休校中の自学自習プリント、大西洋革命の時代最終回はナポレオンです。
前回
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4 ナポレオンの時代
問い:自由・平等を目指したフランス革命がなぜ軍事独裁に行きつくの?
① ナポレオンの台頭 …痛みに耐える国民兵を活用
1796年 (1 )遠征 オーストリアを破る
→カンポ=フォルミオ和約で停戦 第1次対仏大同盟崩壊
1798年 (2 )遠征…イギリスとインドとの連絡を絶つ
英のネルソン アブキール湾でナポレオンの艦隊を壊滅させる
→第2次対仏大同盟の結成(1799)
1799.11 (3 )のクーデタ…(4 )政府の樹立
第一統領に就任
外交 1801年 教皇と和解(コンコルダート)
1802年 (5 )の和約…イギリスと講和
内政 フランス銀行の設立 商工業の振興
→1802年終身統領に就任
(6 )の不可侵,法の前の平等,契約の自由などを規定
ナポレオン,皇帝に就任(第一帝政)
→第3回対仏大同盟の結成(1805)
補足
ナポレオンは地中海に浮かぶコルシカ島の出身(12人の子どものうち4番目)、両親(ビッグダディ?)は独立運動の闘士でしたが後にフランス側に寝返り、そのつながりでナポレオンはパリの士官学校に入学します。
砲兵少尉の時に革命が発生、ジャコバン独裁の時にトゥーロン港の包囲戦で勝利し、名声を高めます。テルミドール9日のクーデタで一時逮捕・降格されるも釈放、しかし転属を拒否して予備役になります。
1795年に王党派の蜂起が発生、国民公会軍司令官のバラスはのナポレオンを副官として登用し、作戦を一任します(汚れ役?)。ナポレオンは市街地で大砲をぶっ放して蜂起を鎮圧、この功績で中将に昇格し、バラスの愛人だった貴族の未亡人ジョゼフィーヌと結婚します。
1796年にバラスが総裁政府の総裁に就任すると、ナポレオンをイタリア方面軍の司令官に抜擢します(またも汚れ役?)。ナポレオンは連戦連勝、しかし翌年ナポレオンは総裁政府に無断でオーストリアと休戦条約を結びます。
これで第一次対仏大同盟は崩壊、ナポレオンはイタリアで莫大な戦利品を得て、その一部は換金して兵士の給料に、一部は議員たちの賄賂に使われたといわれます。民衆、軍隊、議員のハートをわしづかみです。(`・ω・´)シャキーン
さらにナポレオンはオスマン帝国支配下のエジプトに遠征、ピラミッドの戦いで勝利しますがイギリスのネルソンに艦隊を焼かれてしまい(船を鎖でつないだらダメって。『三国志演義』読まないと(´・ω・`))、エジプトで孤立します。
そこでイギリスは第二次対仏大同盟を結成、オーストリアはイタリアを奪います。何もできない総裁政府に人々は失望、機を見るに敏なナポレオンは自軍はエジプトに残したまま側近のみを連れ単身フランス本土へ戻ります。
*この後フランス軍はイギリスに降伏、この時に掘り出したロゼッタストーンをイギリスに引き渡します。エジプトは返還を求めています。ウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像。
http://www.cts.edu/ImageLibrary/Images/July%2012/rosetta1.jpg
ナポレオンは『第三身分とは何か』のシェイエス(国民公会では全く発言せず「革命のモグラ」と揶揄された)と共謀してクーデタを敢行、統領政府を樹立し第一統領に就任します。
その後ナポレオンは矢継ぎ早に改革を実行します。教皇と話し合って非キリスト教政策をやめるものの教会財産は返還しない、イギリスとは休戦、革命の成果を成文化するなどブルジョワ、都市民衆、農民の望みを一気に実現します。
しかしフランス民法典ではジャコバン時代の「家族成員間の自由と平等」という理念は否定され、妻は夫に従属する義務を負うとか、非嫡出子の差別が復活します。つまり家では家父長、国家ではナポレオン、という同心円的な権威主義体制です。ああ、日本でも思い当たる(以下略)。
