ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

国立・私立大学世界史直前チェック(文化史 マンチュリアと韓半島)

はじめに

 難関私立大学で毎年出題される文化史、今回はマンチュリア(中国東北部)と韓半島朝鮮半島)です。

 首都圏・関西の国立・私立大学の入試問題をベースに、政治史や経済史と関連性が高いものをサラッと復習、しっかり記憶できるようにしました。

 教科書(実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、一般書(山川出版社『詳説世界史研究』『世界各国史』)を参考にしています。

 Eテレ『高校講座世界史』でおなじみの六反田先生のやさしい解説

 図版は断りがない限りウィキメディアコモンズパブリックドメインの画像です。

続き

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

目次

 

1 古代~三国時代

(1) 古朝鮮・小国分立の時代

前108年 漢の武帝衛氏朝鮮を滅ぼし(1    )郡など4郡を置く

前1世紀 中国東北部に(2     )建国

204年 公孫氏 帯方郡を設置

3世紀頃 半島内部に三韓馬韓辰韓弁韓)成立

(2) 三国時代

4世紀 高句麗 楽浪郡を滅ぼす

4世紀半ば 馬韓の地に(3    )、辰韓の地に(4    )建国

 弁韓は(5   )諸国形成

4世紀末 高句麗の[6     ]即位 朝鮮半島北部に進出

 中国(五胡十六国時代)から仏教が伝来

 →6世紀前半には百済から倭(日本)に仏教が伝来

5世紀の地図 啓隆社さんよりご提供

空欄

1楽浪
2高句麗
3百済
4新羅
5加羅
6広開土王

補足

① 好太王碑文

 Joseon man standing next to the Gwanggaeto Stele(1903)

百殘,新羅舊是屬民,由來朝貢,而倭以辛卯年來,渡海破百殘,□□新羅,以為臣民。以六年丙申,王躬率水軍討利殘國軍□□。…百殘王困,逼獻出男女生白一千人,細布千匝,歸王自誓,從今以後,永為奴客。…九年己亥,百殘違誓與倭和通。王巡下平穰,而新羅遣使白王云,倭人滿其國境,潰破城池,以奴客為民,歸王請命。…十年庚子,教遣步騎五萬,往救新羅,從男居城至新羅城,倭滿其中。官兵方至,倭賊退。

訳(ぶんぶん)

百済新羅はもと高句麗に服属する民で、これまで高句麗朝貢してきた。ところが倭が辛卯の年(391年)以来、海をこえて襲来し、百済新羅などを破り、臣民とした。そこで6年丙申(396年)に王はみずから水軍をひきいて百済を討伐した。…百済王は困って男女や布を差し出して王に降伏し、「これからのちは永くあなたの下僕になりましょう」と自ら誓った。…9年己亥の年(399年)、百済はさきの誓約をやぶって倭と通じたので、王は平壌へ行った。そのとき新羅は使いを送ってきて王に告げた。「倭人が国境地帯に満ちあふれ、城を攻めおとし、新羅を倭の民にしてしまいました。私たちは王に従ってその指示をあおぎたいのです」と。…10年庚子(400年)、王は歩兵・騎兵五万を派遣して新羅を救わせた。その軍が男居城から新羅城に行ってみると、倭の兵がその中に満ちていたが、高句麗軍が到着すると、退却した。

 好太王碑は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の子が父王の業績を称えた、現在の中華人民共和国吉林省に存在する石碑です。

 好太王の業績を顕彰し、次王の権力を正当化するための碑文なので「盛って」ある可能性が高いですが、高句麗の南進と、倭と百済新羅が海をはさんで対峙していたことが見て取れます。

 「海を股にかけた国家」は世界史上珍しくありません。現在の国家や国境の枠組みを絶対視し、国民意識向上のために歴史でマウント合戦するのは不毛です。

 この碑文は日本の植民地支配の正当化に利用され、解放後は偽造説もでましたが、現在では否定されています。

② 騎馬遊牧国家高句麗

門田誠一「線刻人物図と古墳時代地域集団の対外認識」より引用

https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/RO/0013/RO00130R001.pdf

