はじめに
大型コンテナ船「エバーギブン」はパナマ船籍(便宜置籍船)、所有者は愛媛県今治市に本社を置く大手海運会社正栄汽船、同船を運行していたのは台湾の長栄海運、乗組員はマレーシアなど多国籍、とまさにグローバルを絵で描いたようです。
ツイッターで大学に合格したての方が「ニュースを見てスエズ運河について芋づるで事項を思い出した」と受験生の鏡のような発言をしていました。
2021年度入試ではBLMや疫病についての出題が相次ぎ、共通テストも公文書の改ざんに言論統制に英語植民地主義と攻めていました。時事問題は要チェックです。
今回はスエズ運河の歴史について整理します。
実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社(詳説と新)の教科書、帝国書院(タピストリー)と浜島出版(アカデミア)の資料集、山川出版社の『世界近現代全史』を参考にしています。
これも参考にしています。
目次
1 スエズ運河
① 場所
世界の歴史まっぷさんより。いつも助かります!
② 建設の歴史
スエズ運河は地中海側のポートサイドと紅海側のスエズを結ぶ人工海水路です。1859年に建設が開始され、10年後の1869年に全長162㎞、幅22m、深さ8mで開通しました。(現在は新スエズ運河が開通して拡張されています)。
スエズ運河が完成するまでは、ヨーロッパからアジアに行くには喜望峰を経由するか、エジプトの砂漠を陸送していました。最初はラクダでの輸送でしたが、1850年代にはイギリスが鉄道を建設しました。
フランス人のレセップスは、外交官時代の旧知を利用してエジプト太守のサイード・パシャから運河建設の特許を得て、1858年に万国スエズ海洋運河会社(スエズ運河会社)を設立しました。
レセップスはヨーロッパ各国を回って資金やを調達し技術者を集めますが、鉄道を建設していたイギリスは株式の取得を拒否し、他国も追随したため資金集めは難航し、最終的にサイード・パシャが約44%の株式を保有して会社はスタートします。
工事にはエジプト農民が賦役として徴発され、劣悪な労働条件のため12万人にのぼる犠牲者を出したと言われます。1867年にパリ万博に招待された徳川幕府の代表団(渋沢栄一も随行)は、パリに向かう途中でスエズ運河の工事を目撃しています。
完成式典にはナポレオン3世の妃が出席し、この日にあわせてカイロにオープンしたオペラハウスでヴェルディの『リゴレット』が上演されました。
サイードの後を継いだイスマーイールはヴェルディにエジプトを舞台にしたオペラの製作を依頼します。いわゆる『アイーダ』です。
当時のイラスト ウィキメディアコモンズ パブリックドメインの画像
③ イギリスのスエズ運河支配
イギリスは運河が開通すると一転してスエズ運河を乗っ取ろうとします。
イギリスにとってエジプトはインドへの中継地、地中海の「シーレーン」確保は死活問題です(帆船の修理や補給基地が不可欠)。1713年のユトレヒト条約でスペインからジブラルタルとミノルカ島を獲得します。ナポレオンがイギリスとインドの連絡を断つためエジプトに出兵した」は教科書の鉄板記述です。
同時期のロシア=トルコ戦争でロシアが地中海に進出するのに異議を唱え、1878年のベルリン条約でキプロス島の管理権を得ます(上記地図参照)。
1863年にサイード・パシャの死後副王(実質エジプト王)になったイスマーイールの時代に財政が破綻します。
エジプト=トルコ戦争で事実上オスマン帝国から独立したエジプト(ムハンマド=アリー朝)は、クリミア戦争期に小麦と綿花の輸出ブームに沸き、特に綿花は南北戦争でアメリカ産綿花の輸出が途絶えるとイギリスに多く輸出されました。
好景気を当て込んでイスマーイールは港湾や鉄道建設に莫大な投資を行いますが、その原資は外債で、借金は瞬く間に膨れ上がります。
イギリス首相ディズレーリは「イスマーイールはスエズ運河株を売却したがっている」という情報を得ます。ディズレーリは議会を通さずロスチャイルド家から買収資金を調達して1875年にエジプトの持つスエズ運河株を買収しました。
しかしエジプトはスエズ運河株を売却しても借金は埋まらず、翌年にはエジプトの財政は英仏が主導する列強の国際管理下に置かれることになりました。農民には重税、都市の商工業は衰退、軍人の給与支払いは滞ります。
