はじめに
東アジアの近現代史をユーラシアの真ん中や海域から見るシリーズ、今回は台湾の歴史についてです。
前回
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
台湾政府は新型コロナウィルス感染症対策ではその道のエキスパートを閣僚につけて科学的な根拠をもとに封じ込めを行なっています。うらやましい限りです。
実教出版・帝国書籍・東京書籍・山川出版社(詳説と新)の教科書、帝国書院・浜島出版の資料集、実教出版の『世界史用語集』、山川出版社の『詳説世界史研究』『世界各国史』、実教出版の日本史B教科書、ネットの『世界史の窓』を参照しています。
断りがないものはウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像です。
目次
台湾の歴史
① 台湾の場所
世界の歴史まっぷより。いつもありがとうございます。
世界の歴史まっぷ | 国別・時間軸からさがせる世界史・日本史 - オリジナル歴史地図無料ダウンロード (sekainorekisi.com)
白楊瀑布 花蓮、太魯閣(タロコ)渓谷
こちらの写真
② オランダ支配以前
オーストロネシア語族の先住民
隋書に「流求」の記載(琉球~台湾を指す)
16世紀 ポルトガル船員が台湾を「Ilha Formosa(麗しき島)」と呼ぶ
16世紀中期、(1 )の活動が活発化
広州、台湾、フィリピンで私貿易
1628 明朝は台湾海峡一帯で海賊行為をしていた[2 ]に対し、
官職を与えて(招撫)オランダ勢力に対抗させる
福建の住民を台湾西部に入植させて開拓に従事させる
補足
台湾の先住民の様子を描いた書物の挿絵 Illustration from Olfert Dapper (1670): Gedenkwaerdig bedryf der Nederlandsche Oost-Indische Maetschappye
空欄
1倭寇
2鄭芝竜
③ オランダの支配~鄭氏政権
1624 オランダ、南部(現台南市安平区)に(3 )城を建設
1626 スペイン、フィリピンから北部(現基隆)に進出
1642 オランダ、北部からスペインを追放
→1652 漢族系移民の反乱を鎮圧
1644 明滅亡 鄭芝竜・[4 ]親子の反清復明運動→失敗
1661 鄭成功、ゼーランディア城を占領→オランダを台湾から追放
康熙帝の(5 )令
海岸線地帯の住民を強制的に内陸部に移住させる
鄭氏政権の通商や補給を妨害
鄭氏政権:東インド会社通商条約を締結
日本へ軍事的な支援を申し入れ(日本乞師)→実現せず
→近松門左衛門『(6 )』
1683 清軍の台湾上陸 鄭氏政権崩壊
補足
ゼーランディア城(安平古堡) オランダ統治時代
鄭成功は平戸を根拠地として活動した鄭芝龍を父に、田川マツを母に1624年平戸で生まれました。
彼は7歳で福建に渡り、21歳の時に「抗清復明運動」の功績で明の皇帝より明王朝の国姓「朱」を賜り(そこから「国姓爺」と呼ばれる)、厦門や金門を本拠地に抵抗運動を繰り広げますが、南京で敗北すると台湾に撤退しました。
台湾ではオランダ人を追放した後に政府を作り、挽回のチャンスをうかがいましたが、39歳の時に熱病にかかって亡くなりました。
鄭氏は1645年以降たびたび軍事支援を求めて日本に使者を送りましたが、既に「鎖国」体制に入っていた江戸幕府は、貿易などの形式で物資の調達を許すことはあっても、表だった支援はしませんでした。
空欄
3ゼーランディア
4鄭成功
5遷界
休憩タイム
大崎座「国姓爺合戦」柳歌君奮戦の場/Kokusenya Kassen (The Battles of Coxinga), Ryukakun Fusen
④ 清朝の支配~日本統治時代
1854 米国[7 ]艦隊、基隆に寄港
1860 (8 )条約 台南、淡水の開港
1871 日清修好条規 対等条約 相互の領土不可侵
1874 日本の台湾出兵 →(9 )併合の契機に
1884~85 (10 )戦争でフランス艦隊が台湾北部を攻撃
1885 台湾省の設置して直轄化…漢族の移住が拡大
1895 (11 )条約締結
清、日本に台湾、(12 )諸島を割譲
漢族「台湾民主国」の建国を宣言
劉永福の抵抗→日本軍の弾圧
日本 (13 )府を設置 抗日武装運動を弾圧
土地調査事業 台湾銀行創設 鉄道・港湾整備
アヘン・たばこ・樟脳の専売
日本企業が製糖業に進出 蓬莱米の日本移出
1930 霧社事件…先住民の蜂起
戦争末期には徴兵制も導入
補足
鄭氏政権を打倒した清朝でしたが台湾支配には消極的で、漢族の入植地と先住民の居住地域を分け、帰順しない先住民は事実上放置状態でした。
