休校中の自学自習プリント、フランス革命後半です。
前回
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
③ 王政の動揺と革命戦争 革命で大変なのに外国と戦争するの?
1791年6月 ヴァレンヌ逃亡事件…国王一家が国外逃亡を図るも失敗
8月 ピルニッツ宣言 オーストリアとプロイセンがフランスに圧力
10月 (19 )議会の開催
(20 )派…共和政を主張
国内外の反革命の動き
議会、王権を停止
補足
国王一家が王妃の実家ハプスブルク家領のベルギー(スペイン継承戦争でスペインからオーストリアへ)へ、王妃の愛人であるスウェーデンのファルゼンの段取りで脱出しようとしますが、国境沿いのヴァレンヌでバレてしまいます。
ウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像。作者 Thomas Falcon Marshall
1791年憲法では法案拒否権などを持つ国王が行政権、立法府は一院制の「能動的市民」(一定額以上の直接税納付者)が選出する議員で構成されていました。
しかし1791年の秋から食糧不足と物価騰貴を背景に再び暴動が発生します。
食糧暴動というと略奪みたいですが、E.P.トムスンは「モラル・エコノミー」という概念で民衆の行動を説明しています。
小麦が不足すれば値段が上がるのは市場経済(ポリティカル・エコノミー)で、ブルジョワジーの原理です。一方民衆は統治者にはパンなど生活必需品を公正に供給・分配し、住民の生命を守る義務があると考えます。これが「モラル・エコノミー」です。
民衆は「悪徳業者は倉庫に小麦を隠し持っていて売り惜しみしている」と考えます。行政が取り締まるべきなのですがサボっている、だから民衆がパン屋に押し寄せ、商人に平時の価格で販売することを強要します(代執行)。ゴ━━(# ゚Д゚)━━ルァ!!
参考
*発展:1791年にはフランス領サン・ドマング(東側がドミニカでスペイン領、西側がハイチ)で本国の「人権宣言」を知った黒人奴隷が反乱を起こします。革命戦争がはじまるとスペインが介入、本国政府が奴隷制廃止を言い出すと困る現地白人がイギリスに内通して、イギリスも出兵します。
そのうち怒りの矛先が議会にも及びそうです。そこで議会は「革命が上手くいかないのは外国が妨害しているからだ、それは王妃の実家、オーストリアをやっつける必要がある」、つまり自分たちのダメさを隠蔽するために「外国を倒せばすべて解決する!」と印象操作します。
これが1815年まで続く革命戦争のきっかけです。
無謀ともいえる提案に、影が薄くなったラ=ファイエットが復権を狙って乗りますし、国王も認めます(「負けたらいい」と思ってる?)。
これに対してバルナーヴは「戦争になったら食糧価格が上がって民衆運動が盛り上がる」、ロベスピエールは「軍隊は貴族の士官が多く、戦争に協力しないのでは」と反対しますが少数意見、ジロンド派内閣は開戦に踏み切ります。
戦局はふたりが言ったとおりになります。議会は「非常事態宣言」を出し、義勇兵(連盟兵)の上京を認め、都市民衆(選挙権がない「受動的市民」。サンキュロット)の武装を許可し、パリの48の区(セクション)会議にも出席できるようになります。
戦争が悪化する中で先述の「パン屋」論法、「戦争に負けるのは国王が外国と内通しているからだ」という噂が広がります。
頼りないジロンド派に業を煮やしたセクションの代表が蜂起を計画し、8月10日にテュイルリー宮殿で守備隊と衝突します。
事態の成り行きを見守っていた議会は、蜂起側が勝ちそうになったところで王権の停止と新議会の招集を決定します。ずるいです。(´・ω・`)
*マルセイユの連盟兵が、士官が作曲した「ライン軍の歌」を歌いながら7月下旬にパリにやってきました。それが『ラ・マルセイエーズ』です。
フランス共和国 国歌「ラ・マルセイエーズ」(La Marseillaise)日本語訳/National anthem of France
④ 共和政とジャコバン独裁…民衆運動を飼いならす?
