ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

休校中自学自習プリント(重商主義の時代2フランス・プロイセン)

 休校中自学自習プリント、重商主義の時代第2回目はフランスの絶対王政プロイセンオーストリアの啓蒙専制君主です。

前回

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目次

 

1 フランス絶対王政

問い…「絶対王政」ってどの程度「絶対」?

① 王権の伸長

[1     ]:1589年 カトリックに改宗しブルボン朝創始

 1598年 ナントの王令ユグノーの市民的権利を認める

            ユグノー戦争終結

 対ハプスブルク戦争…「外交革命」まで対立継続

[2     ]:枢機卿[3     ]が補佐

 三部会停止 三十年戦争に新教側で参戦 フランス学士院

[4     ]:幼少期は宰相[5     ]が補佐

 1648年(6     )の乱

     高等法院(法律を登録する権限がある)の貴族が抵抗

② ルイ14世の時代

1661年 親政開始。「太陽王

内政

 王権神授説:説教師ボシュエの説

 財務総監[7     ]の重商主義政策

  東インド会社の再建や王立マニュファクチュアの創設

 (8      )宮殿(バロック)の造営→宮廷生活の儀式化

 貴族、都市、ギルドなど中間団体の特権を認めて協力させる

外征…自然国境説(ライン川アルプス山脈ピレネー山脈

 南ネーデルラント継承戦争(1667~68)

  ピレネー条約の約束違反を口実に出兵

  オランダなど周辺国の介入で失敗

 オランダ侵略戦争(1672~78)

  南ネーデルラント継承戦争の復讐。第三次英蘭戦争と同時

  オランダ総督ウィレム3世の抵抗

 ファルツ戦争(1688~97)

  ファルツ選帝侯領の継承問題…アウグスブルク同盟との戦争

  フランス、イギリスのウィリアム3世の王位を認める

 (9     )継承戦争(1701~13)

 契機

  ピレネー条約(1659年)スペイン=ハプスブルク家と姻戚関係

  ハプスブルク家の断絶→フェリペ5世ルイ14世孫)が王位に

  →オーストリアハプスブルク家・イギリス・オランダが反対

 結果

  (10      )条約(1713)

   フェリペ5世の即位 スペイン=ブルボン朝成立

   スペインとフランスの合併は禁止

   西→英:(11     )、ミノルカ島

   仏→英:アカディアニューファンドランドハドソン湾地方

  ラシュタット条約(1714)西→墺:ネーデルラント(現ベルギー)

繁栄に陰り

 (12     )の廃止(1685)→ユグノーの亡命 経済発展疎外

 ルイ15世:対外貿易は拡大 イギリスとの対外戦争で敗北

空欄

1 アンリ4世
2 ルイ13世
3 リシュリュー
4 ルイ14世
5 マザラン
6 フロンド
7 コルベール
8 ヴェルサイユ
9 スペイン
10 ユトレヒト
11 ジブラルタル
12 ナントの王令

補足

① 「朕は国家なり」って?

  二宮宏之さんの「フランス絶対王政の構造」は古典です。三部会の招集停止や法律の登録拒否権を持つ高等法院を屈服させて、国王は強い権限をふるうことができるようになりますが、貴族・教会・都市など「中間団体」の特権を認めた上でのことです。二宮さんはこれを「社団国家」と呼んでいます。 

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 ルイ14世は1661年にマザランが死去すると親政を開始し、午前中に政務、午後は狩猟や乗馬、夜は演劇や音楽会などを精力的にこなしました。

 またルイ14世は私生活をすべて儀礼化し公開しました。起床時や就寝時の王に親しく謁見できるのはごく限られた貴族たちです。つまり宮廷での序列や礼儀作法を厳格に定め、それに従う貴族に栄誉や年金を与えて「王との距離の近さ」を競わせます。

 そうすると貴族たちは常に宮殿にいる必要があります。こうしてルイ14世は有力な貴族を監視下に置き、地方の領地から切り離すことによって、彼らを統制することに成功しました。

 「朕は国家なり」は一般には「国王の利害が国家の利害と一致する」ことを指しますが、国王個人の魅力で国家が成り立っているともいえます。

 ルイ14世にとっては絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿も、夜ごとに開催される贅沢な宴会や遊興も、国家統合のための「演出」です。彼が世を去った後、贅沢は相変わらずですが政治的意図は継承されたのでしょうか…。

 私生活の儀礼化はこの映画でコミカルに描かれています。

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② 戦争に明け暮れるルイ14世

 華やかな生活の一方でルイ14世の治世は戦争の連続でした。特にオランダは侵略をうけます。

 オランダでは都市貴族(レヘント)が総督制か議会制かで対立し、そこに第一次英蘭戦争が勃発します。チャールズ2世も第二次英蘭戦争を起こし、同時にルイ14世が南ネーデルラント継承戦争を起こします。

 この混乱の中でウィレムが総督に就任します。ルイ14世はチャールズ2世と密約を結んでオランダ侵略戦争を起こしますが、ウィレムは堤防の堰を壊すなどして抵抗、チャールズ2世は議会から戦費の支出を拒否されて撤退します。

 ウィレムはフランスの侵略に備えてイギリスと関係改善を図り、メアリと結婚します。その後名誉革命でオランダとイギリスは同君連合になり、ファルツ戦争でアウクスブルク同盟に参加します。

ユトレヒト条約に出てくる地名はこちら。

世界の歴史まっぷ いつも助かります!

