ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

センター・私大世界史直前チェック(戦後史その3東南アジア)

 教科書が最後まで終わらない受験生向け必要最低限の戦後史、第3回は東南アジア諸国の独立と展開です。

過去回

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

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凡例:[   ]:人名 {   }:事件、制度、地名

空欄:センターレベル 赤字:中堅私立大学レベル

 

1 ベトナム

① 1946~54 インドシナ戦争

[1     ]…1941年に(2     )(ベトミン)を結成

1945年 日本の敗北→ベトナム(3     )国の建国を宣言

    →フランスが認めない 戦争開始

1949年 ベトナム国(主席 [4     ])

    フランス連合内のベトナム人国家

1954年 (5             )でフランス大敗

1954年 (6      )休戦協定

 北緯(7   )度を暫定軍事境界線 2年後に南北統一選挙の実施

 アメリカが統一選挙を拒否 南にベトナム(8    )国が建国

 首班 [9         ]

 →(10        )戦線の抵抗運動→北ベトナムの援助

 

② 1965~75 ベトナム戦争

1965年 トンキン湾事件ジョンソン大統領の(11    )開始

    泥沼化、北ベトナムにはソ連や中国が援助

1972年 ニクソン大統領の訪中

1973年 (12    )和平協定 米軍撤退

1975年 南ベトナムの首都(13    )陥落

1976年 ベトナム(14        )国 首都ハノイ

    →ベトナム難民増加

 

③ 自立と経済発展

1978年 (15        )へ侵攻→ 79年 (16   )戦争

1980年代後半 (17      )(刷新)…市場経済導入

1995年 ASEAN加盟

 解説

 日本が降伏すると、北部を押さえていたベトミンが独立を宣言しますが、あくまでフランス連合内の国家(カンボジアラオスはそれ)にとどめたいフランスと交渉決裂、インドシナ戦争が勃発します。

 フランスは戦力的には優位にもかかわらずゲリラ戦に苦しみます。そこでベトナム内の反共勢力を集め、阮朝最後の皇帝のバオ・ダイを主席に傀儡国家を作ります。あれ、それ満州国

 フランス撤退後はアメリカ合衆国が介入します。一国が共産化するとドミノが倒れるように共産化するという「ドミノ理論」で、南ベトナムを支援します。

 大統領のゴ・ディン・ジエムは弟のゴ・ディン・ヌーを大統領顧問に任命し、秘密警察と軍特殊部隊を使って国内の共産主義者を始めとする反政府分子を厳しく弾圧します。また大統領はカトリック教徒でサイゴンカトリック信者を優遇し、それに反発した仏教徒のデモを弾圧します。

*殺生を禁じられている僧侶は焼身自殺で抗議(事前に予告)しますが、これに対して弟嫁が「モンクのバーベキュー」とテレビで言い放ち、全世界から非難を浴びます。

  1964年にジョンソン大統領は、北ベトナム沖のトンキン湾北ベトナム軍の哨戒艇アメリカ海軍の駆逐艦に魚雷を発射したことを口実に、翌年北ベトナム空爆を開始します。

 のちに最初の攻撃はアメリカ軍が北ベトナムの領海内で作戦中だったこと、2回目の攻撃は捏造であったことが明らかになりました。

 「ベトナム石器時代に戻してやる」と不遜なアメリカ軍(韓国、オーストラリア、ニュージーランドも派兵)でしたが、ゲリラ戦に兵士は消耗します。

 枯葉剤をまいたり、ゲリラと非戦闘員の区別がつかなくて村民を虐殺したり(ソンミ村)と戦争は泥沼化、その様子がメディアで国内外に伝えられて反戦運動が活発化します。

枯葉剤の影響とみられる結合双生児として生まれた「ベトちゃん・ドクちゃんの弟さんの記事

mainichi.jp

 結局アメリカは「南ベトナムの自己責任で」と撤退、75年にサイゴンが陥落し、76年にはベトナム社会主義共和国として統一されます。

 その後はベトナム共産党一党独裁を守りつつ、中国やソ連とも距離を取り、開放政策も進めて独自の国家建設を目指しています。

 参考。解放民族戦線が蜂起したテト攻勢で、拘束されたゲリラが路上で処刑されるシーンは、今の放送コードだとNGかも。なお解放戦線はリベラル知識人の集まりで、無謀なテト攻勢北ベトナムが彼らを損耗させるためではないかという説もあります。

空欄

1 ホー=チ=ミン 
2 ベトナム独立同盟
3 民主共和 
4 バオ・ダイ 
5 ディエンビエンフー 
6 ジュネーヴ  
7 17
8 共和 
9 ゴ=ディン=ディエム 
10 南ベトナム解放民族
11 北爆 
12 パリ(ベトナム) 
13 サイゴン 
14 社会主義共和
15 カンボジア
16 中越
17 ドイモイ

  

2 カンボジア

1949年 フランス連合内での独立 国王[18    ]→53年に独立

1970年 親米軍人ロン・ノルのクーデタ

    → [19     ]率いる(20     )との内戦

1976年 民主カンプチア ポル・ポト政権

    →親中国 極端な共産主義 大量虐殺

1978年 ベトナム軍侵攻、ヘン=サムリンのカンボジア人民共和国

1979年 中越戦争 内戦続く

1991年 パリ和平協定

1992年 国連カンボジア暫定統治機構(21    )