*ナポレオンはさらに新たな貴族制度を作ったり、後に兄弟を衛星国の王にしたりハプスブルク家の皇女と結婚したりと権威主義的傾向を強めます。
人気絶頂のナポレオンは王党派の陰謀を利用して世論を誘導し、1804年に人民投票で世襲の皇帝に就任します。
ダヴィド『ナポレオンの戴冠式』ウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像。
ダヴィドのスケッチ。これだとナポレオンが傲慢に見えるので、完成品は妃に帝冠を差し出すシーンになりました。またローマから出向いた教皇ピウス7世の両手がだらりとしているのを見てナポレオンが「何もしないのに呼んだわけではない」と指摘し、指をさして祝福を与える仕草に変更しました。他にも欠席した母親を特等席に描くなど、絵には政治的意図が満載です。ウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像。
ベートーヴェンはナポレオンに共感して彼を讃える曲を作曲しますが、完成後まもなくナポレオンが皇帝に即位し、その知らせに激怒したベートーヴェンはナポレオンへの献辞が書かれた表紙を破り捨てた、という逸話は有名です。カラヤン指揮、ベルリンフィル。
② ナポレオンの大陸支配 …大陸のほとんどを支配下に
1805年 (7 )の海戦…[8 ]率いるイギリス軍に敗北
→(10 )同盟の結成(1806)→神聖ローマ帝国の消滅
1806年 イエナの戦い…プロイセン・ロシア連合軍の撃破 ベルリン入城
(11 )(ベルリン勅令)の発布
イギリスとの通商の禁止、フランス資本の大陸市場支配
1807年 (12 )条約…プロイセン領土半減
ポーランドに(13 )
兄ジョゼフをスペイン王、弟ルイをオランダ王に
ハプスブルク家の皇女と結婚
補足
ナポレオンはイギリスには敗北するものの(ネルソンは流れ弾に当たって戦死)、陸上では破竹の勢いで勝利し、大陸諸国を屈服させて衛星国や同盟国にします。
革命戦争の序盤は苦戦したフランス軍がナポレオンの登場で急に強くなった理由は戦術の変化です。ナポレオン軍はまず敵に大砲を浴びせたり陽動部隊を突入させたりして敵の陣形を崩し、そこに歩兵や騎兵が切り込みます。
そんなことをしたら当然犠牲者が出ます。絶対王政の常備軍は傭兵と徴用された兵士からなるので、なるべく損耗を避けるように行動します。一方フランスの軍隊は徴兵による部隊で「自由を守るために戦う」という士気があります、つまりナポレオンの戦術は軽装で痛みに耐え、補充が可能な「国民軍」だから可能だったといえます。
「世界の歴史まっぷ」さんより。私の講座の生徒さんは別紙地図プリントで色塗りをしましょう。
③ ナポレオンの没落…「革命精神の輸出」→被征服地の民族意識成長
1808年 (14 )の反乱(半島戦争)
プロイセンの改革…[15 ]やハルデンベルクらの農民解放
1812年 (16 )遠征…大陸封鎖令違反に対する懲罰→失敗
1813年 (17 )の戦い(諸国民戦争)→敗北
ナポレオンの退位→(18 )島へ流される
[19 ]の即位(ブルボン朝復活)
1815年 ナポレオンの皇帝復位(1815.3)
(20 )の戦い(1815.6)
→セント・ヘレナ島へ流刑
補足
もともと革命戦争は「諸外国の干渉から革命を防衛する」ためでした。しかし次第に戦争の大義は「革命精神の輸出」つまり「絶対王政を打倒してフランス流の自由と平等を諸国に広める」に変わります。まあ侵略戦争ですけど。
実際に占領された国々では領主権や十分の一税の廃止、ギルドの廃止、ナポレオン法典の移植がなされます。ですから歓迎する人もいました。
ただナポレオン軍は補給(兵站)を後方からではなく占領地での徴発で行いました。つまり自由と平等の使者は泥棒です。占領地の民衆は次第に「自分たちにだって自由があるはずだ」と思うようになります。
