ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

自宅待機中の自習プリント(江南の発展 明の時代)

はじめに

 いつ何時また家庭学習と言われるかもしれないので、自習がしやすい中国史(ユーラシア中部・東部史)を整理していきます。

 中国史は教科書の記述通り、王朝ごとの「できた」→「発展した」→「傾いた」→「滅んだ」を4フェーズで整理して比較するのが鉄板ですが、入試では「マンチュリアの歴史」「中国の経済の中心の移動」のように、地域やテーマで横断的に問われることが、難関になればなるほど増えます。

 今回は明の時代、14世紀にいったん収縮した経済が16世紀に活況を見せる時代です。入試頻出の朝貢貿易について整理します。

参考図書

教科書(実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社

資料集(帝国書院、浜島書店)

一般書(山川出版社『詳説世界史研究』『世界各国史』、岩波新書「シリーズ中国史の歴史」講談社学術文庫「中国の歴史」)

上田先生はEテレ高校講座世界史でお馴染み

参考 ©NHK

www.nhk.or.jp

 画像は断りがないものはウィキメディアコモンズパブリックドメインのものです。

目次

 

1 15世紀のユーラシア中部~東部の地図

Albert Herrmann, Historical and Commercial Atlas of China, Harvard University Press. 1935

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2 明の成立と発展

14世紀…世界各地で自然災害・疫病が多発

[1     ]…貧農出身・白蓮教徒による(2    )の乱(1351~)に参加

1368年 (3    )(金陵)で即位=太祖[4    ]帝(一世一元制)

→元:モンゴル高原に撤退(北元)

明初期の政治

皇帝権力の強化:(5    )省・長官の丞相の廃止、(6    )直属化

官制:(7    )学の官学化 科挙制整備

軍制:(8    )制→軍戸の戸籍設置

農村:(9    )制…110戸=1里(財力ある10戸を里長戸),残り100戸を10甲

 →輪番で徴税事務・治安維持,人望ある長老=里老人…里内の裁判・教化

 (10      ):租税台帳  (11     ):土地台帳

 (12    )制定:民衆教化の教訓(6カ条)…里老人が説いて回る

対外政策

北方:一族を北方辺境に配置して防備

東南沿海:(13   )政策→民間人の海上交易禁止,朝貢貿易推進

[14    ]帝の治世…朱棣、北平王

1399~1402 (15    )の役:建文帝を打倒 (16    )遷都

外積極策

 モンゴル高原に自ら遠征

 南:ベトナムを一時占領

 [17    ]の遠征…インド洋~アフリカ沿岸(マリンディ)

 →南海諸国の朝貢勧誘

内政 (18       )の設置…皇帝の補佐

編纂事業 『四書大全』『五経大全』『性理大全』『永楽大典』(百科事典)

空欄

1    朱元璋
2    紅巾
3    南京
4    洪武
5    中書
6    六部
7    朱子
8    衛所
9    里甲
10    魚鱗図冊
11    賦役黄冊
12    六諭
13    海禁
14    永楽
15    靖難
16    北京
17    鄭和
18    内閣大学士

補足

① 建国には知恵が必要

 朱元璋安徽省の貧農の生まれで、飢饉と疫病で家族を亡くし、寺に預けられるものの食い詰めて托鉢の旅に出ました。

朱元璋の温和じゃない方の肖像画

http://history.cultural-china.com/chinaWH/images/arbigimages/68bb56dcde451b748c2ef78aeac6b0e7.jpg 

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 当時元朝は宮廷の権力争いにチベット仏教への多額な出費、モンゴル王侯への無制限な贈与によって国家財政は逼迫、重税となって民衆を苦しめていました。

 そこへ13世紀末以来の天災・飢饉・疫病が追い打ちをかけ、1340年代以降は黄河が何度も氾濫をくりかえして農民は甚大な被害を受けました。

 こうした中で弥勒下生(地上に出現する)を願う白蓮教が流行しました。

 1351年、韓山童は北宋徽宗の末裔を名乗り、河南で黄河の土木工事に従事していた人夫たちを扇動して反乱を企てますが未然に発覚して処刑されました。

 しかし仲間の劉福通らが挙兵すると元に不満な勢力が集まり、韓山童の子の韓林児を擁立して大宋国を樹立しました。彼らの一味は赤い布を巻いたので「紅巾の乱」と呼ばれます。

