ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

国立二次・私大世界史直前チェック(東アジア近現代史320世紀)

 世界史の頻出範囲である東アジア近現代史、第3回は国民党と共産党の連携と内戦を軸に(日本の話は少なめ)、1910年代から40年代までを概観します。

 さて第二次国共合作薩長同盟なんでしょうか?(´・ω・`)

過去回

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9 第一次世界大戦と東アジア …大戦景気、輸入代替品の生産で民族資本が成長

① 背景

民族資本の成長→上海で大規模な(1    )工場の建設

→都市労働者の増加、教育の普及→青年知識人の増加

ロシア革命→社会運動・民族運動活発化

 

② 文学革命新文化運動

(2    )大学中心 知識人主導の啓蒙運動 儒教的な家族道徳を批判

 [3      ]…『(4     )』の刊行

        「科学と民主」を旗印→儒教道徳を批判

 [5      ]…『文学改良芻議』(1917)

         (6     )(口語)文学を提唱

 [7      ]…『狂人日記』『(8      )』

 [9      ]…北京大学マルクス主義研究

 

③ 日本の大陸進出

第一次世界大戦に連合国側で参戦

ドイツに宣戦→(10    )・ドイツ領南洋諸島の占領

1915.1 (11   )カ条の要求(1号~5号)…大隈重信内閣

  山東のドイツ権益の継承(1号)遼東半島南部の租借期間延長(2号)

  日本の軍事財政顧問を置く、警察の合同(5号)

  →袁世凱政権,5号要求以外を承認

④ 中国の民族運動反帝国主義反日民族意識を形成

1917年 段祺瑞内閣がドイツに宣戦

    孫文広東軍政府を建設

1919年 パリ講和会議に「戦勝国」として出席

    二十一か条要求の取り消しや山東のドイツ利権の返還を提訴

    →列国の拒否→(12   )運動…北京大学生中心の抗議デモ

    →各地に波及→政府,ヴェルサイユ条約の調印を拒否

1921~22 ワシントン会議…米、ハーディング大統領主催

    (13    )条約(1922)

    中国の主権尊重・領土保全・門戸開放・機会均等を確認

    →日本、山東のドイツ権益の返還 石井=ランシング協定解消

補足

  • 中国同盟会:秘密結社による武装蜂起
  • 新文化運動:知識人を中心とした反儒教的道徳啓蒙運動
  • 五・四運動:学生のデモを発端に商人や労働者も巻き込んだ大衆運動

というように、運動の性格や主体が変化します。 

五・四運動の様子。ウィキメディアコモンズパブリックドメインの画像(50年以上前の雑誌。中華人民共和国中華民国では著作権消失)原典 「图说五四:五四抗议活动 (3/17)」

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空欄

1 紡績
2 北京
3 陳独秀
4 新青年
5 胡適
6 白話
7 魯迅
8 阿Q正伝
9 李大釗
10 青島
11 二十一
12 五・四
13 九カ国


10 国民党と共産党

1919年 五・四運動…孫文、(14   )党を大衆政党に改組

    (15    )宣言…旧ロシアの帝国主義的特権を放棄

1921年 中国共産党 (16   )で結成

    コミンテルンの支援 初代委員長[17    ]

1924年 第1次(18     )

    共産党員が個人の資格で国民党に入党することを認める

    孫文,「(19   )・容共・扶助工農」の方針

1925年 孫文の死去

    (20    )運動…上海で日本人経営の紡績工場の労働争議

    (21    )で国民政府の樹立(1925.7)

1926年 第1次(22    )開始 [23     ]指導 国民革命軍

    南京・上海占領(1927.3)

    →国民党内部の左派(武漢政府 汪兆銘ら)と右派の対立

1927年 (24    )クーデタ…共産党弾圧

    (25    )国民政府の樹立→蒋介石主席 武漢政府も合流

1928年 第2次北伐→日本、(26    )に出兵(田中義一内閣)

    北伐を妨害、国民革命軍と衝突((27    )事件)

    奉天派の[28      ]、北京から脱出

    →帰路,日本の(29    )が爆殺(奉天事件)

