先日とある事情でぶんぶんは福岡県北九州市門司区にある九州鉄道記念館に行ってきました。大連にゆかりのある施設もあり、ちょうど「歴史総合」で南満州鉄道株式会社の話をしているところなので、そのうんちくも交えてレポートします。
公式
目次
1 場所
open street map
JR小倉駅から鹿児島本線門司港行に乗り門司港下車、徒歩数分です。
本館は1891(明治24)年に旧九州鉄道会社の本社として建てられたものです。
2 門司港
参考 門司港レトロ フラッシュ動画が多いので注意
門司港は1889(明治22)年に石炭などを扱う国の特別輸出港に指定され、中国大陸に近いこともあり日清・日露戦争、第一次世界大戦の青島出兵で軍需品や兵士たちを送り出す重要な港となりました。その後は欧州航路の寄港地にもなり、満州など大陸貿易の拠点としてにぎわいました。
対岸の下関市にある春帆楼。日清戦争の講和会議が開かれた旅館で、1945年に空襲で全焼し、現在の建物は1985年に建て替えられたもの。手前の黒い屋根が日清講和記念館。展望台より撮影。
寺田ちひろ💛版Eテレ『高校講座世界史』李鴻章の回は下関市でのロケで、上田信先生が「講和会議の横で門司港から次々と大陸に向かう船を見て李鴻章は何を思ったのか」と感慨深げでした。
上手に見える赤い建物は赤間神社で、壇ノ浦(ここ)の戦いで平家と運命をともにした安徳天皇を祀っています。
旧大連航路上屋。1929年に台湾、中国・大連等と門司港を結ぶ国際航路のターミナル施設として建築されました。パブリックドメインの画像。
現在の門司港駅は1914(大正3)年に門司駅新駅舎として建築されました。
三等待合室は改修されてスタバが出店していました。
展望台から。「国際ターミナルの玄関」と呼ぶにふさわしい構内です。
バナナのたたき売り発祥の地の碑。台湾からの貨物船が寄港した際、消費地まで持ちそうにないバナナを名調子で販売したそうです。
北九州市公式チャンネル
しかし日本が敗戦して大陸貿易が縮小、石炭の輸出も減り、港としては次第に衰退しました。そこで行政と民間の協力のもと、1995年に「門司港レトロ」として整備され、今では年間200万人以上の人が訪れる観光地となっています。
3 展示内容
(1)旧0哩(マイル)標
1891年に九州鉄道会社が門司駅に開業した際、九州鉄道路線(現鹿児島本線)の起点と定めた標識です。1914年に駅が現在の位置に移転しましたが、鉄道記念館の開館に合わせて再現されました。後ろでは旧門司駅の発掘調査が行われていました。
こちらは門司港駅の0哩
(2)車両展示場
九州を走った機関車や寝台車が展示されていました。全部紹介すると見に行った時の楽しみが減るので少しだけ。
9600型。初の国産貨物機関車
EF10型。関門トンネル開通時に配備されたトンネル専用直流電気機関車。
581系。昼間は特急、夜間は寝台特急「月光」として運用。シートを倒すとベッドに早変わり。他にも九州にゆかりのある車両が展示されています。
(3)本館の展示
明治の客車の再現、九州の鉄道パノラマ、鉄道関連資料が展示されていました。パノラマは熱心なお友だちが張り付いていて撮影できませんでした。(´;ω;`)ウッ…
九州鉄道会社初期の客車を資料を頼りに再現。
よく旅館に貼ってある一枚物の時刻表。路線の様子から明治31~33年ごろ。広告主が海運会社で、門司港が鉄道と航路のハブであったことがしのばれます。
定番のヘッドマーク。
(4)外の様子
運転台の切り出しがありました。
EF30電気機関車の運転台。直・交両流機能を持ち、関門トンネルでは海水が染み出るので錆防止のためステンレス製です。
子ども用のミニ電車。やはりゆふいんの森が一番人気? 先ほどジオラマに張り付いていたお友だちが乗ってました。
トイレのアルコール消毒液に「なは」(京阪神~西鹿児島で運行された寝台特急)のテールマークが!