 巨人を使って宗教を広めるといえばこれ。

公式


www.youtube.com

 同じ頃長江中流域でも別の白蓮教勢力が建国し、江南では非白蓮教勢力の方国珍や張士誠が浙江・福建で海賊行為を行うなど各地で反乱が発生しました。

 朱元璋は故郷の豪族である郭士興が反乱を起こすと仲間に加わり、頭角を現します。その後独立した部隊を率いて1356年に建康を占領、応天府(現南京)と改称しました。

 紅巾軍の主力は元の反撃で勢力を失い、「宋の復活」は掲げるもののそれ以外の具体的なビジョンに欠けていました。

 一方江南を押さえた朱元璋のもとに秩序回復を期待して地主や儒家が集まってきます。朱元璋は呉国公(後に呉王)を名乗り、応天府に行中書省をかまえ、儒家をブレーンに据えて統治機構を整えます。

 こうして朱元璋の軍団は暴徒から天下を狙う政権へと変質し、対立する勢力を次々打倒し、白蓮教とは手を切ります。保護していた韓林児も長江で溺死させました。

*発展:元は有能であれば身分に関係なく取り立てる主義で、当初は科挙は実施していませんでしたが、官僚なしでは大陸は統治できないので14世紀に科挙は復活、江南では学院(廟堂)の建設が奨励されました。

学院にはよく孔子廟が併設されています。台北孔子廟。「パブリックドメインQ」より

[無料写真] 台北孔子廟 - パブリックドメインQ:著作権フリー画像素材集

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② 窮屈な統治

 1368年に朱元璋は応天で皇帝に即位、国号を大明、元号を洪武とします。元朝最後の皇帝は北方に逃れますが1370年に病死、朱元璋は皇帝の孫を捕虜にして、江南からおきた王朝としてはじめて漢大陸を統合しました。

 新王朝には荒廃した農地をどう復興させるかという課題がありました。

 政府は開墾を奨励し、耕牛や種籾を与えて税役を免除したりしました。また逃亡農民を故郷に戻し、人口の多い地域から少ない地域(特に被害甚大な華北)への移民も行いました。

 朱元璋の王朝は江南の地主と儒家の支持で成立したため、地主と官僚との癒着が問題でした。朱元璋は宰相に謀反の濡れ衣を着せて官僚や地主を大量に処刑し、その後農地の土地測量と世帯調査をして農村に里甲制を敷き、里甲の長に徴税や用役、治安維持の責任を負わせました。

 この結果農民は土地に縛り付けられ、移動や職業選択の自由を失いました。身分上昇の機会は科挙に限定され、特権層、庶民層、隷属民の身分格差は厳格でした。

 また荒廃した華北と銀の使用が進んだ江南とのアンバランスを解消するため、税は現物制にする一方で金銀の使用を禁止し、宝鈔(不換紙幣)を発行しましたがあまり流通しませんでした。

 商業を重視し、地主はモンゴルに金さえ払えばあとはフリー、才能に応じて取り立てられた元の時代に比べて明初は規制ガチガチ、儒教的価値観の押しつけ(六諭)など、窮屈きわまりないです。(´・ω・`)

 しかし元の「緩さ」が未曾有の危機を招いたと考えれば、明初の締め付けは「国から与えられた身分相応な生活を守っていれば生命と財産はとりあえず保証する」という農村再建策だったのでしょう。

 なお里甲制は十進法、モンゴルの制度を参考にしています。

③ 海の世界

 朱元璋は王朝を創設するとベトナムチャンパー、高麗、日本などに使者を派遣して朝貢を促し、モンゴルと修好していた勢力に対して新政権の正当性をアピールしました。

 しかし中国沿岸海域は元末以来ヤバいことになっていました。

 紅巾の乱の時代に方国珍や張士誠が江南の経済力を背景に海外貿易で富を蓄え元に抵抗しました。朱元璋は彼らを屈服させたものの、残党討伐に手を焼きました。

 彼らと結託したのが倭寇です。日本は14世紀に南北朝が対立、アナーキーな状態に乗じて倭寇は日本を拠点に朝鮮や中国沿岸部を荒らしていました。彼らはいわば海に縄張りを持つ領主です。明は日本(南朝)に何度も倭寇取り締まりを求めました。