    [30     ],国民政府に投降→国民政府,全国を統一

国民党…蒋介石,(31    )財閥と提携

共産党…農村工作に転換、井崗山が根拠地(毛沢東指導の紅軍が建設)

1931年 (32        )共和国臨時政府

    首都:(33    ),主席:[34      ] 

補足

 孫文ロシア革命に影響されます。中国にとって喫緊の課題はソ連と同じく資本主義列強の干渉、コミンテルンの指導で共産党との連携を図ります。

 しかし民族資本家は面白くありません。孫文亡き後国民党を率いた蒋介石は上海で共産党を弾圧、同年に浙江財閥の宋家の三女宋美齢(次女は孫文の妻宋慶齢)と結婚します(ウェディングドレスで結婚式をあげています)。

 この結婚で蒋介石孫文の義理の弟という地位とスポンサーを手に入れます(蒋介石の出自も浙江財閥の4家のひとつ)。 

 一方共産党は貧農に土地を分配することで勢力を拡大します。都市労働者に依拠する従来型共産主義から転換する中で、毛沢東が台頭します。

 北伐関係図。「世界の歴史まっぷ」をお借りしました。後述の延安・西安重慶の位置も確認。

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空欄

14 国民
15 カラハン
16 上海
17 陳独秀
18 国共合作
19 連ソ
20 五・三〇
21 広州
22 北伐
23 蒋介石
24 上海
25 南京
26 山東
27 済南
28 張作霖
29 関東軍
30 張学良
31 浙江
32 中華ソヴィエト
33 瑞金
34 毛沢東
 

11 日本の大陸侵攻と抗日運動 

① 満州事変…若槻内閣の不拡大方針を軍部は無視

契機 1931.9 (35      )事件

    関東軍奉天瀋陽)郊外で南満州鉄道を爆破

    →東北地方の大半を支配下

経過 1932.1  (36     )事変…列強の目を満州からそらさせる

     2 国民政府が国際連盟に提訴→英の[37     ]調査団

     3  満州国…執政[38     ](1934年から皇帝)

     5  五・一五事件

   1933 日本,国際連盟脱退(松岡洋右

       国境付近の熱河を占領し満州国編入

   1935 (39      )防共自治政府

   1936 二・二六事件

 

② 国共の対立と接近…国民党は「安外攘外」で共産党を攻撃

国民政府 関税自主権回復(1928~30)

    (40    )改革(1935)英米の援助でポンド建銀行券発行 

    →軍閥弱体化、国内統一進む

共産党 1934年 (41    ) 江西省瑞金から陝西省(42   )へ移動

    1935年 遵義会議…[43    ]の指導権確立

        (44     )宣言 抗日民族統一戦線結成の呼びかけ

    1936年 (45     )事件…[46    ]が蒋介石を監禁

 

③ 日中戦争…日本は農村が支配できず長期戦で国力消耗

契機 1937.7 (47      )事件 北京郊外で戦闘 日中戦争開始

経過 日本、南京(南京事件)・広州・武漢占領。重慶空爆

   →都市と交通路のみ確保→農村地帯は支配できず

   国民政府、(48     )に移動

   →ソ連、次いで米英が借款や武器援助(援蒋ルート)

   1937.9 第2次(49      )  

       紅軍は八路軍華北)、新四軍(華中)に改称

   1938 大東亜新秩序(近衛内閣)

   1940 [50     ]の南京政府親日政権)

   1941 太平洋戦争→米英、国民党、共産党を支援

  補足

 南京国民政府は北伐後に列強と交渉して関税自主権を回復し、1934年からファシズムに倣い「新生活運動」と称して国民生活を規律化、組織化、軍事化する総動員体制を打ち出します。

 中国では銀本位制で各地の銀行が独自に紙幣を発行していましたが、世界恐慌で米が銀の備蓄を行ったため銀価格は上昇、銀が海外に流出します。そこで国民政府は銀の使用を禁じてイギリスポンドにリンクする管理通貨制度を導入し、政府系4銀行(浙江財閥の蒋一族が経営)の紙幣を法定通貨法幣)とします。

 しかし市場は混乱します。それで国民政府はアメリカに銀を輸出する代わりにアメリカドルを法幣の準備外貨としてドル固定相場制にします(ただし戦後に国共内戦が始まるとジャブジャブ印刷してハイパーインフレに)。

