世界史の論述典型問題ファイナル、宗教に関してです。
ここ何年か本命と言われながら出題されていない部分です。
前回
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
5000字を越えますがファイナルなのでご了承ください。
1 宗教の寛容
例題1 大阪大学 2014年
課題 17世紀前後のインドの宗教政策 130字程度
語句 アクバル 融和 ラージプート アウラングゼーブ
解答例
ムガル皇帝のアクバルはイスラームとヒンドゥーの融合をはかる信仰が盛んになったことを背景に、ジズヤを廃止してヒンドゥー教徒を融和し統治の基礎を固めようとした。一方アウラングゼーブは熱心なムスリムでジズヤを復活させたのでヒンドゥーのラージプートやシク教徒の反乱を招いた。133字
類題 大阪大学 2009年
課題 金の宗教事情 40字
解答例
金は特定の宗教を強制しなかった。民間では儒教、仏教、道教を融合した全真教が創始された。43字
ポイント
異なる文化が喧嘩せず融和する例はまとめておくこと(他には第5回十字軍のフリードリヒ2世、トレドとパレルモ、ガザン=ハン、ラス=カサス、キング牧師、ブラント、デクラーク)。
例題2 東大 2011年
課題 7世紀~13世紀のアラブ・イスラーム文化圏での異なる文化の接触や交流による軋轢、生活様式の多様化、受容、発展、伝播について 510字
語句 インド アッバース朝 イブン=シーナー アリストテレス 医学 代数学 トレド シチリア島
用語から芋づる 軋轢 受容 発展 伝播で整理
インド:ガズナ朝…寺院の破壊(軋轢)、デリースルタン朝…スーフィーの浸透、バクティとの類似性(受容)。租税の金納化。
アッバース朝…マワーリーのジズヤ廃止(受容)イラン人、トルコ人がイスラーム世界の中心に(発展)。
イブン=シーナー…サーマーン朝 ギリシアの医学(受容)→ヨーロッパへ(伝播)
アリストテレス…イブン=ルシュドが研究(受容)→スコラ哲学(伝播)
トレド シチリア島…アラビア語文献のラテン語への翻訳センター(受容 伝播)
解答例
7世紀にアラビア半島で成立したイスラームは次第に地中海世界に拡大した。8世紀のアッバース朝は首都バグダードでギリシア語文献をアラビア語に翻訳して文化を吸収した。また非アラブ人ムスリムへのジズヤを廃止してイラン人やトルコ人を登用したので、9世紀以降彼らが地方で政権を作りイスラーム世界が広がった。インドではガズナ朝が10世紀以降北インドへの侵入を繰り返し、最初ヒンドゥー寺院を破壊するなど衝突もあったが、13世紀に奴隷王朝が成立した頃にはスーフィーズムとバクティとの類似性からイスラームがインドで受け入れられ、現地の文化と融合した。インド数字や代数学もイスラーム世界で発展した。またイブン=シーナーの医学典範やイブン=ルシュドのアリストテレス研究などギリシアの学問も発展し、これらが十字軍や国土回復運動などイスラームとキリスト教徒と争う過程でヨーロッパに伝わり、イベリア半島のトレドやシチリア島のパレルモではアラビア語文献のラテン語への翻訳が行われ、中世の大学やスコラ哲学の成立など12世紀ルネサンスにつながった。8世紀には中国から製紙法が伝わり、サマルカンドやイベリア半島では製紙工場が作られて文化の発展に寄与した。506字
ポイント
イスラーム史を文化の衝突、受容、伝播という面からとらえ、さらに地理的広がりでとらえられるか、が問われている。「入試問題で世に問う」部分も含め、東京大学のエッセンスが凝縮された問題。地中海だけでも510字書けるが、最近の東京大学の傾向風に?インドと中国についても足してみた。
教科書の表面的な理解だけだと「キリスト教徒とムスリムはいつも喧嘩している」だが、中世の地中海では共存していた、その例がシチリア島で高山先生の専門分野。
2 政治の言語としての宗教
例題3 京都大学 2012年
課題 魏晋南北朝時代における仏教・道教の発展、両者が当時の中国の政治・社会・文化に与えた影響。300字
芋づるメモ
仏教
後漢に伝わったらしい。4世紀に仏図澄、5世紀に鳩摩羅什がクチャから来て仏教を華北に広める(文化)。北魏の道武帝が雲崗大仏のモデル。孝文帝の時に洛陽に龍門の石窟寺院ができる。仏教の呪術で王朝を権威づける鎮護国家(政治)。南朝では貴族の教養として仏教が受容されて寺院が建設された(社会)。