 洪武帝は中国の民間人が海上に出ることを禁止し、彼らが反明勢力や倭寇と結びつくことを防ごうとしました。海禁が敷かれてからも民間の貿易は行われましたがトラブルも多く、1374年には民間船の海外への渡航や貿易を禁止しました。

 この結果貿易は「朝貢貿易」と呼ばれる、中華と周辺国のオフィシャルな儀礼関係に限定されることになりました。

 朝貢貿易とは、周辺国の貢物と中華からの返礼品(回賜)の交換で、当然ですが皇帝の徳を見せるために回賜の方が高額です。また朝貢船には貢物以外の貨物も積まれていて、使節が首都を表敬訪問している間、随行商人がそれを使って取引をすることが可能でした。

*勘合は正規の使節であることを示す紙製の割符のようなもので、入貢時の携帯を義務付け、入国地点と首都の礼部で底簿と照合して使節が本物かどうか確認しました。したがって「勘合貿易」という言い方はよくないという意見もあります。天与清啓の「戊子入明記」挿絵入り(妙智院蔵)

https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/shoseki/nichimin.html

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④ 簒奪者永楽帝

 洪武帝の長男は亡くなり、若い孫が皇位を継いだときに反乱を防ぐために洪武帝は建国の功臣を次々に粛正しました。孫(建文帝)は即位すると諸国に分封している叔父の勢力を削減しようとしました。

 それに対して北平の燕王(朱棣)が反旗を翻し(靖難の役)、建文帝を打倒して帝位に就きました(永楽帝)。建文帝側は洪武帝の粛清で有能な人材が残っていませんでした。過干渉は禁物です。(´・ω・`)

 永楽帝は自らに従わない官僚を一族皆殺しにして江南系の儒教官僚を一掃し、洪武帝がなしえなかった「江南王朝から南北統一王朝」への転換を果たし、1421年には首都を北京に移しました。

 しかし儒教的価値観からすれば永楽帝は甥を殺して皇帝になった簒奪者です。永楽帝は自らの正統性をアピールするために「亡き父」洪武帝のやり残したことに邁進しました。それは中華王朝が周辺諸国を平定する、いわゆる「華夷秩序」の形成です。

永楽帝が『四書大全』『五経大全』『性理大全』と儒教経典の編纂を命じたのは簒奪者イメージを払拭するためでしょう。『永楽大典』は百科事典で、彼の編纂事業にはすべて「大」の字がつきます。

 彼はモンゴルに自ら数度遠征し、洪武帝の晩年に縮小していた朝貢貿易を再開しました。また日本の足利義満が「日本国王」として朝貢し、倭寇も沈静化しました。フビライにたてついた日本を「子分」にした永楽帝は、さらに同じくフビライがなしえなかったベトナムも一時占領しました。「フビライ越え」です。

*発展:明は南朝懐良親王を「日本国王」と認めていて、将軍名義で入貢しようとした足利義満は拒まれました。南北朝合一後義満は1395年に太政大臣を辞し、出家してフリーの立場になり、建文帝の時代に「日本国王」と認められ、永楽帝の時代に朝貢して正式に冊封を受けました。

 朝貢貿易は莫大な利益があがります。義満は名より実を取り、儒教の礼を理解した書状を送り、倭寇に拉致された明人や捕縛した倭寇を明に送り返しました。永楽帝は喜び、義満との関係を重視しました。しかし日本には中華の冊封に入ることをよしとしない風潮があり、義満死後朝貢は低調になりました。

 

 最大のイベントが鄭和の南海遠征です。ムスリム鄭和を総司令官として合計7度実施された遠征は、第一回の規模だけでも戦艦62隻、兵士2万7800余名という空前絶後の大事業でした。

 鄭和の目的は征服ではなく圧倒的な軍事的を見せつけて訪問国の王を冊封することでした。冊封された王は鄭和の艦隊に便乗して朝貢し、帰国も鄭和の艦隊を使いました。永楽年間に30国あまりの国が来朝したとされています。

 鄭和の遠征によって「皇帝の徳を慕って周辺国が礼を受容してその支配下に入る」という「華夷秩序」が宣伝されましたが、引き続き民間人の海外渡航は禁止されていました。

 永楽帝の死後、鄭和の南海遠征の業績は封印されました。遠征は永楽帝の「フビライ越え」をアピールして「簒奪者」のイメージを払拭することが目的です。それに朝貢は中華の「気前の良さ」を見せるため貢ぎ物以上の返礼品を渡すので財政を圧迫します。何度もやるものではないです。