5世紀高句麗 舞踏塚狩猟図

 これは5世紀の高句麗古墳の壁画に描かれていた高句麗人の狩りの場面とみられます。彼らは頭に鳥羽冠をかぶり、奥の人物は背面から矢を射るパルティアンショットを披露しています。

 鳥羽冠をかぶった高句麗人とみられる人物は敦煌サマルカンドの壁画にも見られます(上記サイト参照)。高句麗は607年に隋に対抗するためユーラシアに大帝国を築いていた突厥に使者を送っていました(関西大学 2018年の入試問題より)。

 突厥北斉北周を屈服させ貢物で潤ったという記録が残っています。遊牧国家はそれぞれの縄張りを持ちながら、強いものがいれば連合するのが日常ですから、高句麗も機動力を活かして他の騎馬遊牧民とつながり、隋を牽制したと考えられます。

 なお高句麗の古墳の石室には高松塚古墳と同じく朱雀や玄武が描かれています。高松塚古墳の成立は高句麗の滅亡直後と考えられるので、何らかのルートで伝わったと考えられます。1500年前のグローバルヒストリーです。

③ 百済と仏教

4世紀後半の漢大陸 トムルさん作成

 氐の苻健が351年に長安に入り前秦を建国し、第3代の苻堅の時代には五胡十六国では一時最大の勢力となり、東晋と漢大陸を二分しました。

 同じ頃韓半島では百済新羅が建国され、高句麗が南下しました。高句麗前秦に、百済東晋朝貢して政権の後ろ盾としました。この過程で高句麗百済に仏教が伝わりました(新羅には高句麗経由で仏教が伝わったとされます)。

 前秦に先立つ後趙の時代に洛陽にやってきたのが仏図澄で、戦地で数々の予言を行なったことから武将の石勒に重用されました。その後仏図澄の弟子は華北や江南で活躍し、遊牧民の信仰であった仏教が漢族にも広がりました。

 遊牧民の政権は仏教の呪術性を自らの支配の正統性に使っていました。血で血を洗う戦国の世、超自然的な力に頼りたくもなります。韓半島には仏教がこの時代に中国から伝わったため、「護国仏教」として支配者に受容されました。

 百済東晋をはじめ南朝朝貢していました。

宋書倭国

興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済新羅任那加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。順帝の昇明二年使を遣はして表をたてまつる。曰く、「封国は偏遠にして、藩を外になす。昔より祖禰躬ら甲冑を擐き山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国(中略)」と。詔して武を使持節都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に除す。

 倭が南朝の宋に朝貢してきて「我々は『藩を外になす』=中国に蛮族が入ってこないように頑張っているから、半島南部での将軍号を認めてほしい」と願い出ていますが、与えられた称号には「百済」が入っていません。宋にとって百済東晋以来の冊封国で、倭よりも「格上扱い」ということでしょう。

 『蕭繹職貢図』模写、梁の時代の周辺国や少数民族の進貢の様子を表した絵図で、百済の使者はがっつり中国の文化を受容している(と絵師が解釈している)ようです。同じ絵の倭の使者は裸足でワイルドです。パブリックドメインの画像の一部。

 しかし百済は660年に唐・新羅連合軍に滅ぼされ、百済再興を図る勢力が倭の援軍を得て戦いを挑むも完敗(663年 白村江の戦い)、大量の百済民が倭に亡命しました。

 瑞山磨崖三尊仏像。百済後期(7世紀前半)の磨崖仏で韓半島に現存する最古の摩崖仏とされます。笑っているように見えるので「微笑仏」と呼ばれます。ヘレニズム風の微笑みを浮かべた仏像は日本でも見ることができます。

commons.wikimedia.org

公式

krruins.cho88.com

2 新羅渤海・高麗

(1) 統一新羅

7世紀 唐と同盟して百済、次いで高句麗を滅ぼし、半島南部を統一

仏教を保護(護国仏教)、首都(7   )に(8    )を建立

(9     )制…身分制度 花郎…青年貴族集会の指導者

(2) 渤海

698年 [10    ]が靺鞨高句麗の棄民を率いて高句麗故地に建国(震国)