1871年に宮古島の住民の船が台湾の北部に漂着し、54名が台湾人の「牡丹社」という先住民に殺害されるという事件が起こりました。
琉球は17世紀に島津氏の侵攻を受けて以来、日清両属の状態でした。冊封・朝貢の時代はそれでよかったですが、19世紀にヨーロッパがやってきて「主権国家」のルールが持ち込まれると、その帰属が問題になります。
明治政府はこの事件を利用しようと考え清朝に打診したところ、清朝の総理各国事務衙門は「琉球は中国の属国であるからその島民は日本人ではない」「台湾の先住民は「化外の民」(統治範囲外の人々)なので関係がない」と塩対応でした。
それで明治政府は「日本国民を守るために先住民を討伐する」という名目で台湾に出兵し、牡丹社の頭目を殺害します。これに対して清朝は「日清修好条規違反だ」と態度を硬化させます。
結局イギリスが仲介し、清朝が日本の出兵に50万両支払うことで和解が成立しましたが、その文書に「台湾の先住民が日本国臣民らに対して害を加えた」という一文があったので、明治政府は「清朝が琉球を日本の一部であると認めた」と解釈し、琉球併合の口実とします。
劉永福といえば高校世界史的にはベトナムですが、広西省と雲南省で黒旗軍を指揮し、ベトナムに渡って阮朝皇帝の依頼でハノイを占領したフランスを追い出します。
清仏戦争後に帰国しますが、日清戦争が勃発すると台湾防衛に当たります。台湾では下関条約に反対する運動が発生し、「台湾民主国」の独立が宣言されると劉永福は民主国より大将軍に任じられ、台南で抵抗します。
劉大将軍が日本の樺山総督を捕え尋問する図 大英図書館により所蔵品電子台帳
日本軍は大軍を送って運動を鎮圧しますが、マラリアに悩まされ、その後もゲリラ戦が続きます。土地調査事業で地主を抱き込んでゲリラの補給を断ち、ようやく台湾を制圧するのは大正時代になってからです。
この「武断政治」ビジネスモデルが朝鮮半島にも持ち込まれます。
日本も清朝と同じく日本に帰順した集団(「熟蕃」)と、未開のままの集団(「生蕃」に分け、後者は境界線の内に封じ込める政策をとりました。しかし1930年には帰順した先住民が蜂起する霧社事件が発生します。
なお「蕃」は差別的ということで、1935年に台湾総督府は「生蕃」と「熟蕃」を「高砂族」と「平埔族」に改称しました。
日本統治時代の地図。「○○ group」という表記が先住民地域。
「高砂族」の志願兵 オーストロネシア語族なので、南方に派遣されたら現地人となんとなく言葉が通じたそうです。
空欄
7ペリー
8北京
9琉球
10清仏
11下関
12澎湖
13台湾総督
14皇民化
⑤ 国民政府(中華民国)と現在
1945 日本降伏。台湾は中華民国に復帰
大陸から移住してきた(15 )人が政治の実権を握る
1947 (16 )事件
(17 )人(台湾に居住していた人)が蜂起→戒厳令公布
1949 漢大陸で(18 )成立
[19 ]率いる国民党は台湾に逃れる
1951 (20 )講和条約 日本、台湾の領有権を正式に放棄
*台湾がどこに帰属するかは明言されていない
1952 日本との間に日華平和条約調印
1954 アメリカ合衆国との間に米華相互防衛条約調印
1971 キッシンジャー訪中
(21 )代表権が中華人民共和国に交替
中華民国は国連を脱退(追放)
1972 日中国交正常化、日華平和条約廃棄、日本との国交断絶
1978 蒋経国が総統に当選
1979 アメリカ合衆国との国交断絶、米中国交正常化
1980年代 経済成長進む (22 )(NIEs)の一員に
1987 戒厳令解除
1996 初の直接総統選挙で[23 ]が当選
2000 [24 ]党(民主進歩党)の(25 )が総統に当選
国民党政権からの政権交代
補足
日本の敗北後、カイロ宣言に従って台湾の主権は中華民国に移りました。国民党は台湾の住民は日本に協力したとみなし「戦勝国」気取りで住民に臨みます。統治機関は大陸からやってきた外省人が独占し、軍隊による略奪や暴行が多発します。
*最初は台湾住民は中華民国復帰を喜びますが、国民党があれすぎるので「狗去豬來」(犬去りて豚来る。日本は獰猛だったが番犬にはなった、国民党は食べるだけ)と揶揄したそうです。
1947年2月27日、台北市で闇タバコを販売していた本省人女性と官憲の間でトラブルが発生、集まった人々に官憲が発砲したことをきっかけに、翌2月28日から大規模な抗議行動が発生しました。国民政府は大陸からの援軍でこれを徹底的に弾圧しました。
この事件は長く台湾ではタブーでしたが、現在は二・二八事件記念碑が建てられるなど事件の検証が進んでいます。映画もあります。
1949年に中華人民共和国が成立すると、蒋介石は台湾に逃れ中華民国政府を維持します。中国共産党は国民党が実効支配する金門島を攻撃します。