 

 一方日本は日清・日露戦争の勝利で、国内では産業革命が本格化し、台湾と朝鮮半島を植民地化し、外交では不平等条約を解消します。第一次世界大戦では軍需景気に沸き、大戦後に国際連盟常任理事国の一角を占めます。

 しかし露骨な日本の行動に同じく中国進出をうかがうアメリカ合衆国(工業力世界一なので機会均等が有利)が警戒、第一次世界大戦後の軍縮・国際協調を大義名分に日本の大陸進出を阻みます。

 日本もイギリスがシティで戦債を販売してくれたから日露戦争に勝てたようなもので、米英には頭があがらず海軍軍縮に応じ、1928年には不戦条約に調印します(だから満州事変は自衛のための軍事行動=事変、という理屈)。

 しかし1927年の金融恐慌に1929年の世界恐慌が追い討ちをかけ、日本経済は行き詰まります。大正デモクラシーで生まれた政党内閣も信用を失います。

 代わって軍部の発言権が増し、経済危機の克服を大陸での支配権拡大に求めようとします。「夢をもう一度」です。(`・ω・´)キリッ

 

 日本の大陸侵攻に対して蒋介石は「安内攘外」(対外的な問題は国内問題を解決してから)という姿勢で、繰り返し共産党を攻撃します。

 これに対して中国共産党中央の名で出された「抗日救国のため全国同胞に告げる書」(八・一宣言)は、コミンテルン第7回大会の「反ファシズム統一戦線」に沿って民主勢力に一致抗日を呼びかけます。

 1936年、蒋介石が張学良らに対して延安の紅軍討伐を督励するために西安を訪れると、張学良たちは蒋介石を監禁し、内戦停止と一致抗日など8項目を要求します。

 蒋介石周恩来(黄埔軍官学校の部下)や宋美齢に説得され、8項目に合意し釈放されました。その後の国民党と共産党との話し合いは難航しますが、日中戦争が始まると両党は国共合作に合意します。

 しかし再び内戦になるのは目に見えていました。共産党はゲリラ戦を通じて農村に入り込み、小作料の値下げや農村の自治組織設立といった社会改良で支配地域を広げます。同時に毛沢東への個人崇拝も芽生えます。

 また抗日戦争の中で民族意識が芽生え、民主主義勢力が結集しはじめます。それが中国人民政治協商会議につながります。しかし毛沢東に負けてしまいます。(´・ω・`)

 一方国民政府は戦時経済体制を整備し、資源委員会を設置して資源採掘や重化学工業化を進めます。タングステン(砲弾や戦車の装甲)やアンチモン(合金の材料)をドイツやソ連に輸出し、見返りに機械設備を輸入しました(立命館大学の過去問)。

 そうなれば資源のある中国の方が重要、米英は戦後を見越して国民党と共産党を支援します。日本は主要都市を制圧するも農村を支配下に置くことができず、持久戦(毛沢東『持久戦論』)とゲリラ戦(→戦闘員と非戦闘員の見分けがつかない→手あたり次第殺戮する→ますます支持を失う→ゲリラ戦)で消耗します。ツカレタ… _| ̄| ○  

空欄

35 柳条湖
36 上海
37 リットン
38 溥儀
39 冀東
40 幣制(通貨)
41 長征
42 延安 
43 毛沢東
44 八・一
45 西安
46 張学良
47 盧溝橋
48 国共合作
49 重慶
50 汪兆銘

 

まとめ 

 中国の近現代史を概観すると、共和制や議院内閣制が行われた期間はほんのわずかで、ほとんどの時代は「訓政」、国民自身が政治権力を行使する「憲政」は時期尚早、当面は党が国民を訓練する、よって党が政治権力を独占する、です。

 「憲政」の時代はいつ来るのでしょう? 教育が普及し、ネットが発達し、経済成長が進んでも? そもそも「議会制民主主義」が西洋中心主義的価値観?

 中国近現代史を「近代化」だけでなく「訓政」という観点から捉えるのもひとつの方法です。

 

 一旦終了。読んでいただきありがとうございました。