713年 唐に入貢 玄宗から「渤海郡王」の称号を得る(後に渤海国王)

唐の律令制度と仏教文化を受容する。「東海の盛国」

固有の年号を用いるなど独自性も主張

8世紀中頃、(11     )に遷都…唐の都城制の影響

日本・唐・渤海間で僧侶の留学など交流さかん(円仁『入唐求法巡礼行記』)

926年 契丹に滅ぼされる

8世紀の東アジア 啓隆社さんご提供

(3) 高麗

918年 後高句麗の有力者[12    ]が建国。首都(13    )

935年に新羅、936年に後百済を滅ぼして半島を統一

渤海滅亡後は北西部に進出 新羅を上回る領域を支配

政治

 制度面では儒教の影響 中国式の科挙を導入

 (14    )…文官と武官。文官による文治政治

文化

 高麗(15    )、世界最古の(16    )活字

 仏教の保護(護国仏教)

 高麗版(17       )(木版)…契丹撃退を祈願

12世紀 崔氏の武臣政権

 三別抄…武臣政権を支える3部隊からなる軍団 モンゴルに抵抗

1260年 モンゴルに服属

 現存の高麗版大蔵経海印寺)…モンゴル退散を祈願

 モンゴルから妃を迎えて支配層はモンゴル化 日本に侵攻

仏教→モンゴル貴族層の信仰するチベット仏教の影響もみられる

朱子学→元を通じて伝わり、朝鮮王朝で官学化

空欄

7慶州
8仏国寺
9骨品
10大祚栄
11上京竜泉府
12王建
13開城
14両班
15青磁
16金属
17大蔵経

補足

① 政治文化としての仏教

 6世紀後半に新羅加羅諸国を併合すると三国の対立が激化します。

 皇竜寺はその頃から建設が始まり、7世紀半ばの善徳女王の時代に完成します。僧侶たちは木造の九層塔では敵を撃退するためにお経を唱え続けたとされています。仏教に国家を守護・安定させる力があるとする思想を護国仏教、鎮護国家と呼びます。

*皇竜寺はモンゴルの来襲で破壊され、現在発掘が進んでいます。

경주 황룡사지 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전t

 仏国寺は6世紀前半の三国新羅時代に慶州(金城)に創建され、現在の建物は8世紀の統一新羅時代のものとされています。石窟寺として有名ですが、木造部分は壬辰・丁酉の倭乱で焼失しました。

 仏国寺内の多宝塔は、奥の釈迦塔が新羅の様式、手前の多宝塔が丸みを帯びた百済の様式です。仏国寺は護国仏教のおかげで半島の統一を達成した新羅のモニュメントといえます。

 朝鮮写真帖 (朝鮮総督府1921年)。

 10世紀に新羅の統治能力が衰えると韓半島は分裂状態になり、その中から王建が建てた高麗が半島を統一しました。しかし同じ頃モンゴル高原では契丹が台頭、渤海を滅ぼして半島に迫りました。

 高麗は仏教の力を借りようと考え、ブッダの教えや僧が守るべき戒律をまとめた「大蔵経」を刊行しました。この「初彫大蔵経」の版木の完成には数十年を要しました。

 契丹が衰えると今度はモンゴルが攻め込んできました。戦いの最中に初彫大蔵経が焼失したので、モンゴル退散のために新たに大蔵経の版木を作成しました。これが海印寺に現存する高麗版大蔵経高麗八萬大蔵経)です。

 版木の数は約8万枚。刻まれた文字はおよそ5,200万字にのぼります。版木なので印刷して頒布が可能、高麗の王族だけでなく日本の足利将軍家戦国大名大蔵経を求めています。木版で一字ずつ刻まれた大蔵経は、内容だけでなくその存在そのものが「ありがたい」ものだったと推察できます。

 最終的に高麗はモンゴルに降伏し、王はモンゴルから妃をもらい、モンゴル貴族の一員であることが政権の拠り所となりました。忠烈王は胡服辮髪を民に強要するなど王族はモンゴル化しました。この親元派と反元派の対立が次の時代の幕開けになります。