鄭和の遠征ルート

原典 http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Zheng-He-7th-expedition-map.svg
作者 Originally by Vmenkov on 2010-08-24, based on the blank map File:Asie.svg (ver. 1) by User:Historicair 

クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植

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 ベンガルから進貢されたキリン(『瑞応麒麟図』の模写) 使者の服が中国風なのは中国の礼を受け入れているという「演出」。パブリックドメインの画像

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3 東アジアの勢力後退と東南アジア海域の発展

① 明の海禁体制と周辺地域

14世紀:各地で動乱…政権の交代と内戦

15世紀:明と朝貢貿易 文化の輸入 

日本

 鎌倉幕府滅亡→南北朝の対立→(1    )の活動活発化

 1392年 南北朝合一

 [2     ]が明に朝貢日本国王に封ぜられる→勘合貿易

朝鮮

 1392年 [3     ]が朝鮮王朝建国 都:(4    )(現ソウル)

 明に朝貢 明の制度を導入した改革…科挙整備・朱子学導入(経国大典)

   実態は(5    )が官僚を世襲

 15世紀前半 [6    ]時代…金属活字による出版、(7     )制定

(8    )

 15世紀初め,(9    )王の統一(中山尚氏)

 朝貢貿易の中継→東シナ海南シナ海とを結ぶ交易の要衝に成長

(10      )王国

 14世紀末,マレー半島西南部に成立 鄭和の南海遠征の基地

 イスラームに改宗 マジャパヒト王国にかわる東南アジアの貿易拠点に

ベトナム

 (11   )朝…黎利、明軍を撃退して独立

 明の制度導入 朱子学振興

西北モンゴル

 (12     )の[13      ]のもとで強大化

 1449年 (14    )の変…正統帝を捕らえる

② 第二次大交易時代

16世紀:世界商業の活発化 

朝貢貿易の拡大を求めて私貿易が活発化 「北虜南倭

モンゴル 

 タタールの[15        ]…長城をこえて侵入→1550年,北京包囲

東南海岸

 後期倭寇 中国系私貿易集団

ポルトガル

 1511年 マラッカ占領 香辛料貿易

  日本に中国の物産を販売し銀を手に入れて中国で交易

スペイン

 フィリピン占領 メキシコ銀(アカプルコから運搬)

ムスリム商人:ポルトガル人にマラッカ海峡を押さえられる

→新たにスマトラ西岸~スンダ海峡~ジャワ海ルートを開拓

イスラームを受容した王国

 スマトラ島 (16    )王国 オスマン帝国と直接取引

 ジャワ島西部 バンテン王国

 ジャワ島中部 (17     )王国

インドシナ半島

 タイ (18      )朝

  14世紀 上座部仏教導入 東南アジア港市にに米を供給

  16世紀 日本・中国・琉球ポルトガルと交易

 ミャンマー (19     )朝 

  東南アジアとベンガル湾を結ぶ交易 米・獣皮などの貿易

日本

 16世紀半ばに(20   )生産が急増(石見銀山の開発 灰吹法の導入)

 倭寇対策で明との直接交易が禁止→ポルトガル・スペイン・中国商人経由

 中国産(21    )や絹織物をマニラや長崎で購入

空欄

1    倭寇
2    足利義満
2    李成桂
4    漢陽
5    両班
6    世宗
7    訓民正音
8    琉球
9    中山
10    マラッカ
11    黎
12    オイラト
13    エセン=ハン
14    土木
15    アルタン=ハン
16    アチェ
17    マタラム
18    アユタヤ
19    トゥングー
20    銀 
21    生糸

補足

① 琉球はどうして繁栄したの?

 この地域を中国で「琉球」と呼ぶようになったのは洪武帝の時代からです。当時の琉球では北山・中山・南山の3 国が鼎立する形勢にあり、明はこの琉球に使者を遣わして三国それぞれに王号を送り,明への朝貢国としました。

 三国に王号とは大盤振る舞いですが、明は琉球倭寇対策の拠点および貿易を禁じられた中国民間貿易商の「トンネル会社」に利用しようとしたからと考えられます。

 明は琉球朝貢用の船を建造して下賜し、朝貢回数でも優遇措置を講じました。琉球には中国に献上する特産品があまりないので、明に外交使節を送ることができない東南アジアの港市や貿易商を呼び寄せ、その商品を中継することで利益を上げました。