1792年9月 (21 )の成立→男性普通選挙の実施
王政の廃止、共和政の樹立を宣言…第一共和政の成立
(22 )の戦いで革命軍初勝利→フランス軍のベルギー侵入
(23 )派の勢力拡大…急進共和主義
マラー、ロベスピエール、ダントンら
1793年1月 ルイ16世の処刑
第1回(24 )の結成…イギリス首相[25 ]が提唱
国内…(26 )県の農民反乱(王党派が指導)勃発
・都市民衆と農民の支持を確保するための政策
1793年憲法の制定(共和政 一院制 男子普通選挙)…実施されず
(27 )の無償廃止,最高価格令(強力な物価統制)
・戦争遂行のために独裁と民衆を動員
(28 )委員会に権力集中、徴兵制の実施
革命裁判所…反対派を処刑、「恐怖政治」
・民衆を革命に動員するための文化装置
革命暦の制定,理性崇拝の宗教
外敵の撃退→土地所有農民や市民層の保守化→独裁への不満
[29 ]が民衆活動家のエベール、右派のダントンを処刑
1794年7月 (30 )のクーデタ…ロベスピエールの逮捕・処刑
(31 )政府の樹立…5人の総裁
社会不安の継続…王党派の反乱、[32 ]の陰謀
補足
事件後臨時政府が成立し、ダントンが議会と蜂起側を調整します。戦局が悪化する中、ヴァルミーで義勇兵の必死さを見て敵軍が退却、初勝利をおさめます。
*プロイセン軍に参加していたゲーテがこれを見て「この場所から、そしてこの日から、世界史の新しい時代がはじまる」と述べた、は高校世界史の定番です。
国民公会の議員(男子普通選挙で選出)約750人はブルジョワ層で、ジロンド派、山岳派(扇型の議場左側の高い席に座っていた)、大多数の平原派に分かれていました。
「ジロンド派」(指導者の出身地ジロンド県に由来)はマルセイユ、ナント、ボルドーなどの船舶所有者、貿易商、銀行家など改革や戦争で利益を得る人々の支持を受けていました(利益誘導政治?)。
国民公会が開催される少し前、外国軍がヴェルダン要塞を攻略してパリに迫り、国内で反革命容疑者が多数逮捕されます。パニックになった連盟兵と民衆の一団が未決囚2800人を勝手に牢獄から出し、その約半分を即席裁判で死刑にしました。
先述の「代執行」です。((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
ジロンド派はこれをみて「民衆運動を利用して特権階級に要求を突きつける」ビジネスモデルから降ります。
一方ジロンド派から分かれた山岳派(ジャコバン派)は、革命を防衛するためには民衆運動のエネルギーが不可欠、ただしそのままだと無秩序なので、政府が彼らの要求を先取りしコントロールしていくという路線を主張します。
ダヴィド『マラーの死』(1793年)。マラーは革命初期に新聞『人民の友』で政府批判を繰り広げていました。国民公会では議員として山岳派に加わり、ジロンド派を攻撃しました。皮膚病の治療のために浴槽に浸かっているとき、シャルロット・コルデーが「反革命勢力の名簿を持ってきた」と部屋を訪ね、マラーを暗殺します。マラーの死は山岳派のプロパガンダに利用され、絵のコピーが多数作成されたそうです。ウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像
この本面白すぎる。ツイッターも必見。
ジロンド派はルイ16世の裁判や死刑を回避しようとしましたが、提案はことごとく否決、またヴァルミーの戦いの後調子に乗ってベルギーに兵を進めましたが(自由惑星同盟みたい)、第一回対仏同盟が発足すると戦局は悪化します。
さらに物資調達のためにアッシニア紙幣を乱発して価格が下落、商人は食糧・物資の売り惜しみや買い占めを行ったので民衆の生活は危機に陥ります。
ヴァンデー地方は土地がやせた地域で、貧農が多いため革命の恩恵がなく、カトリックの信者が多かったことから政府に不満を抱いていたところに、ジロンド政府が徴兵を押し付けてきたので怒りが爆発します。ズダボロです。
ジロンド派を追い出した山岳派は、革命防衛戦争に勝利するのが最優先、そのためには営業の自由など革命の成果をサスペンドし(1793年憲法も)、民衆の支持を取り付けて彼らを戦争に動員する、さらに民衆を「国民」意識を持たせるために日常生活も「革命的」にする、まとめると「戦時独裁」を実行します。
*発展:民衆の「国民化」の装置として重要なのが学校です。旧制度時代はカトリック教会が学校を担っていましたが、国民公会は国家が初等教育を組織化し、愛国心を持った共和主義者の育成を目指しましたが、すんなりとはいきません。
最高価格令は物価の上限を決める(違反者は死刑)、革命裁判所は1日、弁護士なし、判決は死刑か無罪のみとガクブルです。「代執行」を政府が先回りして行うということです。
山岳派の「戦時政策」の甲斐あってか革命のピンチは去りますが、その後も「ここで気を緩めてはいけない」と恐怖政治が続きます。独裁国家にありがちな展開です。
営業の自由を行使したいブルジョワジー、土地を手に入れたのに貧農に分けろと言いだされると困る農民など、利益を得た人はこれ以上の革命を望まなくなります。
ロベスピエールは民衆活動家のエベールと、議会に顔が利く(けど金に汚い)ダントンを次々と処刑します。路線の違いで仲間を粛正するのは左翼のあるあるです。
さらに汚職議員の追放を議会で匂わせます。ヤバイと思った議員たちが先手を打ちます。エベールを処刑したことでセクションの支持を失っていたロベスピエール一派は孤立し、あえなく逮捕されてしまいます。
革命暦では1年12か月、1月30日で5日は年の終わりの休日。さらに1週は10日、1日は10時間、1時間は100分、1分は100秒とすべて十進法にしたため生活が混乱、1806年に廃止されます。ウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像。
山岳派を排除した一派は「悪夢のジャコバン独裁」の政策を次々と廃止します。しかし経済統制がなくなってインフレーションが再燃、折からの不作もあって食糧暴動が多発します。彼らは軍隊を使って民衆運動を圧殺します。
1795年憲法では革命独裁を反省して、二院制、制限選挙、5人の総裁による集団指導体制を決めます。共和国の正当性を主張するために役人の衣装はローマ風でした(明治新政府の「太政官」みたい)。
しかし汚職を隠蔽した議員の「ジャコバン派の逆張り」だけでは内外の危機はおさまりません。まず総裁政府が発足する前に王党派が反乱、発足後は共和主義寄りになりますが私有財産を否定するバブーフの陰謀が発覚すると彼らを弾圧、するとまた王党派が台頭です。
民衆運動と手を切った総裁政府は新たな「暴力装置」である革命軍を使って反抗を鎮圧せざるを得ません。
こんな状況が続いて市民は「革命疲れ」してきます。有産市民は「早く商売がしたい」都市民衆は「パンの値段を下げて」農民は「土地を返せというのはやめて」と、早期の戦争終結と秩序再建を望み、革命軍に期待します。
これがナポレオン台頭の背景です。
空欄
19 立法
20 ジロンド
21 国民公会
22 ヴァルミー
23 ジャコバン
24 対仏大同盟
25 ピット
26 ヴァンデー
27 封建地代
28 公安
29 ロベスピエール
30 テルミドール
31 総裁
32 バブーフ