プロイセンではティルジット条約の後シュタインが首相となり、農民の人格的自由を保障します。彼はナポレオンに睨まれてロシアに逃亡し、ハルデンベルクが後を継いで営業の自由など改革を進めます。
18世紀以来陸軍に力を入れていたプロイセンでしたが、ユンカーが将校で兵士は徴用という身分制軍隊でした。そこでシャルンホルストやグナイゼナウらが徴兵制や試験による将校採用などを導入します。
また教育面ではフンボルトがベルリン大学を創設し、フィヒテは占領下のベルリンで「ドイツ国民に次ぐ」という連続公演を行いました。
つまりプロイセンはフランス軍の強さは「凝縮力」、国家が国民の権利を保証するバーターで彼らを戦争に動員する(そのために国民意識の高揚させる)と睨んで同じことを「上からの改革」で実現しようとします。
ゴヤ『1808年5月3日』。マドリードの暴動で捕まった人が処刑されるシーン。真ん中の光が当たっている白いシャツの男性の手のひらには釘の後(イエスと同じ)が描かれています。フランスの兵士たちが下を向いているのは矛盾した気持ちの表現だそうです。ウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像。
1806年の大陸封鎖令は大陸諸国とイギリスの通商を禁じるものでしたが、穀物をイギリスに輸出し工業製品を得ていたプロイセンやロシアは、代わりにフランスが穀物を買ってくれる訳ではないので不満を抱きます。
ナポレオンは同盟諸国の兵を含む約60万の軍勢をモスクワへ送り込みますが、ロシア側は焦土作戦(物資を燃やして逃走する)を取ります。補給がままならない軍は内陸部に引き込まれ、冬の到来で退却しようとしたとき、背後からロシア軍や民衆のゲリラ部隊が襲いかかります。
チャイコフスキー1812年 (序曲) ロシア遠征を主題としています。楽譜上に「大砲」の指定があるので、各地の陸上自衛隊の野外行事でしばしば演奏されています。
飢えと寒さで軍は壊滅、これを機に諸国民が全面蜂起します。ナポレオンは一度は退位してエルバ島で隠居生活となりますが、ウィーン会議の紛糾を見て復位します。しかしワーテルローの戦いで敗北、イギリスに投降してセント・ヘレナ島に流刑となり、そこで生涯を閉じます。
まとめ
私が高校で世界史を習ったときは「フランス革命は自由と平等を実現した近代市民革命の典型」みたいな感じでしたが、最近は「社団国家」(ルイ14世の回参照)が解体して人民が直接国家と相対するようになる、いわゆる「国民国家」と「ナショナリズム」の視点からの記述になってきています。
ナポレオンはいわば「馬上のロベスピエール」、ジャコバン派がやろうとしたことを戦争で実現します。しかし彼は自分がまいた「自由の種」に足元をすくわれます。
おわりに
日本の西洋史研究では1980年代から「社会史」がブームになり、フランス革命期の「政治文化」、民衆を「国民」化する装置や表象について多くの研究が蓄積されています。また同じ頃近代世界システム論視点も日本に紹介され、一国史を乗り越える「大西洋革命」のような視点に影響を与えています。
こうした歴史研究の成果は現在の教科書に反映されていますし、入試問題でも出題されています。公式の「高大接続改革」はポンコツ化しつつありますが、世界史でのそれはかなり進んでいます。
日本の歴史研究の蓄積である権力やナショナリズムへの眼差しは、まさに「主権者教育」です。世界史は現在を学ぶためにあると、今だからこそ痛感します。
空欄
1 イタリア
2 エジプト
3 ブリュメール18日
4 統領
5 アミアン
6 私有財産
7 トラファルガー
8 ネルソン
9 アウステルリッツ
10 ライン
11 大陸封鎖令
12 ティルジット
13 ワルシャワ大公国
14 スペイン
15 シュタイン
16 ロシア
17 ライプチヒ
18 エルバ
19 ルイ18世
20 ワーテルロー