はじめに
2025年度(新課程初年度)の入試問題を解答していると、世界史では沖縄、日本史では北海道(蝦夷地)に関する出題がありました。
関西大学 2025年 2月6日(抜粋)
アメリカ合衆国が1965年に( 2 )に対する空爆を開始してから戦争は泥沼化していった。その発進基地は最初太平洋上のグァム島にあったが、アメリカ合衆国の施政権下にあった( 8 )のアメリカ空軍基地もしばしば使用された。( 9 )内閣は自衛隊こそ派遣しなかったが、アメリカ合衆国のベトナム戦争を支持し続けた。
( 9 )首相は1969年に( 10 )大統領と会談し、非核三原則の尊重や( 8 )の返還を盛り込んだ共同声明を発表した。その後( 8 )は( 11 )年に日本に返還された。
さて「学習指導要領」によると歴史総合の目標は(抜粋)、
(1)近現代の歴史の変化に関わる諸事象について,世界とその中の日本を広く相互的な視野から捉え,現代的な諸課題の形成に関わる近現代の歴史を理解するとともに,諸資料から歴史に関する様々な情報を適切かつ効果的に調べまとめる技能を身に付けるようにする。
(3)近現代の歴史の変化に関わる諸事象について,よりよい社会の実現を視野に課題を主体的に追究,解決しようとする態度を養うとともに,多面的・多角的な考察や深い理解を通して涵養される日本国民としての自覚,我が国の歴史に対する愛情,他国や他国の文化を尊重することの大切さについての自覚などを深める。
しかし「世界とその中の日本」といいつつ「日本国民としての自覚」や「我が国の歴史に対する愛情」を強調しすぎると、「日本はアジアの中では唯一ヨーロッパに学んで近代化に成功した(そして今もアジアで唯一の先進国)」という「西洋・東洋・日本の三分法」に先祖返りする危険を孕みます。
そこで多くの教科書は北海道や沖縄のトピックを立てて、「日本」を相対化する工夫をしています。前述の入試問題の傾向もその流れと解釈できます。
今回から世界史選択者には不足しがちな沖縄の情報について何回かに分けて復習します。第1回はおおむね18世紀までです。
沖縄で出版されている『新訂ジュニア版琉球・沖縄史』をベースに実教出版、山川出版社の『世界史探究』『日本史探究』の教科書、山川出版社『詳説日本史研究』を参考にしています。
2025年は歌舞伎界の裏側を描いた『国宝』がヒットしましたが、沖縄の痛みとコザ暴動を描いた『宝島』も胸に突き刺さる映画でした。
目次
1 先史時代
白保竿根田原洞遺跡 石垣島。27000年前の人骨 南方系由来のDNA
白保人の復顔。古代DNA展でぶんぶん撮影

2 貝塚時代
9000年前 九州から縄文人が渡来、南方や中国大陸から渡ってきた人と交雑
漁労中心の生活。九州の縄文文化の影響を受けつつ独自の文化を形成
「貝の道」:北部九州との交易網の形成
貝塚時代にはサンゴ礁が形成され、イノーと呼ばれる浅瀬には亜熱帯特有の魚介類や海藻が繁殖し、人々の生活を支えました。美ら海水族館でぶんぶん撮影

イモガイ。北部九州弥生人は貝殻(権威を高める装飾用。中国の玉器の代わり)を入手するため薩摩半島に貿易の拠点を設けていました。沖縄本島で集められ、奄美諸島を経由して北部九州に至るという「貝の道」が形成されました。九州との交流の中で現在の沖縄人(DNAレベルでの)が形成されます。古代DNA展でぶんぶん撮影

3 グスク時代
11世紀末~15世紀 農耕や製陶技術の定着 九州や中国との交易網が広がる
各地に按司とよばれるリーダーが現れ、グスク(城)を築いて抗争
三山時代:山北(北山)、中山、山南(南山)の三つの勢力圏が形成される
三山。現在の国頭(くにがみ)、中頭(なかがみ)、島尻の三地区とほぼ重なる イラストACのフリー画像に加筆。

