休校中の自学自習プリント、今回はアメリカ独立革命についてです。
前回
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
問:アメリカの独立は誰の何からの独立?
① イギリス系13植民地の成立…定住植民地。自治的な政治体制
北部…自営農民の自給的農業,商工業(漁業、造船業、海運業)の発展
ニューイングランド:(1 )
メイフラワー号で移住。プリマスに植民(1620)
ペンシルヴァニア:クェーカー教徒の建設
南部…プランテーション経営の発展。米、藍、タバコなどを生産・輸出
白人年季奉公人、黒人奴隷の使用
(2 ):最初のイギリス植民地 ジェームズタウン(1607)
ジョージア:13番目の植民地
自治の気風:ヴァージニアに最初の植民地議会(1619)
タウン=ミーティング
補足
ニューイングランド植民地に最初に入植したヨーロッパ人はメイフラワー号によって渡来した102人のピューリタンとされています。彼らは「ピルグリム・ファーザーズ」(巡礼始祖)と呼ばれますが、乗員のうちそう呼べそうな人は41人にすぎず,他はイギリス国教会のメンバーだったそうです。
上陸してのち翌年の春までに半数以上が病気などで死亡します。しかし翌年は先住民(インディアン)に教わったトウモロコシの収穫によって助けられ,のちに到着した4隻の船の人々とともにプリマス植民地を形成します。
「最初のアメリカ人」のテーマパーク
アメリカでは彼らが「神話化」されていますが、上陸時に大げんかしたり、助けてもらった先住民を虐殺したりと黒歴史です。(´・ω・`)
ピューリタンが組織的に北米に移住してくるのは1630年代で、ニューイングランド植民地が形成されます(現在のマサチューセッツ州、コネティカット州、ニューハンプシャー州など。東京大学で出題)。
この本によると、先住民と収穫を分け合ったとされる「感謝祭」が11月の第四木曜日に制定されたのは20世紀に入ってからで、理由には闇があるみたいです。
南部植民地の「美談」としてはポカホンタスの話があります。立ち入りませんがこちらも虚実入り混じって闇深そうです。
② 本国政府の圧迫
1763年 七年戦争(北米では(3 )戦争)終了
パリ条約で英は仏から(4 )を獲得→維持費がかさむ
→13植民地への重商主義政策の強化
1763年 国王宣言線…アパラチア山脈以西への植民者の進出抑制
1765年 (5 )法 13植民地の出版物に本国の印紙を貼らせる
→(「6 」)と抵抗
→翌年印紙法撤回 タウンゼント諸法(紙、ガラスへ課税)
1773年 (7 )法…イギリス東インド会社に茶の独占販売権
→密輸商人の反発 (8 )事件勃発
1774年 (9 )で大陸会議の開催。本国に抗議
1775年 (10 )とコンコードで武力衝突
→[11 ]を総司令官に
補足
18世紀の英仏百年戦争は論述の定番テーマで、その影響がよく問われます。
17世紀に本国政府は北部に対して航海法を発布し、貿易の規制や一部の産業の制限を行ないますが、本国の経済利益につながるタバコや藍の栽培や、イギリス国籍を持つ植民地船舶の海運業は保護を受けていました。
また「有益な怠慢」と呼ばれるように厳格な取り締まりは少なかったので、北中部の商人は西インド諸島から糖蜜を密輸し、それをラム酒に加工してアフリカに運び、黒人奴隷を購入してプランターに販売して利益を得ていました。
しかしフレンチ=インディアン戦争が終了すると事態は一変します。
フランスの北米植民地は毛皮取引が中心で、イギリスに追われた先住民と友好関係を結んでいました。ヨーロッパでの戦争ごとに北米では13植民地と先住民との衝突が繰り返されました(別回で解説)。
イギリスはついにフランスを北米植民地から駆逐しますが、戦費に加え新領土の防衛費がかさみます。それでその一部を植民地人に負担させようとします。糖蜜への課税を厳重にする砂糖法(1764年)はその一例です。
一方13植民地は、イギリスが常時軍隊を置いていたわけではなかったので、平時は民兵を組織して先住民と対峙し、有事には本国から派遣される軍と協力しました。
その間植民地議会は予算や課税の権限を持つようになり、本国からの独立性を保持するようになります。フランスの脅威がなくなれば本国の軍隊に依存する必要はないのでより自治を求めるようになります。
こうして両者の対立は先鋭化します。