こうした中で陸軍将校アフマド・ウラービーを中心に秘密結社が結成され、列強やトルコ系王族・貴族の支配に対して「エジプト人のためのエジプト」を主張し、1870年代後半から独立運動をはじめました。
ウラービー ウィキメディアコモンズ パブリックドメインの画像
出典:Světozor、1882年、28号、チェコ科学アカデミーによってデジタル化
1881年から82年にかけて革命が本格化するとイギリスが軍事介入してエジプトは敗北、スエズ運河を占領します。ウラービーは死刑は免れ、セイロン島(スリランカ)に流刑になります(旅行中の明治政府の役人が面会を求めています)。
1888年に「スエズ運河の自由航行に関する条約」が9カ国で結ばれ、平時および戦時においてスエズ運河をすべての船に対し開放し(いわゆる「国際運河」)、締約国に対し運河の自由な使用に干渉しないことを義務付けています。
イギリスは条約については内容の一部を留保していましたが、1904年の英仏協商でフランスがエジプトにおけるイギリスの優越を認めると、条約を承認しました。
1914年に第一次世界大戦が発生すると、イギリスはオスマン帝国の攻撃に備えてエジプトを保護国化します。戦後ワフド党が独立運動を展開し、1922年に立憲君主制のエジプト王国として形式上独立を達成します。
しかしスエズ運河の経営権は依然としてイギリスが握っていたので完全独立を目指す運動が継続され、1936年のイギリス・エジプト条約でイギリスはスエズ運河地帯への軍隊駐留権を残して他は撤退し、エジプトは実質的に独立します。
④ スエズ運河の国有化
第二次世界大戦後、エジプトではイギリスに追随する国王と政権に対する民衆の不満が高まり、スエズ運河一帯からのイギリスの撤退を求める運動が激化します。
1952年にナギブを中心とする自由将校団によるクーデタがおこり、国王を追放して53年にエジプト共和国が成立しました。
54年に政権を手に入れたナセルは革命でいったん頓挫したアスワン=ハイダムの建設に乗り出します。しかし56年にアメリカ、イギリスは当時「中立外交」を掲げていたエジプトがソ連と交渉を持ったことを理由に、同ダム建設の資金援助を停止します。これに対してエジプトは同年7月にスエズ運河の国有化を宣言します。
同年10月にイギリス・フランスはイスラエルとともにエジプトに侵攻しますがアメリカは動かず、三国は国際的批判を受け、国連の勧告により撤兵しました(スエズ戦争。第二次中東戦争)。
その後アスワンハイダムはソヴィエト連邦の資金援助を得て1960年に着工、1970年に完成します。ナセルとフルシチョフ ウィキメディアコモンズ パブリックドメインの画像
出典:http://www.fundarabist.ru/Gov/FOTOarhiv/Gamal-002.jpg
⑤ 第三次、第四次中東戦争とスエズ運河
1967年にナセルが国連の国連平和維持軍をスエズ運河を含むシナイ半島から撤収させると、エジプトはイスラエル国境まで軍を駐留させ、イスラエルの船が紅海に出ようとするのを妨害します(いわゆるアカバ湾封鎖。下記地図参照)。
これがきっかけとなって第三次中東戦争が勃発、エジプトは敗北しイスラエルはシナイ半島を占領します。この結果エジプトとイスラエルはスエズ運河をはさんで対峙することになり、スエズ運河は通航不能状態が続き、第四次中東戦争をはさんで1975年にようやく運河の利用が再開されました。
第三次中東戦争のイスラエル占領地。クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 2.5 : User:Ling.Nut derivative work: Supreme Deliciousness
File:Six Day War Territories 2.png - Wikimedia Commons
おわりに
2015年7月に新スエズ運河が完成、新水路と運河の拡張により運河の大半の区間で船が同時に双方向に航行することができるようになって、地中海から紅海への通過時間は18時間から11時間に短縮されました。
シーレーン確保は大国の覇権に不可欠です。19世紀に海の覇権を握ったイギリスでしたが、その後覇権はアメリカ合衆国に移ります。現在は中華人民共和国がアフリカへのシーレーン確保に躍起です。
機会があればパナマ運河や海底ケーブルについても紹介します。