グスクは単なる防御用の城塞ではなく、聖域が城塞に発展したもの、防御された高地性集落、またその両方(時代によって用途が変わる)と考えられています。

4 三山の統一
14世紀後半 朝鮮や中国沿岸で(1 )が活動
1368年 明の建国 倭寇対策で私貿易を禁止
(2 )・(3 )体制
中華皇帝が朝貢国の権力者に称号を与え、指定した開港場で貿易を認める
中山が朝貢して「中山王」として冊封されると山北、山南も朝貢し冊封を受ける
進貢使(朝貢使節)…福州に入港し使節団は北京へ、居残り組は福州で貿易
慶賀使(皇帝の即位を祝う)、謝恩使(国王の冊封に感謝する)
明からは王の代替わりの時に冊封使が来航
15世紀前半 中山尚氏による琉球王国形成
[4 ]:北山、南山を併合(第一尚氏王統)
(5 )城の拡充、中国、日本、東南アジアとの交易拡大
守礼門。冊封使を迎えるためにつくっれましたが、18世紀に那覇港で世子(国王の世継ぎ)が直々に迎えるようになりました。ぶんぶん撮影。

首里城正殿。手前は御庭(ウナー)で、ここで新国王が冊封使から正式に冊封の証書と、王権のシンボルである皮弁冠と川弁服、大統暦が与えられて、中華文化圏の一員と認められました。パブリックドメインQより。

休憩
三線の演奏
紅型
5 琉球の大交易時代
① 中国への進貢…おおむね2年に1度
琉球の献上品
(6 )、(7 )(火薬の原料)、貝類、芭蕉布
日本の工芸品(日本刀、漆器、扇) 東南アジアの物産(香辛料)
② 中継貿易
明の(8 )政策で貿易できる国が限られているので、琉球が日本や東南アジアに中国の物品を輸出し、それら地域からの輸入品を中国に献上する
中国→日本:(9 )・絹織物、皮革、香料、薬種
日本→中国:日本刀、漆、扇、漆器、屏風、(10 )…銀と並ぶ鉱物
琉球→朝鮮:南方の蘇木や胡椒
琉球→シャム:硫黄、中国の絹織物や陶磁器、日本の刀剣、扇
ジャワの(11 )王国やマラッカ海峡の(12 )王国とも交易
「万国津梁の鐘」…15世紀に鋳造。大交易時代の様子を記す
那覇港には東南アジア各地から貿易船が訪れる。『首里那覇港図屏風』
③ 進貢貿易の衰退
16世紀:江南で後期倭寇の活動が活発化
明が海禁を緩める 中国商人、日本商人の東南アジア進出
ポルトガル、スペインの進出…前者は日本、後者は新大陸の(13 )を持ち込む
中国船が(14 )のルソン島に来航して生糸、絹織物、陶磁器と銀を交換
日本船も中国商品を求めてルソン島へ(出合貿易)
硫黄
蘇木(スオウ)。赤の染色や漢方薬として用いられます。インドネシア、ブトン島北部のエレケ市場で販売されているサパンウッド の枝。著者 デビッド・E・ミードCC0