1765年の印紙法は、法律上・商業上の証書、新聞、パンフレット、はてはトランプや卒業証書にまで本国の印紙を貼ることを命じ、この収入で植民地防衛費の一部を得ようとするものでした。反対運動は植民地間の連帯意識を強めることになりました。
*細かい参考書だと「代表なくして…」はヴァージニア議会でパトリック・ヘンリが提唱して決議された、まで書いてあります。
1773年に本国政府は茶法を制定し、茶の大量ストックに悩む東インド会社に植民地での独占販売権を与えます。格安で販売された茶は密輸の茶よりも安かったため、密輸商人の利益を侵害します。
そこでボストン市民の一部が先住民に変装して(「先住民のしたことだから仕方がない」という差別意識?)イギリス東インド会社の船を襲います。これに対して本国政府は強硬手段を取り、マサチューセッツ州を事実上の軍政下におきます。
懲罰的な政策を一度認めてしまうと他の植民地の自治権も危しくなります。植民地の代表が集まって対策を練りますが、この時点では自治を求める意見が多数派でした。
ボストン茶会事件 ウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像
こちらもテーマパークになっています。お茶を投げ捨てたい人はどうぞ。HISのブログ。
③ 自治から独立へ
当時の植民地…愛国派・忠誠派・中立派(大多数)
トマス=ペイン『(12 )』出版(1776)→独立の必要を訴える
1776年7月4日 独立宣言の発表…[13 ]らが起草
[14 ]の社会契約説を引用
①自然法(人間の自由・平等),②社会契約説、③抵抗権
経過:フランス・スペインの参戦 フランクリンの遊説
(15 )同盟→ロシア皇帝エカチェリーナ2世
(18 )の戦い(1781)…イギリス敗北
結果:1783年 (19 )条約
→アパラチア山脈以西への移住解禁→自由農民の発展
ヴェルサイユ条約…イギリスとフランス・スペイン
英→仏:セネガル 英→西:フロリダ、ミノルカ島
補足
南部に国王に近い人も多かったので和解を模索する動きもありましたが、国王ジョージ3世は植民地人を「叛徒」と決めつける宣言を出し(銀河帝国と自由惑星同盟みたい)、議会は植民地とのすべての通称を禁止する措置を取ります。
1776年1月にトマス=ペインが『コモン・センス』を発表し、独立によって得られる利益がいかに大きいかを力説します。このパンフレットは発行後数か月で10万部を売りつくし、独立への流れが生まれます。
ちなみに「愛国派」は英語で「patriot」、今では迎撃ミサイルの名前です。
7月4日には大陸議会が独立宣言を公布し、独立の正当性を訴えて独立についてためらっている人を独立派に結集させると同時に、諸外国からの援助を得ようと目論みます。
南北戦争と比較すると明確です。独立戦争は植民地=正義、イギリス=悪、だから独立国アメリカを応援することは内政干渉ではなく外交関係だから正義です。
逆に南北戦争では北部=奴隷制反対=正義、南部=反乱州(独立を認めない)=奴隷制賛成=悪、南部を応援するイギリスは内政干渉で悪、になります。
アメリカ独立宣言でよく引用される部分 番号、下線は筆者。上記のプリントの①~③に該当する箇所。この続きにジョージ3世の悪政が列挙されていて、「だから政府を取り替えてよい」という主張です。
われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、①すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。②こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。そして、いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったときには、③人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が 最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の 権力を組織する権利を有するということ、である。
ワシントンが率いる植民地軍は民兵と志願兵からなり装備も貧弱、訓練も不足していました。東部の森林地帯では「ミニットマン」(一分で駆けつける)がゲリラ戦を展開しました。
ウィキペディアより