琉球の進貢船。 沖縄県立博物館・美術館

https://www.tsunagaru-map.com/yuntanza-museum/map.html?point=664

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 中山王尚氏が1429年に三国を統合して琉球国として明への朝貢を続けましたが、15世紀半ばから明の「羽振り」が悪くなり、16世紀になるとポルトガル・スペイン・中国商人が日本との貿易に割り込んできて繁栄に陰りが出はじめました。

 16世紀末に豊臣秀吉朝鮮出兵を企てると、島津氏を通じて琉球王国に軍役を要求しました。さらに朝鮮出兵終了後、徳川家康は険悪となった対中関係を修復するために、その斡旋役を琉球に求め、暗に幕府への従属をうながしました。しかし明との関係を重視する琉球は幕府の要求に応じませんでした。

 琉球との交渉役を任されていた島津氏はこれを機会に琉球侵攻計画を立て、1609年に奄美大島から琉球諸島へと攻め入りました。琉球は10日間で敗北し、これ以後琉球は独立王国として明や清の冊封を受けつつ、実際は島津氏の支配を受けました。

② 倭寇って14世紀と16世紀では違うの?

 「倭」が何を指すのか、倭寇は誰かには諸説ありますが、14世紀の倭寇は、明の公式な朝貢相手が「日本」でそうでないのが「倭」なので、日本を活動拠点とする非公認の私貿易集団を指すと考えられます。

 洪武帝から永楽帝の時代に貿易は朝貢に限定されますが、15世紀半ばからにそれがほころび始めます。

 草原地帯の遊牧民は農村部の物品に依存しているので、歴代王朝は「互市」という交易所を設けていました。しかし交易を朝貢に一元化する明は互市を禁止、モンゴル高原を平定すると南方と同じように朝貢貿易しか認めなくなります。

 15世紀半ばオイラトのエセン=ハンは返礼品目当てに定員以上の使節団を北京に送りましたが、明が返礼品の量を減らしたので実力行使に出ます。これが土木の変です。

 南海諸国への朝貢勧誘も明側が赤字になるので次第に縮小し、浙江や福建では再び密貿易が始まりました。特に16世紀以降東南アジアで交易が活況を呈し、日本で銀の生産が増加すると、中国沿岸部の人々が利益を求めて私貿易や海賊行為を行うようになりました。これが「16世紀の倭寇」「後期倭寇」です。

 その代表王直は寧波近くの双嶼港を拠点に私貿易を行い、日本に中国の商品を売って銀を得ました。種子島に漂着したポルトガル人は王直の船に乗っていたといわれます。

 明は取り締まりを強化し、16世紀半ばに双嶼港を急襲します。王直は五島列島川口春奈♡の地元)や平戸へ避難、残党が沿岸部で略奪行為を働いて1550年代に「嘉靖大倭寇」と呼ばれる大騒動になりました。

 結局明は16世紀半ばに海禁を緩め、王朝の管理する「互市」での交易を認めます。ただし倭寇の拠点とみなされた日本とは貿易禁止、日本はポルトガル・スペイン・中国商人を介して中国の物産を手に入れようとし、日本銀が中国に流入しました。

南蛮船(カラック船)。神戸市立博物館。南蛮貿易というと鉄砲など「舶来品」を連想しますが、ポルトガル商人との最大の取引は日本銀と中国産生糸との交換でした。

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 同じころ北方ではタタールのアルタン=ハンが貿易拡大を求めて北京を包囲、明はアルタンと和睦し、南方の海禁緩和と同じく「馬市」を開いて交易を拡大しました。

 この貿易規制の緩和を求めた北と南の騒乱をまとめて「北虜南倭」といいます。

4 明の社会と経済の発展

① 農業・手工業の発展

国際商業の活発化→中国国内の商工業の発展促進

長江下流域 家内制手工業繁栄…綿織物・生糸・綿花・の栽培が普及

長江中流域…明末から穀倉地帯

→「(1    )(湖北・湖南省)熟すれば天下たる」

陶磁器生産の増大…(2      )(江西省)など繁栄

特権商人…政府の物資調達を請け負い、全国で商業網を広げる

 (3    )商人(山西省)・(4    )(新安)商人(安徽省

 大都市に(5    )・(6    )(同郷者・同業者センター)を設置

 (7      )…商人が地主化 都市に居住して文化生活を楽しむ

  科挙に合格しながら任官せず、地域社会のボス化(例:董其昌

農村…貨幣経済の進展 商人や高利貸しの支配

 (8      )運動…小作料の減免要求 例:鄧茂七の乱(15世紀)