「万国津梁の鐘」は15世紀半ばに琉球国王が筑前に発注しました。銘を読むと琉球が韓半島や南海とつながり日中の「ハブ」として繁栄していることを誇っています。
琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明を以て輔車となし、日本を以て唇歯となして、この二つの中間に在りて湧出せる蓬莱の島なり。
舟と楫をもって万国の津梁となり、異国の産物や至宝は十方世界に満ち、地の霊と人物とは、遠く和(日本)や夏(中国)の仁風をあおぐ。
現物と全訳文はこちらから
*探究的つぶやき:琉球が中継貿易で繁栄したのはなぜ?
明は元末の銀の流出や倭寇など私貿易の活動を海禁で防ごうとしました。そこで明は琉球に目をつけ、私貿易の「受け皿」(合法の琉球との取引に従事させて暴走を防ぐ)として利用しようとします。
また明はモンゴル高原に退いたもののいまだ勢力を誇る遊牧民勢力と対峙するためには馬や火薬の原料である硫黄が必要でした。
明は三山の王全員を冊封し、統一後の中山王は郡王ランク(皇帝の孫)に位置付けるなど厚遇します。進貢船も明が用意しました。15世紀の前半には年に複数回進貢船が派遣されることもありました。
しかし朝貢貿易は明の財政を圧迫し、また16世紀に海禁が緩和されると海域では競合が激しくなります。明の優遇策がなくなった琉球は衰退し、中国への渡航を除いて1570年を最後に東南アジアへの商船の派遣は終わりました。
6 近世琉球
① 薩摩の支配
16世紀末 [15 ]が九州を支配下に置く 琉球にも従うよう強要
薩摩の(16 )氏…豊臣秀吉の(17 )出兵に際して琉球に軍役を要求
文禄・慶長の役(壬辰・丁酉の倭乱)…日本と明の関係悪化
17世紀初頭 [18 ]が江戸幕府を開く
琉球を幕府に従わせ明との交易再開に利用しようとするが琉球が拒否
島津家久、幕府に琉球の非礼を口実に奄美諸島への出兵を願い許される
首里城占拠 国王尚寧を薩摩に連行する
島津氏、幕府から琉球の支配権を認められる
→奄美諸島は島津氏の領土、沖縄本島以南は琉球(首里王府)の領土
薩摩への国質(琉球の王子などを人質に)、年頭使を義務づける
琉球:幕府へ(19 )(将軍の代替わり)、(20 )(国王の即位時)
京都や大坂に中国産生糸を持ち込み、銀を借りて首里王府に進貢資金を貸す
琉球の明への進貢は継続
琉球→明:昆布…(21 )地から北前船で大坂へ。あわび、フカヒレ
明→琉球:生糸、反物、薬種
② 近世琉球王国の確立
首里王府の財政…農村からの年貢以外に砂糖やウコンの専売
17世紀半ば:羽地朝秀の政治改革…政治制度、身分制度、徴税制度の整備
18世紀前半:蔡温の改革…農村の復興、財政の立て直し
ソテツの栽培…凶作時の救荒植物
尚寧は薩摩から江戸に連行され徳川秀忠に謁見、その後琉球に戻されました。尚寧は島津氏の命令で日明貿易の復活を明に働きかけますが見透かされて失敗、日明の国交回復はなりませんでした。その後幕府は1630年代に中国船の来航を長崎に限定して中国貿易を独占したので、琉球に日明貿易の仲介を頼む必要はなくなり、その後の清は朝貢国以外の国交抜きの貿易(互市)を認めたので国交を開く必要もなくなりました。
尚寧の御後絵。ラオウや大豪院邪鬼のようなサイズ感。向元瑚画、1796年。パブリックドメイン。