老荘思想、陰陽五行説、民間信仰が集まったもので民間でも信仰される(文化)。張陵の五斗米道の天師道が起源で北魏の寇謙之が教団を組織、太武帝の信任を得る。仏教弾圧(政治)。
解答例
仏教はクチャから来朝した4世紀の仏図澄、5世紀の鳩摩羅什らによって広まり、後者は仏典を漢訳した。また法顕はインドに赴き仏典を研究した。後世の浄土宗と禅宗の開祖もこの時期とされる。北魏は仏教の呪術性で王朝を権威づけようとし、雲崗や竜門の石窟寺院で皇帝の姿に似せた大仏を制作した。南朝では貴族の教養として仏教が信仰された。王朝の保護のもと仏教寺院が政治に干渉することもあった。道教は老荘思想に陰陽五行説や民間思想が集まって形成された。現世利益を重視し民間の社会生活と結びつき文化の基層となった。5世紀に寇謙之が教団を形成すると太武帝はこれを保護して仏教寺院を弾圧し、その後もたびたび廃仏が行われた。297字
ポイント
仏教と道教を政治・文化・社会で比較する、京都大学らしい「マトリックス」問題。「北魏の大仏は皇帝の似姿」というのは私が授業で使っている山川出版社の『ムービー世界史』にでてくる。南朝と仏教の関係は漢文の授業に出てくる。先生の話は聞くこと(笑)。
類題 京都大学 2013年
課題 ウンマの成立過程、正統カリフ時代にウンマに生じた主要な政治的事件とその結果 300字
解答例
メッカで迫害を受けたムハンマドらは622年にメディナへ脱出した。これをヒジュラという。ムハンマドはメディナでウンマを設立して宗教と政治の指導者となり、アラビア半島で勢力を広げた。632年にムハンマドが死ぬとウンマの政治的な指導者としてカリフが選挙で選出された。この時代にササン朝を滅ぼし、ビザンツ帝国からシリアとエジプトを奪った。しかしウンマの拡大とともにムスリム戦士の中で内紛が生じ、第4代カリフのアリーが暗殺された。これに乗じてシリア総督のムアーウィヤがウマイヤ朝を建ててカリフを世襲化すると、アリーの子孫のみをカリフと認めるシーア派が形成されて、ムハンマドの教えを守る多数派のスンナ派と対立した。297字
ポイント
ヒジュラからウマイヤ朝成立までを書けば解答になるが、カリフはムハンマドの「代理」なので宗教的権威はムハンマド(野球の永久欠番みたいなもの)、カリフはでウンマの運営を任されている、と理解する。
3 従属地域の抵抗、宗教と民族主義の結びつき
例題4 京都大学 2009年
課題 19世紀末から1947年までのインド亜大陸での民族運動におけるヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の関係や立場の違い、イギリスの(対立を煽る)政策。
時系列整理
1885年 インド国民会議 ヒ
1905年 ベンガル分割令 イ
1919年 ローラット法 イ
ガンディーの非暴力不服従運動 オスマン帝国のカリフ制を支持してムスリムとの連携を深めるも、挫折 ヒとム
塩の行進 英印円卓会議 ヒ
1947年 カシミール紛争 インドとパキスタン分離独立 住民交換
解答例
19世紀末に成立したインド国民会議派はヒンドゥーの親英団体であったが、イギリスがヒンドゥーとムスリムの分断を図るため1905年のベンガル分割令を発表すると、国民会議派は反英化した。これに対してムスリムは親英的な全インド=ムスリム連盟を結成した。1919年にイギリスがローラット法で民族運動を弾圧すると国民会議派のガンディーが非暴力・不服従運動を指導しムスリムに共闘を呼びかけたが失敗した。1930年代に民族運動が再燃するとイギリスは新インド統治法を制定して州政府の自治を認めたが、ヒンドゥー、ムスリム双方の州政府が生まれ、両者の対立は決定的になった。1947年にヒンドゥー主体のインドとムスリム主体のパキスタンに分離独立した。300字
ポイント
インドの民族闘争のうちヒンドゥー、ムスリム、イギリスが絡むところを書く。宗教は国民の統合に繋がるが少数派の抑圧も付随する、は国民国家の不可避な問題。
例題5 東京大学 2012年
課題 アジアアフリカにおける植民地独立の過程とその後の動向 540字
条件 20世紀~第一次世界大戦後~第二次世界大戦後 地域ごとの差 宗主国への経済的従属や同化政策、移民による社会問題
語句 カシミール紛争 非暴力・不服従 ディエンビエンフー スエズ運河国有化 アルジェリア戦争 ワフド党 ドイモイ 宗教的標章法
語句から芋づる
カシミール紛争…WW2後インド 植民地時代のヒンドゥームスリム分断政策の名残