② 税制の変革

銀の流入→農民が作物を銀に換金して納税

16世紀:(9       )…土地税や徭役を銀に一本化して納入

    最初は江南地方で→万暦帝の時に張居正が全国で実施

空欄

1    湖広
2    景徳鎮
3    山西
4    徽州
5    会館
6    公所
7    郷紳
8    抗租
9    一条鞭法

補足

① 湖広熟せば天下足る

 16世紀に海禁が緩むと江南地方の経済は活発化し、蘇州や湖州の絹織物、松江の綿織物、景徳鎮の陶磁器などは分業方式で大量生産され海外にも輸出されました。

 これを受けて長江下流域では水稲栽培から綿花栽培や桑(生糸の原料を作る蚕の食べ物)栽培へ切り替える農家が増え、穀倉地帯は長江中流域になります。

 生産された商品は山西商人や徽州商人などの客商(遠隔地商人)によって全国にもたらされ、流通の結節点には年と並んで市や鎮などの市場町が拡大します。

 都市の発展を背景に、官僚・士大夫、大地主は都市に住み(城居領主)、奢侈的な生活を楽しみ、それを目当てに服飾・飲食・娯楽・運輸などのサービス業が栄えました。

 特に科挙に合格しながら中央に出仕しないで地方で力をふるった人々は「郷紳」と呼ばれ、佃戸から小作料を取るだけで農業経営からは手を引き、あの手この手で土地を集積したため、農村では土地を失うものが増え、都市に流入しました。

② 張居正のせいで万暦帝は「ぐれた」?

 明末になると大地主の税金逃れ、役所の不正、農民の離農で税収は伸び悩む一方で北方の防衛費は膨らみ、財政面では火の車でした。

 万暦帝が10才で即位すると、張居正が内閣大学士の筆頭になり、皇帝の威光を利用して強権的な手法で財政の立て直しを行ないました。

 彼は新しい人事評価制度を導入して綱紀を粛正し(不正は減ったが政治批判もできなくなった)、農民から滞納する税を強制的に取り立て、検地を行なって郷紳の隠田を摘発しました。さらに各地で行なわれていた一条鞭法(税を丁税(人頭税)と地税にまとめ、一括して銀で納税する)を全国で実施しました。

 つまり張居正は大土地所有を認めた上で税金をがっつり取るという作戦です。この結果課税対象の耕地面積は拡大し、税収もアップして財政は好転しました。

 しかし張居正はこうした政策を強権的に行なった(従わないと左遷したり罰を与えた)ので、彼が死ぬと官僚や地主の不満が爆発、改革は骨抜きになりました。

 また幼少時から張居正に口やかまし帝王学をたたき込まれた万暦帝は、彼が死ぬと反動で浪費にふけり、追い打ちをかけるように戦乱が勃発(豊臣秀吉朝鮮出兵もそのひとつ)、明の財政は逼迫し、ツケは農民や都市住民に押しつけられました。

 明の十三陵のうち万暦帝の定陵が発掘され,地下宮殿としてその巨大な墓室と豪華な副葬品が公開されています

入り口 卒業生提供

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まとめ

  • 重商主義実力主義、農村にノータッチの元が14世紀の危機で崩壊、明はその逆張りで農村重視、規制主義で農村を再建しようとした
  • 江南の経済力を背景に成立した明だが、統一後は華北の再建を重視し、永楽帝のクーデター後は南北間のバランスが保たれる
  • 明は「モンゴル越え」と倭寇対策を一気に行うため、「儒教の礼をベースに皇帝の徳のもと周辺国が従う」という「華夷秩序の帝国」を作り、貿易はこの儀礼に限定しようとした。その最大イベントが鄭和の南海遠征
  • 朝貢貿易は金がかかりすぎて縮小、一方周辺国は貿易の拡大を求め、16世紀に経済が活発化すると南北で争いが発生する
  • 明が海禁を緩めた結果、日本銀やメキシコ銀が中国に流入し、江南で生糸や陶磁器など輸出用製品の生産が拡大し、商工業が活発化し、租税の銀納化が進んだ