*探究的つぶやき:亜熱帯の沖縄で昆布が郷土料理?
ぶんぶんが修学旅行の引率をしたときに、昆布料理が出されました。

17世紀後半に川村瑞賢によって西廻り、東回り航路が開発されると蝦夷地の海産物が江戸や大坂に運ばれるようになりました。
18世紀末になると北前船によって大阪に運ばれた蝦夷地の昆布が琉球の進貢貿易の商物に加わりました。中国からはこれらと引き換えに生糸、反物、薬種がもたらされ、琉球の貿易を独占していた薩摩は大きな利益をあげました。
19世紀には昆布は輸出品の7割以上を占めるようになり、19世紀の半ばには那覇に「昆布座」が設置されました。進貢貿易が終わるまで昆布は重要な輸出品でした。
清朝では18世紀に人口増加で内陸部への移住が進みますが、甲状腺障害で苦しむ人が多く、その予防や治療のためにヨードを含んだ昆布の需要が高まったと考えられます。
また富山はこの蝦夷地から琉球を経て清に至る「昆布ロード」の中継地で、清から漢方薬の原料がもたらされ、「富山の薬売り」を支えました。
ウコン(ターメリック)はインド原産で、沖縄には16世紀に中国から伝わったとされます。琉球王国はウコンを王朝専売品とし、薬や着物の染料、食品の色づけなどに使用されました。17世紀以後薩摩藩により生薬や染料としてヤマトに伝えられました。
沖縄ではウコンは「ウッチン」と呼ばれ、「ウッチン茶」が有名です。修学旅行の朝食に大根のウッチン漬けがありました。
参考 オリオンビール
*探究的つぶやき 日中両属?
東アジアの朝貢・冊封体制は、中華皇帝の徳を慕って周辺国の有力者が来朝して臣従を誓い、皇帝は有力者に官位を授けて臣下としその支配領域での地位を保証します。有力者は地元に戻って今度は自らの周辺地域の有力者に同じことをします。琉球も周辺の島々に朝貢を求めています。
周辺国は家臣となる代わりに返礼品や中国の政治文化を受け取り、中華は出費はかさむものの多くの国々を家臣とすることで皇帝の権威を高めました。
江戸幕府は中華の冊封は受けていないものの方法は同じで、朝鮮通信使やオランダのカピタン江戸参府のド派手な行列で「公方様」の権威を高めようとしました。
琉球も将軍の代替わりにはこれを祝う慶賀使を、国王の即位には感謝のために謝恩使を送りました。これを「江戸立」」(琉球使節)と称し、1850年まで計18回派遣されました。その際一行は「琉球風・中国風」が強調され、島津氏が引率しました。

幕府にとっては異国の「琉球」を従えることが徳川家の権威を高め、薩摩藩は江戸立を引率することで幕藩体制の中での島津氏の地位を高めるとともに琉球経由の中国物産で莫大な利益をあげました。
琉球にとっては「異国」の演出をさせられることで、実態は薩摩の支配に服しているものの「独立の王国」としての体面を保つことができました。
琉球王国は進貢貿易は赤字、薩摩からの借金も増えますが、それでも進貢や江戸への使節を続けたのはこれら儀式が「琉球が独立国である」という拠り所だったからと考えられます。
kのように琉球の「日中両属」は幕府、島津氏、琉球にとってメリットがあるので幕府も島津氏も琉球と明清との関係には干渉しませんでした。
ただ琉球は明や清には薩摩に服していることは隠して朝貢していたので、冊封使が琉球にやってくると薩摩のものを隠したり薩摩の船を別の港に誘導したり、疑われたら「日本の支配下にある宝島(トカラ列島のこと)と取引しているから」と隠蔽工作をしていました。涙ぐましい(´・ω・`)
明や清は察していましたが、琉球が定期的に朝貢することが王朝の権威付けになるので問題にしませんでした。また東アジアでは複数の国に朝貢して主従関係を結ぶ例は他にもあります(カンボジアはベトナムとシャムに朝貢していた)。
しかしこうした重層的な主従関係で成り立っていた東アジアにヨーロッパが「対等な主権国家間の条約」という概念を持ち込みます。(以下次号)。
おわりに
「歴史総合」では「グローバル化」は20世紀後半に限定されていますが、沖縄(琉球)の歴史を紐解くと、15世紀から16世紀にかけてのインド洋から東シナ海にかけての広範囲な移動と交流を実感します。
沖縄に修学旅行の際には、沖縄戦、基地問題と合わせて琉球のグローバルワイドな文化も体感してください。
空欄
1倭寇 2朝貢 3冊封 4尚巴志 5首里 6馬 7硫黄 8海禁 9生糸 10銅
11マジャパヒト 12マラッカ 13銀 14フィリピン 15豊臣秀吉 16島津