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sekainorekisi.com

 服部春彦さん(計量歴史学の手法を日本で広めた。『フランス近代貿易の生成と展開』)によると、18世紀のフランスはイギリスを上回る貿易量を誇っていました。

 それなら産業革命が起きても不思議ではないのですが、フランスでは身分制度ががっつり残っていて、商人が社会的に上昇するため儲けたお金を投資よりも土地を買ったり官職を買うことに使った、というのを柴田三千雄さんの授業で聴いた覚えがあります(『近代世界と民衆運動』)。


2 プロイセンオーストリア

問い…「啓蒙」で「専制」?…「後進」国の「近代」化

① プロイセンの台頭

(13       )家

 15世紀 ブランデンブルク選帝侯国を相続 

 17世紀 プロイセンドイツ騎士団領に由来)を獲得

 1701年 プロイセン王国に昇格…スペイン継承戦争に参加

[14           ]…第2代、兵隊王

 (15    )(領主貴族)を官僚や軍隊の士官に登用 軍備増強

[16          ](大王)

1740~48 (17       )継承戦争

背景

 ハプスブルク家は飛び地がヨーロッパ中に点在

 [18           ]が全ハプスブルク家領の継承

 フリードリヒ、異議を唱えて(19     )を占領

 バイエルン・フランスと連合…オーストリアはイギリスの支援

結果

 1748年 アーヘンの和約 マリア=テレジアの継承権承認

             シュレジエンはプロイセンが確保

1756~63 (20    )戦争

背景

 「(21    )革命」…オーストリアが仏と同盟 露も味方に

 プロイセンはイギリスの支援

結果

 フベルトゥスブルク条約(1763)…シュレジエンの領有が確認

 パリ条約(1763)…英・仏・西。英が海外植民地競争で勝利

(22      )主義「君主は国家第一の僕」

 フランス啓蒙思想の影響、君主主導の「上から」の改革

 内政…宗教の寛容、農民保護、産業の育成,司法の改革など

 宮廷文化…(23       )宮殿(ポツダム ロココ

      ヴォルテールと親交

 ユンカーの農民支配。(24       )(農場領主制)

② オーストリア復権

ハプスブルク家神聖ローマ皇帝世襲三十年戦争で有名無実化

オポルト1世

 1683年 第二次ウィーン包囲 オスマン帝国を追い払う

 1699年 カルロヴィッツ条約ハンガリートランシルバニア支配下

 →東方の領域を拡大

カール6世

 スペイン継承戦争で南ネーデルラント、ミラノ、サルデーニャなどを獲得

マリア=テレジア

 オーストリア君主 皇帝は夫のフランツ=シュテファン(フランツ1世)

 オーストリア継承戦争七年戦争を戦い抜く

 内政改革、軍制改革

[25       ]

 啓蒙専制君主…宗教的寛容策や農奴解放→失敗

  領内に(26    )人(ベーメン)、(27    )人(ハンガリー

空欄

13 ホーエンツォレルン
14 フリードリヒ=ヴィルヘルム1世
15 ユンカー
16 フリードリヒ2世
17 オーストリア
18 マリア=テレジア
19 シュレジエン
20 七年
21 外交
22 啓蒙専制
23 サン=スーシ
24 グーツヘルシャフト
25 ヨーゼフ2世
26 チェック
27 マジャール

補足

① 「田舎」国家プロイセンが最短で近代化するには?

 1740年のヨーロッパ。青紫色の西側がブランデンブルク(中心はベルリン)、東側がプロイセン(中心はケーニヒスベルク)です。リトアニア=ポーランドがでかい。オーストリアハンガリーなど東方に領域を広げています。オスマン帝国も縮小したとはいえバルカン半島黒海沿岸などを支配下に置いています。

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commons.wikimedia.org

シュレジエンの位置。ウィキメディアコモンズ パブリックドメインの画像

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 16世紀に西ヨーロッパで商工業が活発化し人口が増加すると穀物価格が上昇し、それを当て込んで東ヨーロッパでは農民たちを土地に縛り付けて(再版農奴制)輸出用の穀物を増産し、領主貴族は大きな利益を上げます。

 1648年のウェストファリア条約でドイツ(神聖ローマ)帝国内の約300の領邦の主権がほぼ認められます。しかし西側ではルイ14世侵略戦争を仕掛け、東側では16世紀ほどの勢いはないもののオスマン帝国が控えます。

 こうした中で、17世紀末の大選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムは身分制議会を閉鎖し、王権に服従する貴族を行政官や将校に取り立て、引き替えに領地での農奴支配を認めます。またナントの王令の廃止で亡命してきたユグノーを受け入れます(一橋大学の過去問)。

