引くバクトリア人が描かれていることから、紀元前6世紀にはすでにイラン人の影響が及んでいました。
アケメネス朝はアラム語を公用語にしていたので、アラム文字の影響を受けたソグド文字が生まれ、中央ユーラシア各地に影響を与えました。
さらにアレクサンドロス大王の遠征以後にギリシア人が入植し、現地の文化とギリシア文化が混交します。前3世紀半ばにセレウコス朝から自立したバクトリア王国(グレコ・バクトリア)はギリシア風のコインを持ち込み、交易で栄えました。
張騫は大月氏国に赴き匈奴挟撃を提案しますが、彼らは大夏を服属させて東西交易で繁栄していたので誘いに乗りませんでした。この大夏はバクトリア王国を滅ぼした国のひとつ、トハラ(トカラ)国と考えられます。
張騫はまた「バクトリアにインド経由で四川の竹杖や布がもたらされている」と記しています。
「シルクロード」は洋の東西をつなぐ響きですが、草原の道とオアシスの道は東西だけでなく南北にもつながる複数のネットワークであり、無数にある結び目の多くが交通の要衝で、大小の都市が発生し、交易と文化交流が行われていました。
そしてそれは張騫がやってくる以前から存在していたということです。
タリム盆地で最大のオアシスは仏図澄や鳩摩羅什の出身地として有名なクチャで、当時人口を10万人を数えたそうです(カシュガルやホータンで2万人程度)。
スバシ故城 クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 1.0 一般
ソグド人について
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まとめ