ソース    https://www.flickr.com/photos/malpuella/2583843433/

著者    Lauren Heckler Creative Commons Attribution 2.0 Generic

 倭には6世紀半ばに百済から仏教が伝わったとされます。飛鳥時代には祖先を祀る氏寺が建設されますが、次第に大王が建設を命じる官寺が増えます。天平時代の大仏建立はまさに護国仏教です。また元寇の時には寺社がモンゴル退散の読経をして、その結果「神風」が吹いたとして幕府に恩賞を求めたという話もあります。

 韓半島は常に侵略の危機にさらされていたため、支配層で護国仏教が熱心に信仰されたといえます。

② イケメングループ?

 花郎ファラン)は新羅の王族の子弟からなる青年組織です。平時は歌舞遊娯を行う社交クラブですが、有事には出征する青年戦士団で、将来の国家の幹部候補生として王に仕えました。独特の習俗を持ち、仏教(弥勒信仰)もそのひとつとされています。

 少年男子グループなんて言われたら、アイドルを起用してドラマ化したくなるのは無理もありません。


www.youtube.com

③ 高句麗論争と渤海

東京大学 2019年 第2問 問3

a:韓国史は「満州韓半島」を舞台に展開した、という考えの根拠にある4~7世紀の政治状況について

b:中国が渤海の歴史的帰属を主張する根拠の1つとされる、渤海に対する唐の影響について

 1990年代後半から中国と韓国で中国東北部の歴史的帰属に関する対立、いわゆる「高句麗論争」が生じました。

 中国は、高句麗中国東北部に生まれ半島北部に進出しただけとし、韓国は高句麗新羅百済の三国の抗争がマンチュリア南部までを舞台としたとします。

 渤海についても同様で、高句麗滅亡後に権力の空白地帯になったいたマンチュリアに高句麗の残党を集めて建国された「震国」に唐が「渤海郡王」という称号を与えたので、中国側の主張は渤海は中国の一部、律令制都城制がその証拠とします。

 一方韓国側は渤海高句麗の後継国家で、10世紀に王建が高句麗の後継者を自認して新羅を滅ぼして半島を統一した、つまり高句麗滅亡から高麗統一までを「朝鮮半島の歴史」と捉えます。

 中華人民共和国は「かつて中国に服従した地域はすべて共和国の領域」という論法でチベットウイグル冊封国ではなく中華を脅かした勢力だが)の民族運動を押さえ込み、台湾の独立を牽制する狙いがあると考えられます。一方韓国は南北の分断が固定化されつつある現状を歴史によって否定したいと考えられます。

 いずれも政治的な意図から歴史を解釈し利用しています。将来歴史の教員を目指している人は、歴史には必ず政治性がつきまとうことに自覚的でありたいです。

 なお渤海は現在は多様な文化集団の混合体と考えられています。これは21世紀の多文化主義的の視点です。

*無駄話

 『宇宙戦艦ヤマトⅢ』で古代がボラー連邦のベムラーゼ首相を表敬訪問した時、首相は「ヤマトがボラーの宇宙船を救助したということは地球がボラーの支配下に入ったということだ」とトンデモ発言をして古代は目を白黒させます。

休憩 高麗青磁

© Museum Associates/LACM Image source: Los Angeles County Museum of Art (LACMA) Image Library.LACMA has released this image as a "Public Domain High Resolution Image". Attribution is requested

3 朝鮮王朝

(1) 朝鮮王朝

[18    ]…倭寇討伐で名声を得る

1392年 親元派を追放して王位に就く。首都(19     )

科田法…旧高麗の権力者から土地を没収、官僚の身分に応じて土地を支給し課税

明の制度導入。(20    )を官学化 科挙の実施(両班や有力者に限定)

仏教は弾圧される→各地で廃仏運動

15世紀初頭:金属活字の実用化

15世紀前半:[21     ](1418~1450)

 1419年 応永の外寇倭寇への報復で対馬に侵攻

 (22     )制定 官僚層は漢字使用(諺文と蔑む)