金門島は厦門の目と鼻の先。米国中央情報局(CIA)作成の台湾海峡地図
しかし1950年に朝鮮戦争が勃発、中華人民共和国が人民義勇軍を派遣するとアメリカ合衆国は中華民国支持を明らかにして台湾海峡にアメリカ第七艦隊を派遣します。
国民党の抵抗もあって中華人民共和国は台湾侵攻を断念、北京と台北に中国の中央政府を主張する「二つの政府」が並立します。
国際連合では台湾の中華民国が安全保障理事会の常任理事国としての立場を1971年まで維持します。アメリカ合衆国は中華民国を支援しますが、ベトナム戦争が泥沼化するとその打開のため71年にキッシンジャー、72年にニクソンが中華人民共和国を訪問(米中の正式な国交正常化は1979年)、次第に北京の政府を正当な中国政府と認める国家が増えます。
その後台湾は新興工業経済地域として経済発展しますが、戒厳令による憲法停止状態の中、国民党の一党独裁と少数の外省人が本省人を支配する体制が1980年代後半まで続きます。
しかし民主化運動やアメリカ合衆国の圧力によって1987年に戒厳令が解除、88年には副総統であった本省人の李登輝が総統に就任して民主化が進み、96年には最初の総統選挙が実施されて李登輝が総統に再任され、2000年には民進党の陳水扁が総統に当選して平和裏に政権交代が行われました。
政治的には対立する北京の政府とは経済を中心に関係が深まり、台湾から大陸へ多くの投資が行われています。
ところが最近台湾周辺の緊張が高まりつつあります。
空欄
15外省
16二・二八
17本省
18中華人民共和国
19蒋介石
20サンフランシスコ
21国連
22新興工業経済地域
23李登輝
24民進
25陳水扁
入試問題演習
① 大阪大学 2010年
課題
台湾は、2000万人を超える人口、独自の憲法・軍隊・通貨・文化を持ち、直接選挙によって選ばれた総統が統治しているが、日本、アメリカ、中国など多くの国は台湾を主権国家として承認していない。現在の台湾の国際的地位に関係する19世紀以来の主な戦争や国際的な取り決めの流れを、時代順に述べる
指定語句 日清戦争 下関条約 第二次世界大戦 サンフランシスコ平和条約 国連代表権
解答例
日清戦争後の下関条約で日本は清朝から台湾を得て植民地とした。第二次世界大戦で日本が敗北すると台湾の施政権は中華民国に移った。1949年に中華人民共和国が成立すると蒋介石は台湾で中華民国を維持した。サンフランシスコ平和条約で日本は台湾の領有権を正式に放棄したが帰属先は明らかではなく、朝鮮戦争の影響で北京と台北に二つの中国政府が並立した。当初は中華民国が国連代表権を得ていたが、71年に中華人民共和国に代表権が移り、日本は72年に中華人民共和国と国交を結び中華民国と断交、アメリカも同様に79年に中華民国と断交した。258字
*ポイント:「国際的な地位」の変遷を書く。リード文の「日本」「アメリカ」はおそらくヒントなので、中華人民共和国を認めて中華民国と断交したことを入れた。
② 一橋大学 2016年
課題
解答例
第二次世界大戦で日本が敗北すると朝鮮半島の北緯38度より北側をソ連が、南側をアメリカが占領した。1948年に南側で李承晩を大統領とする大韓民国が、北側で金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が成立した。1950年にソ連の支援を得た北側の侵入により朝鮮戦争が勃発した。北側が半島の大部分を制圧するとアメリカは安全保障理事会の決議を得て国連軍を組織し朝鮮半島に上陸した。1949年に国共内戦に勝利した共産党は中華人民共和国の樹立を宣言し、国民党は台湾に逃れて中華民国を維持した。翌年共産党は中ソ友好同盟相互援助条約を結び、台湾侵攻を企て金門島を攻撃したが、国連軍が中国国境に迫ると人民義勇軍を派遣して北側を支援、アメリカは台湾海峡を封鎖して中華民国を支援した。53年の休戦協定の結果北緯38度線での分断が固定化し、中華人民共和国は社会主義陣営に入ったが台湾制圧は諦め、中華民国はアメリカと相互防衛条約を結んで台湾を実効支配した。(400字)
*ポイント:朝鮮戦争と台湾をリンクさせて書けるかどうか。
おわりに
ぶんぶんは25年ぐらい前に台湾に旅行に行きましたが、台北の国立故宮博物院は当然のように大陸の文化の展示、台湾政府はあくまで亡命政権で「反攻大陸」が目標だったことがうかがい知れます。
現在の状態が続いて約70年が経過しました。建前として互いに「二つの中国」は認めない、蔡英文総統は現実路線です。「一国二制度」下の香港では「50年間は現体制を守る」という約束はどこへやら、北京政府の圧力が強まっています。
この現状は台湾の人にはどう映るのでしょうか。
最後までご覧いただきありがとうございました。