休校も長くなってきてきました。連休が明けたら渡り鳥のようにウイルスも旅立ってくれればいいのですが。(´・ω・`)
休校中自学自習プリント、今回はフランス革命です。
一橋大学の2013年に「革命をどのようなものと考えると貴族の動きは反乱(反抗)で、革命を逆にどのようなものと考えると同じ動きが革命とみなされることになるのか答えなさい」というとんでもない問題が出題されていました。
このブログを読めば謎が解決するはず?
前回
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
フランス革命…貴族、市民、民衆、農民の革命が離合を繰り返す「複合革命」
第一身分…(1 ) 第二身分…(2 )
広大な土地の所有,重要な官職の占有免税などの特権を享受
第三身分…(3 ) 人口の9割以上
大部分が農民…領主への地代や税負担に苦しむ
都市民衆(サン=キュロット)…食糧の価格に不満
商工業者→経済的実力を高める。待遇に不満
補足
聖職者身分の中にも上級とそうでない村の司祭の間の格差、貴族身分の中にも国王に使えるものと、地方貴族の中に亀裂が生じていました。
さらにお金持ちの平民は官職を購入すれば貴族になる道がありました(法服貴族)。血統を誇る貴族からすれば面白くありません。ただし18世紀後半になると平民が貴族に上昇するのが徐々に難しくなり、裕福な市民層にも不満がたまります。
つまり単純に「三つの身分」が対立したのではなく、身分それぞれが矛盾を抱えていて不満が蓄積されていったと考えられます。
おそらくみな「世の中そんなもん」と思っていたでしょうが、18世紀から啓蒙思想が広まり、自由や平等という言葉がまず貴族や上層市民の間に広がります。
自由と平等を抑圧する貴族がサロンで啓蒙主義を楽しむというのは矛盾の極みに思えますが(マリ=アントワネットがルソーの「自然に帰れ」に」触発されてヴェルサイユ宮殿にそれっぽい建物を作ったのは有名)、革命が始まると啓蒙思想が反抗の正当性になります。200年前の「造反有理」です。
フランス革命初期の宣伝パンフでは「三つの身分」が好んで主題にされました。
キャプションは"A faut esperer q'eu.s jeu la finira bentot"("You should hope that this game will be over soon." )
出典:Bibliothèque nationale de France
② 貴族の反抗と革命の勃発 …貴族が復権を目論むが第三身分が声をあげる
ブルボン朝 国王[5 ]、王妃[6 ]
国家財政のゆきづまり(アメリカ独立革命への参戦)
英仏通商条約(1786年)…相互の関税引き下げ。英の工業製品流入
→特権身分への課税に特権身分が抵抗→三部会の招集
1789年5月 全国三部会の開催
特権身分と第三身分が議決方法(身分別か合同か)で対立
第三身分「(9 )の誓い」(10 )議会と称する
憲法制定まで解散しないと宣言
→国王・保守的貴族による議会の武力弾圧
7月14日 パリ民衆(11 )牢獄の襲撃→全国的農民蜂起
8月4日 (12 )特権の廃止
領主裁判権や教会への(13 )の無償廃止
土地の権利は有償(地代の一括支払い)
8月26日 (14 )宣言の採択…起草[15 ]ら
人間の自由・平等,主権在民,言論の自由,私有財産の不可侵など
10月 十月事件(16 )行進 王家のパリ移転→国民議会もパリへ
1790年 諸改革の実施…ラ=ファイエットやミラボーらが中心
全国の行政区画を改編,司法制度・公務員制度改革
(17 )の廃止(営業の自由)
教会財産の没収・競売(アッシニア紙幣の発行) 聖職者の公務員化
度量衡統一→1791年(18 )法(定着は先)
補足
マティエの『フランス大革命』によると、当時の国家予算が5億リーブルに対して借金が45億リーブル、うち20億リーブルがアメリカ独立戦争への援助だったそうです。
あれ、国家予算の9倍の借金ってどこかで聞き覚えが…。
財務長官としてテュルゴーとネッケルが教科書に出てきますが、特権身分への課税を言い出したのは同じく特権身分出身のカロンヌやブリエンヌといわれています。
国王は1787年に名士会(大貴族からなる諮問機関)を開いて改革案の承認を求めますが、貴族たちは臨時にしか国政に参加できないことを非難し、1614年以来開催されていない三部会の招集を求めます(1789-1614=約170年間は私大の有名年号問題)。
つまり貴族たちは国王の失政につけ込んで従来の特権を回復しようと考えたのです。
フランス革命を「市民革命」=「政治の主役が特権階級から市民に移行する」と捉えるなら、貴族の態度は封建社会に引き戻す「後ろ向きな」態度、国政を改革するのではなく自らの利権を復活を目指す「反抗」と捉えることができます。
しかし貴族が「だし」に使おうとした「第三身分」=平民は様変わりしていました。その上層部は経済力をつけてきたのに政治的発言権がありません。反抗の言葉となる啓蒙思想も普及しています。発言の機会が巡ってきた彼らは権利を主張し始めます。
全国三部会で第三身分が合同議決を求めると(議員選出の際に三つの身分比が1:1:1から1:1:2に引き上げられた)、聖職者や貴族の側から同調者が出て、有名な「球戯場の誓い」につながります。