3 北九州銀行レトロライン門司港レトロ観光列車「潮風号」
門司港駅から田浦港まで臨港線(貨物線)が伸びていて、石灰石やセメントなどを田浦港へ運んでいましたが、輸送量の減少に伴い2005年に休止になりました。その路線を利用して2009年から観光用のトロッコ列車が運行されています。
平日は運航していないと知ってがっかりしていたら、急に踏切が鳴り、幼稚園児を乗せた臨時便が入線。大きなお友だちが嗅ぎつけたようで、出庫の時にはぶんぶんの横で動画を撮影していました。
4 大連と南満州鉄道株式会社
啓隆社さん御提供の地図
①( ) ②( )
③( ) ④( )
⑤( ) ⑥( )
A( )鉄道 B( )鉄道
C東清鉄道( )支線 D 安奉鉄道
答え
④大連 ⑤旅順 ⑥青島
Aシベリア B東清 C南満州
*立命館大学の入試問題を参考にしています。
1895年、日清戦争の講和条約である下関条約で清は日本に遼東半島を割譲しましたが、ロシア・フランス・ドイツが介入(三国干渉)、日本は遼東半島を返還する代わりに清から賠償金3,000万両を得ました。
ロシアとフランスは清に対してこの賠償金への借款供与を申し出、1898年にはその担保としてロシアは遼東半島南端にある旅順・大連の25年間の租借権と、東清鉄道のハルビンから大連に至る支線(南満洲支線)の鉄道敷設権を得ました。
さらに1900年の義和団事件を契機に遼東半島全域を占領、大連では港の整備を開始する傍らパリをモデルにした都市計画を作成し、旅順には要塞を築きました。
1905年、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約で日本はこのロシアの利権を継承しました。いわゆる関東州(山海関の東の意味)です。また東清鉄道南満洲支線のうち日本の勢力範囲にあたる長春から旅順の敷設権を確保しました。
しかし日本は国力を使い尽くしていました。そこへ戦争の外債募集にも協力したアメリカの企業家ハリマンが来日、南満洲鉄道をアメリカ資本を導入して経営すべきだと主張しました。それなら資金調達に困らず、ロシアも牽制できるので一石二鳥です。
伊藤ら元老や桂太郎首相は乗り気で契約寸前まで行きましたが、講和会議から帰った小村寿太郎が猛反対、この話は破談になりました。
一説によると小村がモルガン商会と個人的に親しく良い条件を提示されていたそうです。実際に1927年にモルガン商会と田中義一内閣で話がまとまりそうになりますが、中国側の反対で頓挫しました。
歴史に「もし」はありませんが、立命館大学の出題者は「この話が実現していたら満州事変も日米開戦もひょっとしたら…」と書いています。
1906年に日本は租借地に関東都督府を置き関東州の行政に当たるとともに、同年大連に南満洲鉄道株式会社(満鉄)の本社を置きました。半官半民の満鉄は満洲での植民地統治の拠点でした(「満鉄調査部」はまさにその例)。
満鉄は長春・旅順口間の鉄道やその支線をはじめ、鉄道沿線の鉱山などの事業を経営しました。また鉄道を守るための軍隊も駐屯しました。「関東軍」です。大連もこの時に整備されました。
大連駅前 ナポレオン三世にパリ改造を命じられたセーヌ県知事オスマンが計画したパリの放射状の街並みを模倣しています。著作権切れでパブリックドメイン。
日本は1907年から4回にわたって日露協約を結び、満州の権益を取り決め内モンゴル(内蒙古)における互いの勢力範囲を設定しました。
しかし日本の満州の租借権はロシアのそれを継承したにすぎず、期限は25年のままでした。そこで1915年1月、大隈重信内閣(加藤高明外相)は袁世凱政権に対し「対華二十一カ条要求」を突きつけました。その第2号に旅順・大連の租借期限と南満洲鉄道の権益期限を99年に延長することが含まれていました。
1926年、広州国民政府を引き継いだ蔣介石が軍閥打倒を目指して軍事行動を開始しました。いわゆる「北伐」です。蒋介石は1927年に南京国民政府を樹立し、翌年山東半島に迫ると、田中義一内閣は居留民保護を名目に山東半島へ出兵、済南で国民革命軍と衝突しました(済南事件)。
当時北京を支配していたのは奉天軍閥の張作霖でした。張作霖は日露戦争でロシアのスパイでしたが捕らえられた後は日本のスパイになりました、彼は関東軍とは良好な関係を保っていましたが、張作霖が中国統一の野心を抱くようになると次第に関東軍と距離を置き始めました。
北伐軍が北京に迫り、1928年6月4日に張作霖が専用列車で奉天へ戻ろうとした時、奉天郊外のクロス地点(京奉線と満鉄線の立体交叉点)付近で爆発が起き、張作霖は死亡しました。
首謀者は関東軍の高級参謀河本大作大佐で、河本らは子で親日派の張学良を擁立しようと考え、北伐軍の仕業に見せかけて日本に従わない張作霖を殺害しました。これは帝国議会で「満州某重大事件」と問題になりました。
張作霖が乗った客車の残骸。著作権切れでパブリックドメインの画像。
1928年10月に石原莞爾中佐が関東軍参謀に着任しました。前年の1927年には金融恐慌が発生、石原は日本国内の安定かつこの後起こりうる日米の最終戦争のためには日本の満蒙領有が不可欠と考えます(満蒙生命線論)。
1929年に世界恐慌が発生、その影響が日本にも及ぶと満鉄の経営も傾きます。さらに中国側が満鉄と並行した路線を計画してその利益を奪い、満鉄をジリ貧に追い込む計画を練っていました。1931年9月18日、関東軍は奉天郊外の柳条湖で満鉄線路爆破事件を起こし、これを口実に満州を占領しました。満州事変の勃発です。
満州国時代に運行された「あじあ号」。著作権切れでパブリックドメイン。
1945年8月15日にポツダム宣言の受諾が公表され日本は無条件降伏し、大連はソ連軍に占領されました。当初はソ連兵による掠奪や女性への暴行が相次いだそうです。また中国が旅順を接種すると日本人は追い出され大連に押し寄せました。物資が不足する中、家財道具を売りながら引き上げを待ちました。
1946年11月から順次引き上げが始まりましたが、占領中の困難な生活で衰弱し日本の土を踏めなかった人もいたそうです。
オーラルヒストリー
北九州市と大連市は友好都市で、締結15周年を記念して大連友好記念館が建てられました。かつて大連にあった、ロシア帝国が1902年に建設した東清鉄道汽船会社事務所を複製しています。海側からの写真。
おわりに
ぶんぶんが門司港を訪れると修学旅行生や旅行客が多数いて、モダンな建物の前で写真を撮ったり、門司港のB級グルメである焼きカレーの店に行列を作っていました。
過去の遺物を観光などの資源にする行為については、歴史学ではその行為そのものに含まれる「政治性」を研究対象とするのですが、難しい話はいったん横に置き、とりあえずは思いっきり楽しんで自らの教養にしてもらえばと思います。
その後学校の授業で「あ、これこの間行ったところだ」と興味を持ち、自分で調べて、観光した時には気が付かなかった点について学んでほしいです。
教養が増えるとものの考え方や行動も変わってきます。ぶんぶんはそれを願って誰も見ないブログを毎週書いています。(´・ω・`)