 学問所の設置 仏教の統制 雨量計・日時計水時計の発明

15世紀末 『経国大典』:法体系

1592、97 豊臣秀吉の朝鮮侵攻(文禄・慶長の役

 朝鮮では(23    ・    )の倭乱

 李舜臣の活躍、(24    )船 陶工・儒学者の日本連行

1637年 清に服属

 明滅亡後は(25     )意識の形成、儒教儀礼が厳格に守られる

(26     )…将軍の代替わり時。計12回。対馬の宗氏を介した交流

17世紀半ば キリスト教(天主教)広まる

空欄

18李成桂
19漢城
20朱子学
21世宗
22訓民正音
23壬辰・丁酉
24亀甲船
25小中華
26朝鮮通信使

補足

①「小中華思想」の功罪

一橋大学 2020年 Ⅲ

朝鮮王朝の小中華はどのようなものであり、どのような背景があったのか。またそれが1860から70年代にどのような役割を果たしたか、国際関係の変化と関連付けて。

 1351年に紅巾の乱が発生すると高麗にも乱の影響が及び、高麗では元からの独立を目指す動きが起こります。この中から倭寇討伐で名を上げた李成桂が政権を奪い、高麗王から禅譲されて王位に就きます。

 李成桂はすぐさま明に朝貢しました。明から国号の改訂を求められて、李成桂が候補とした「朝鮮」(漢人が建てたとされる伝説の王朝「箕子朝鮮」にちなむ)を明が選び、李成桂は「権知朝鮮国事」の称号を得ます。

 朝鮮国王の称号を認められなかった李成桂は明の制度を受け入れることで明の関心を買おうとします。この外交姿勢は「事大」と呼ばれ、閔氏政権が清朝の力で近代化を進めた時にも使われます。

 李成桂儒教を国の教えとし、高麗末期に伝わった朱子学を重視しました。また身分を固定化し農業を重視する政策を採りました。また科挙を実施し、新たに武班を採用する「武科」も設けました(共通テストで出た「科拳」?)。一方朱子学が嫌う仏教(出家は家族の否定につながるから)は弾圧されました(廃仏)。

 韓国の現行紙幣。1,000ウォン札の李滉(退渓)と5,000ウォン札の李珥(栗谷)は16世紀に活躍した朝鮮の朱子学の二大潮流を形成した大家。10,000ウォン札は世宗大王、50,000ウォン札は申師任堂で韓国初の女性肖像画紙幣、山水・葡萄・草・虫などの絵画で優れた作品を残し、「良妻賢母」の鑑とされています。李珥は実子に当たります。

 韓国では明代の儒教や文化がナショナリズムの一部になっていると感じます。

 韓国銀行のウェブサイトの複製で自由に使用可能

 明は豊臣秀吉の侵攻に援軍を送るなど宗主国の矜恃を見せました。朝鮮は恩義を感じますが、明は財政難に陥りました。

 1636年に国号と清と改めたホンタイジは朝鮮に君臣の契りを要求しました。朝鮮側は抵抗しますが最終的に降伏、清の属国になりました。

 明の進んだ文化を受容していた朝鮮の支配層にとって辮髪など夷狄の習俗を残す満洲人に服属することは屈辱、1644年に明が滅亡して清が北京に入城すると、彼らの中に「自らこそ中国王朝の後継者である」という「小中華思想」が芽生えます。

 この思想は清に服属する屈辱から逃れようとする知識人の心の拠り所になり、朝鮮では儒教儀礼が厳格に守られました。

 しかし16世紀後半になると朱子学の解釈をめぐって学派が分かれ(紙幣の二人がその例)、それに両班の勢力争いも加わって党派対立が発生しました。

 さらに19世紀に入ると「小中華」が裏目に出ます。外国が開国を求めても拒否し、日本が新たな外交関係を求めると、その文書に「皇」「勅」が使われていることを理由に受け取りを拒否します。

 19世紀にヨーロッパ列強の干渉が強まる中、アジア諸地域は近代化を受容しつつ自らのアイデンティティを守る(あるいは近代化によってアイデンティティを「発見」する)ことで生き残りを図ります。厳格な朱子学儀礼は朝鮮に安定をもたらしましたが、この時ばかりは「ソフトランディング」の妨げになった感があります。