ダヴィド『球戯場の誓い』ウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像。本物はパリ、カルナヴァレ博物館にあり。議長が議員に背を向けこっちを向いているのは演出です。
池田理代子『ヴェルサイユのバラ』もこれを下敷きにしています。
国王は憲法制定を認め、時間稼ぎをしている間に軍隊を招集して国民議会(憲法制定議会)をつぶそうとたくらみます。
ヴェルサイユの不穏な様子がパリに口コミで広まり、自衛をしようとしたパリの民衆がまず廃兵院(現在はナポレオンの棺がある)で武器を奪い、「火薬がある」との噂を聞いてバスティーユ牢獄に集まります。
慌ててやってきたパリの役人が牢獄の中に入って長官と交渉するも、なかなか出てこないので民衆が敷地内に侵入、スイス兵が発砲して大騒ぎになります。
つまりバスティーユ牢獄の襲撃は別に議会を救うために組織的に仕掛けられた訳ではなく、偶発的な衝突の可能性が高いのですが、これにビビった国王が国民議会の弾圧を中止します。
*こののちルイ16世がパリに入ったとき、パリの民衆が持ったパリの赤青の旗の間に王家の白をはさんだ旗が「三色旗」の起源だと言われています。
ここでフランス革命の「パターン」が生まれます。カネはあるけど武力がない上層市民と改革派貴族の連合が、民衆の暴力を利用して「ほれみい、国王が改革に不熱心だからこうなるねん」と迫って自分たちの要求を通そうとします。
*10月事件もヴェルサイユに押しかけたパリ女性のデモを利用して議会が国王夫妻をパリへ移します。
ただし民衆の暴力は自律的な行動です。バスティーユの襲撃の後「貴族が農村を襲撃する」というデマから農民が蜂起し、領主の館が襲われて証文が焼かれる事件が全国で続発します(大恐怖)。改革派も領主権を持っていますから他人事ではありません。
そこで「封建的特権の廃止」と「人権宣言」を矢継ぎ早に出して、政治的権利を国王に認めさせると同時に、所有権の不可侵を明文化し、領主権の廃止で農民を暴動を沈静化しようとします。
フランス人権宣言
第1条(自由・権利の平等) 人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない。
第2条(政治的結合の目的と権利の種類) すべての政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である。
第3条(国民主権) すべての主権の淵源は、本質的に国民にある。いかなる団体も、いかなる個人も、国民から明示的に発しない権威を行使することはできない。
第4条(自由の定義・権利行使の限界)
第5条(法律による禁止)
第6条(一般意思の表明としての法律、市民の立法参加権)
第7条(適法手続きと身体の安全)
第8条(罪刑法定主義)
第9条(無罪の推定)
第10条(意見の自由)
第11条(表現の自由)
第12条(公の武力)
第13条(租税の分担)
第14条(租税に関与する市民の権利)
第15条(行政の報告を求める権利)
第16条(権利の保障と権力分立)
第17条(所有の不可侵、正当かつ事前の補償)
*発展 原文をみると「人」は”Les hommes” つまり「男性」の意味です。つまり自由平等の恩恵を受けるのは男性だけで、女性の権利は想定されていません。
Les hommes naissent et demeurent libres et égaux en droits. Les distinctions sociales ne peuvent être fondées que sur l'utilité commune.
それでオランブ=ドゥ=グージュは1791年に”Les hommes”の部分を直した『女性および女性市民の権利宣言(女権宣言)』を発表します。
このように異なる階層が異なる要求(貴族は復権、上層市民層は政治的権利や営業の自由、民衆は明日のパン、農民は負担軽減)を実現するべく、それぞれが意図的または意図せずに利用したり利用されたりしながら、改革が進みます。
文科省や経産省が大好きな「将来(近代市民社会)をイメージして、それに向けて計画的に革命を実行しました」ではありません。
こうしたフランス革命解釈を「複合革命」と呼びます。
冒頭の一橋大学の問題に戻りますが、10月事件の後の一連の改革は、内容的には市民層が求めていたものですが、実務や根回しは各方面に「顔が利く」ラ=ファイエットら改革派貴族です。
つまり「複合革命」の観点からすると、思惑は違えど、貴族もダメダメのフランスを「どげんかせんと」と思って行動しているのですから「革命」といえます。
さて一連の改革で中央集権的な政治体制と営業の自由が準備され、後は憲法で有産層が選挙権を持つ立憲君主制=イギリス風の穏健な政治体制が確立すれば、改革派は政治的指導力を確保し、上層市民はイギリスに対抗する経済政策を実現できそうです。めでたしめでたしです。
しかし、そんな思惑をルイ16世がぶちこわします。(続く)。
空欄
1 聖職者
2 貴族
3 平民
4 シェイエス
5 ルイ16世
6 マリ=アントワネット
7 テュルゴー
8 ネッケル
9 球戯場
10 国民
11 バスティーユ
12 封建的
13 十分の一税
14 人権
15 ラ=ファイエット
16 ヴェルサイユ
17 ギルド
18 メートル