非暴力・不服従…WW1後インド ヒンドゥーとムスリム一帯が目標も失敗
ディエンビエンフー WW2後ベトナム フランスが戦後に厚かましくも植民地支配を継続しようとする
スエズ運河国有化…WW2後エジプト、独立後もスエズ運河に部隊駐留 経済的従属からの離脱
アルジェリア戦争…WW2後アルジェリア、独立達成後にフランスに移民
ワフド党…WW1後、エジプトの独立 民族政党 イスラームと民族運動が結びつく(ムスリム同胞団)のを押さえ込む
ドイモイ…WW2後 ベトナム戦争→社会主義体制→難民など滅茶苦茶→開放経済
宗教的標章法…WW2後アルジェリア フランスへの移民。スカーフ論争
ヒント
経済的従属:エジプトとインド…イギリスへの従属
同化政策:イギリス…エリートの養成 フランス…フランス語押しつけ
指定語句があげているのは西からアルジェリア、エジプト、インド、ベトナムが2つずつ。
独立時期の違い…エジプトはWW1後 インドはWW2直後、アルジェリアはWW2後に武装闘争、ベトナムはWW2後~冷戦が終わってやっと軌道に乗る。
解答例
エジプトは第一次世界大戦後に穏健なワフド党が中心となりエジプト王国として独立したが、スエズ運河はイギリスが支配するなど経済的に従属した。第二次世界大戦後に共和政となり、ナセルが民族主義を強めてスエズ運河国有化を宣言した。インドではイギリス式の教育を受けた親英的な国民会議派が20世紀に反英に転じ、第一次世界大戦後にはガンディーが非暴力・不服従運動を唱えてヒンドゥーとムスリムの共闘を訴えた。しかしイギリスの分断政策で両者の対立は深まり、第二次世界大戦後にインドとパキスタンが分離独立、両者間で発生したカシミール紛争は現在も続いている。アルジェリアではFLNとフランス白人植民者との間でアルジェリア戦争が勃発、62年に独立が承認された。独立後フランス語が話せるムスリムがフランスへ移民するが、宗教的標章法のように政教分離を原理するフランス政府との間で軋轢が生じた。ベトナムは第二次世界大戦後に独立を宣言するがそれを認めないフランスとの戦争になり、ディエンビエンフーで勝利してジュネーヴ休戦協定を結んが、共産主義の拡大を恐れるアメリカが介入してベトナム戦争が勃発した。社会主義国家樹立後も難民が発生するなど混乱が続き、冷戦終結後ドイモイと呼ばれる開放政策で経済成長が進んだ。539字
ポイント
ヨーロッパで起きた事件がアジアの民族運動にどう影響したか(関連)と各地の特徴の比較。東京大学の定番パターンのひとつ。問題そのものは現代史の定番ばかりなので教科書を一通り終わらせている生徒には書きやすい。それぞれについて過程とその後をコンパクトに書く。
ワフド党やレザーハーンは、宗教と民族運動が結びつくのを恐れた列強が世俗政党を利用してそうした動きを押さえ込もうとした、と理解する。山川出版社の新版『世界現代史』参照。
類題 一橋大学 2011年
課題 フス戦争へと至った経過、結果、歴史的意義
条件 フス派が何に対して戦っていたか
解答例
14世紀に教会の世俗化が進み、教会大分裂などローマ教会とフランス王、諸侯の争いが続き、教皇権は失墜した。イギリスのウィクリフが教会の世俗化を批判し、聖書中心主義を唱えると、15世紀にベーメンのフスが共鳴して教会を批判した。これに対して皇帝ジギスムントは1414年にコンスタンツ公会議を招集し、教会大分裂を解消すると同時にフスを火刑に処した。ジギスムントがベーメンを相続するとフス派が反発してフス戦争が始まった。戦争は最終的に鎮圧されたがフス派の抵抗は激しく皇帝の権威は失墜した。フス戦争は教会の世俗化を批判し、聖書中心主義を訴えた点で16世紀の宗教改革の先駆といえる。またチェコ人としての民族意識が高まり、宗教改革後はプロテスタントが広まった。ベーメン地方はハプスブルク家の支配となるが、17世紀にベーメン王がカトリックを強制しそれに貴族が抵抗したことが三十年戦争の発端となり、ドイツの分裂は決定的となった。397字
ポイント
フス戦争の歴史的位置づけを示す。フス戦争がチェック人の民族意識形成と宗教改革につながり、教皇権と皇帝権の双方が失墜した、という流れ。
一橋大学はキリスト教と王朝の関係の問題が頻出。たぶん準備しているはず。
もうおなかいっぱいです(笑)。
受験生の皆さん、2月25日には全力を尽くして、知らない問題が出ても知識をフル活用して最後まであがいてください。