 スペイン継承戦争で皇帝を支援した選帝侯フリードリヒは褒美としてプロイセン国王の称号を得ます(東プロイセンは帝国の外なので王の称号はOK。ベーメン王と同じ理屈)。その子フリードリヒ=ヴィルヘルム1世は軍隊の増強に努めます。

 乱暴な言い方をすると、穀物輸出に頼る「田舎」が外圧の中で生き残るためには、

  1. 権威主義的な戦闘国家を建設する
  2. 在地の有力者の協力を得る
  3. 海外の進んだ文化の都合のいい部分を受け入れる

が手っ取り早いオプションです。明治政府と丸かぶりです。

 さて戦争命の父に対してその子フリードリヒは芸術を愛する宮廷人(フルート演奏が趣味)、当然対立します(「この軟弱もの!」)。

 フリードリヒはイギリス王女との縁談を機会に家出を図りますが失敗、手引きをした近衛兵のひとりが彼の目前で処刑されます。

 しかし国王がユンカーを手なずけるためには戦争だけでなく文化の力も不可欠です。そういう意味ではフリードリヒは「大王」と呼ぶにふさわしい人でしょう。

② 啓蒙なのに専制

 フリードリヒ2世はハプスブルク家との戦いに勝利し、ヨーロッパの強国という地位を不動のものにします。そして自らの権威付けのために啓蒙主義を利用します。「西ヨーロッパでは今はこういうのが流行っているの。それ知ってる僕は偉いんだよ」です。『おそ松くん』の「イヤミ」です。

*いつだったか県教委の人が会議で「これからはsociety 5.0だ!」としたり顔でビデオを流していましたが、それちょっと考えれば変だとわかりそうですが。「英語4技能」とか「このままではAIに仕事を奪われる」も同じ。(´・ω・`)

 フリードリヒ2世は宗教の寛容(一橋大学で出題。聖ヘートヴィヒ教会)など様々な改革を実行します。ただプロイセン農奴を利用して安価な穀物を輸出して外貨を稼ぐビジネスモデルなので、そこを自由化するわけにはいきません。

 フリードリヒ2世は自分の領地でこそ農奴の負担軽減をしますが、ユンカーの所領には手を付けることができませんでした。

*フリードリヒ2世はやせた土地でも生育するジャガイモの栽培を奨励します。食糧事情の改善に大きな役割を果たしたと言われますが、自らが作った穀物は輸出用で食べられないことを「飢餓輸出」と呼びます。

 フリードリヒ2世に憧れるオーストリアのヨーゼフ2世は真似をして農奴解放や宗教寛容令を出し、貴族から猛反発を受けます。

 「近代化を権威主義に利用する」の限界です。為政者は自分に不都合なことはしません。これは私たちにとって他人事ではありません。

③ 肝っ玉姉さんマリア=テレジア

 神聖ローマ皇帝オーストリア大公のカール6世は領土を拡大するものの飛び地が多いうえ男子の後継ぎがおらず、このままでは親戚筋が領土争いをしかねません。

 そこでカール6世はハプスブルク家の領土分割を禁じ、長子に全部継承させるという国事詔書を定め、マリア=テレジアを後継者に指名します。

 こうして1740年に弱冠23歳のマリア=テレジアがオーストリア君主の座につきます。しかしこれに対してプロイセンがシュレジエンを占領、バイエルンザクセン、フランス、スペインも攻め込んできます。大陸西側はオール敵状態です。

 苦境に陥ったマリア=テレジアはハンガリーの協力を得るために生まれたばかりの男子を連れてハンガリー議会に乗り込み援助を要請、必死の訴えにハンガリーが味方に付き、マリア=テレジアは領地の継承を各国に認めさせることに成功しました。

 この後彼女はプロイセンにならって常備軍を編成し、ロシア(エリザベータ女帝)と同盟を結び、さらにオーストリア継承戦争では味方であったイギリスが当てにならない(プロイセンがハノーヴァーに圧力をかけてきた)と見るや、長年の宿敵フランスと同盟を結びます(外交革命)。

 これに対してフリードリヒ2世が先制攻撃を仕掛けて七年戦争が発生します。オーストリアはベルリンを占領するなど勝利までもう一息でしたが、ロシアがフリードリヒ2世ファンのピョートル3世(エカチェリーナ2世の夫)の即位で撤兵、フランスも植民地でイギリスに敗北して戦争継続が難しくなり、やむなく講和しました。

 

まとめ

 一橋大学の有名な過去問に「絶対王政はどこまで絶対だったか」とありますが、絶対王政は確かに中世のように諸侯から行動を規制されませんが、彼らの特権を認めることで国家としてのまとまりを維持していました。

 市民革命ではこの特権を廃止することが焦点になります。そして中間団体が廃止されることで民衆は直接国家と向き合うことになります。

  

おわりに

 いつも楽しく拝見(試聴)させていただいているスガンヌさんのブログ

フリードリヒ2世の回

www.classic-suganne.com