植民地側がサラトガの戦いで勝利すると形成が逆転、フランクリン(凧を上げて雷を調べた人。よい子は真似しないで)の外交工作でフランスやスペインがアメリカ側に立って参戦、エカチェリーナ2世はイギリスの貿易妨害に対抗してデンマークなど五か国と武装中立同盟を結成しました。
フランスにとってアメリカの支援はイギリスへの「意趣返し」なのですが、この戦争に大金を投入したことがフランス革命の引き金になります。
1777年 アメリカ連合規約…国名、アメリカ合衆国 州の自治認める
1787年 合衆国憲法の制定 憲法制定会議の開催(フィラデルフィア)
(20 )主義…各州の大幅な自治の承認,中央政府の権限を強化
(21 )分立…大統領、連邦議会(上院と下院)、連邦最高裁判所
1789年 連邦政府発足 大統領ワシントン フランス革命戦争には中立
連邦派[22 ]と反連邦派ジェファソンの対立
補足
1777年の連合規約では中央政府の権力集中をおそれて連合議会に課税権を持たせず、戦後に経済不況が起きると他国との通商問題に統一的に対処することができませんでした。他方各州議会はデフレの中で戦時公債の償還のために地租を引き上げたので、農民たちは困窮します。1786年にはマサチューセッツ州で大規模な農民反乱が発生します。
困った商人やプランターから統一中央政府の設立を望む声があがり、各州の利害が対立する中で合衆国憲法が制定されました。
合衆国憲法の厳格な三権分立は近代民主主義のモデルのように言われますがの、それは「中央政府は必要だけど州の自治のために行き過ぎを防ぐ」というアメリカの歴史的事情が反映しています。二院制のうち上院は任期が長く人口にかかわらず州から2名で条約批准の権限があるのも同じ理由です。
まとめ
教科書の記述ではどうしてもアメリカ独立革命は「自由獲得の歴史」という観点になりがちですが、次の二つの視点も持ちましょう。
① 環大西洋革命
イギリス産業革命、アメリカ独立革命、フランス革命、ラテンアメリカ諸国の独立は、貿易や文化(啓蒙思想)で結びつきを強めていたこれら地域で、七年戦争を契機として同時期に発生した、自由主義的な一連の革命とみなすことができます。
イギリスは七年戦争で広大な植民地を手に入れ、取引されていた綿織物の自国生産を契機として産業革命が発生します。一方でその戦費等を13植民地に負担させようとしたことがアメリカ独立革命につながります。
フランスは七年戦争に敗北して財政が逼迫、アメリカ独立革命の支援がそれに追い打ちをかけます。新たな課税を嫌った貴族の抵抗が自由な商業活動を求めるブルジョワジーや負担に耐えかねた農民を巻き込んでフランス革命に発展します。
そしてふたつの革命の理念がラテンアメリカに影響を与えます。まずハイチで黒人奴隷が蜂起し、ナポレオン戦争でスペインの支配が緩んだ隙にクリオーリョが自立をはじめます。
② クレオール革命
環大西洋革命の中心になるのは現地生まれの白人(フランスは新興ブルジョワジー)など、本国人や特権階級の前に権利が制限され不満を抱いている階層でした。革命は彼らの「下剋上」ととらえることができます。
しかし彼らは同時に黒人や先住民(農民や都市民衆)を抑圧する側です。
アメリカ独立宣言の草案には黒人奴隷解放について明記されていましたが、南部プランターの反対で削除され、先住民は戦争でイギリスを支持したため、植民地軍は北西部で先住民を「討伐」します。
独立宣言の「自由や平等」は独立戦争の正当性の根拠、いわゆる「ディスクール」(言説)です。ワシントンもジェファソンも家に帰れば多数の奴隷を所有しています。
冒頭にあげたピルグリム=ファーザーズやワシントンら「建国の父祖」(この言い方にはジェンダーバイアスも感じる)を称える「建国の神話」も、白人支配を正当化するディスクールなのかもしれません。
ガンプが「等身大のアメリカン」ともてはやされるほど、「アメリカの矛盾」を体現する彼の隣人(シン・アメリカン?)がみえづらくなります。
空欄
1 ピルグリム=ファーザーズ
2 ヴァージニア
3 フレンチ=インディアン
4 ミシシッピ川以東ルイジアナ
5 印紙
6 代表なくして課税なし
7 茶
8 ボストン茶会
9 フィラデルフィア
10 レキシントン
11 ワシントン
12 コモン=センス
13 トマス=ジェファソン
14 ロック
15 武装中立
16 ラ=ファイエット
17 コシューシコ
18 ヨークタウン
19 パリ
20 連邦
21 三権
22 ハミルトン