1993年 カンボジア王国

    シハヌーク派・中立派・親ベトナム派の連合、国王シハヌーク

1999年 ASEAN加盟

解説 

 シハヌークは独裁政治の元、仏教と社会主義に基づく国家建設を目指しますが、次第に親中国、反米路線を取ります。

 北ベトナム南ベトナム解放民族戦線カンボジア経由で物資を送るのを黙認したのでアメリカが激怒、クーデターが発生して、外遊中のシハヌークは中国に亡命します。

 新政府はカンボジア国内で活動する北ベトナム勢力を掃討するためアメリカ軍のカンボジア侵入を認めたため、ベトナム戦争カンボジアにも拡大、国内でも政府軍と共産党勢力の内戦が勃発します。

 政権を奪取したポル・ポト毛沢東を理想化し、原始共産社会を目指してプノンペンの200万人市民を農村へ強制移住、通貨の廃止、家族の解体(子どもだけで集団生活) を強行し、反対派を虐殺(一説に100万人以上)します。

*知識人を嫌悪し、大学卒は処刑、教員も処刑、眼鏡をかけているとインテリだから処刑されたそうです。私は3回処刑です。(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

  このため大量の難民がベトナムに流れ込み、ベトナムは親ベトナムヘン・サムリンを擁立してカンボジアに侵攻し、ポル・ポトを追放します。

 これに怒った中華人民共和国ベトナムに侵攻しますが、ベトナム軍が持つアメリカ軍が放棄した武器の前にコテンパンにされます。

 その後ジャングルに逃げ込んだポル・ポトとの内戦が続きます。この時に埋設された地雷が今も生活の障害になっています。

 1991年に国連が仲介して和平協定が結ばれ、自由で公正な選挙で選ばれた議会が憲法を制定し政府を設立することを目標にUNTACが組織され、その代表に明石康さんが就任します。

 UNTACは自衛隊にとっては初のPKOとなります。また文民警察要員として警察官が、選挙要員として国家および地方公務員・民間人が派遣されます。この時に中田厚仁さん(国連ボランティア)と高田晴行さん(警部補)の2人が殉職します。

参考

 これも


2019.2.2 トゥール・スレン大虐殺博物館

*発展:フランスは植民地を支配するためにベトナム人カンボジアラオス統治に使いました。清朝冊封関係(ベトナムが「小中華」)を利用した分断政策です。後の対立はこれが尾を引いています。

空欄 

18 シハヌーク 
19 クメール=ルージュ
20 ポルポト
21 UNTAC

 

3 東南アジア各地のトピック

① インドネシア

 [22     ] :大戦中は日本軍に協力

      戦後インドネシア共和国の独立宣言→オランダが認めない

      →1949年に独立達成 

      親中国政策、国際連合の離脱

 1965年 (23     )事件でスカルノ失脚→[24     ]大統領

 1997年 アジア通貨危機:タイのバーツ暴落が契機 スハルト退陣

 (25       )…ポルトガル領 1975年に独立

  →1976年 スハルトが併合→独立派が勝利もインドネシアの干渉

  →国連暫定行政機構が介入→2002年に独立

 

② ビルマ ミャンマー

 大戦中:親日政権→反ファシスト人民自由同盟の抗日運動

 1947年:タキン党の[26    ]、イギリス首相アトリーと独立協定

     →暗殺 1948年独立達成(ウー=ヌー)

 1962年 ネ=ウィンの軍事政権 ビルマ社会主義 鎖国状態

 1988年 軍事クーデタ 国名をミャンマー連邦と改称

     民主化運動弾圧 アウン=サン=スー=チーの軟禁

 2015年 スー=チーの国民民主連盟が選挙で勝利

     ロヒンギャの難民問題

 

③ マレーシア

 マレー人と華人(マラヤ共産党)の対立

 1957年 マラヤ連邦

 1963年 マレーシア連邦シンガポールボルネオ島北部)

 1965年 華人の多い(27     )が分離独立

 開発独裁…マレーシア:マハティー

      シンガポールリー=クアン=ユー

 

④ フィリピン

1934年 独立準備政府→日本軍の占領→1946年独立

マルコスの開発独裁 アキノ上院議員暗殺→86年の革命で失脚

   
⑤ 東南アジアの統合

1954年 東南アジア条約機構(28      )

 米・英・仏・豪・ニュージーランド・フィリピン・タイ・パキスタン

1967年 東南アジア諸国連合(29      )

 タイ、インドネシア、フィリピン、マレーシア、シンガポール

 当初は反共連合→84年ブルネイの加盟後は経済政治協力機構へ

 現在はASEAN10

まとめ

 東南アジアは大きな都市文明の通り道に位置し、「インド化」のように、土着勢力が外来の文化を自らの権威付けに導入し、それを「カスタマイズ」してきました。受容した文化もカスタマイズの方法も地域によって違います。 

 西欧化・ナショナリズム共産主義も同じです。スカルノは日本に協力しながら戦争の方法を学んで戦後オランダを駆逐し、多様な諸島世界を「インドネシア国民」として統合しようとします。

 資本主義も共産主義も彼らにとっては「貧乏退治の方法」でしょう。

 こうした多様性と「しなやかさ」を理解しないで、アメリカ合衆国は東南アジアを十把ひとからげにして「ドミノ理論」を唱えて失敗しました。歴史学習は大事です。

*発展:なお国民統合の過程で華人の扱いが問題になります。インドネシアでは中華人民共和国べったりのスカルノが追放され。スハルト華人を弾圧します。マレーシアではシンガポールが事実上追放、ベトナムでは統一後に「ボートピープル」と呼ばれる難民が発生します。

空欄

22 スカルノ 
23 9・30 
24 スハルト 
25 東ティモール 
26 アウンサン
27 シンガポール
28 SEATO
29 ASEAN

続く