② 壬辰・丁酉の倭乱とグローバルヒストリー

 朝鮮宮廷が党争に明け暮れていた16世紀末、豊臣秀吉が朝鮮に侵攻します。秀吉の目標は明の征服で、朝鮮に日本への服属と明への先導を要求しました。朝鮮はそのような要求を飲むわけではなく、1592年に秀吉の軍勢は釜山に上陸、あっという間に漢城を攻め落としました。

 いったん明の仲介で休戦になりますが、1597年に日本軍が再び朝鮮に侵攻、しかし戦線は膠着し、1598年に秀吉が死亡すると日本軍は撤兵しました。

 この時日本に連行された陶工たちの技術が有田焼、薩摩焼など日本の陶磁器が飛躍的に発展するきっかけになりました。17世紀の明清交替で中国からの陶磁器が途絶えると日本製の陶磁器がオランダ経由で海外に輸出されました。

 有田焼の連合東インド会社(VOC)ロゴ入り

 科挙官僚であった姜沆(カン・ハン)は1597年の慶長の役(丁酉再乱)の時に藤堂高虎に捕虜にされ、伏見に幽閉された時に藤原惺窩と交流を持ちました。中国に渡って朱子学を学びたいと考えていた藤原惺窩は姜沆から朝鮮朱子学を学びました。この後徳川家康が幕府を開くと、藤原惺窩の意見を採用して朱子学を幕府の学問としました。

 姜沆と藤原惺窩が筆談で朱子学について議論した様子が天理大学附属天理図書館に残っています。

https://www.tenri-u.ac.jp/inex/q3tncs0000137t13-att/q3tncs0000137t9t.pdf

 豊臣秀吉は日本を平定した後に台湾、琉球、フィリピンに朝貢を求め、明を征服したあかつきには寧波に拠点を移す腹づもりでした(Eテレ『高校講座世界史』より)。

 韓国のドラマ『チャングム』の舞台は16世紀前半で、現在「水キムチ」と呼ばれるキムチが登場します。豊臣秀吉の軍勢にはポルトガルの奴隷商人が随行していて、新大陸産のトウガラシが朝鮮に伝わったのはこの時期以降と考えられます。

 またサツマイモが朝鮮通信使を介して韓半島に伝わり、飢饉対策に使われました。

 さらに秀吉の出兵の影響でマンチュリアの毛皮や薬用人参の需要が増し、それが後金(アイシン)の建国につながりました。16世紀末の東アジアの騒乱はアジアのグローバル化の一断面でもあります。

③ 朝鮮通信使

 徳川家康は朝鮮との関係修復を求め、朝鮮も1607年以降宗氏を介して外交使節を送りました。正使、副使、随行員を含めて300人から500人の行列だったそうです。

 日本は中国の冊封国ではありませんが「中華」の手法は模倣していました。朝貢使節が中華の徳を慕って入貢することは「権力の視覚化」(外国の人々がペコペコする中華皇帝ってどんだけーっ!)につながったと考えられます。

 朝鮮通信使やカピタン江戸参府も幕府の権威付けの一環と考えられます。効果は大きかったようで、朝鮮通信使が通っていない地域にも似た祭りが残っています。

羽根川東栄作。神戸市立美術館所蔵、池永肇ギャラリー

 ただし朝鮮王朝は江戸幕府と直接国交を持っていたのではなく、対馬の宗氏を介した関係でした。

 15世紀中頃から対馬では架空の名義やニセモノの通交使節を仕立てて、朝鮮王朝に送り込んでいました。その物的証拠が国書の改ざんに利用された印、「対馬宗家旧蔵「図書」と木印」です(重要文化財)。日本史では[柳川事件」が有名です。

 2022年にオープンした対馬博物館ではこのレプリカで国書の偽造が体験できます。

tsushimamuseum.jp

 明治政府が成立して新たな外交関係を朝鮮王朝に求めたことから両者間にトラブルが発生し、それが江華島事件に発展します。