はじめに
今年の国立大学の入試問題を解答し、次年度の受験生のヒントにしたいと考えます。
今回は大阪大学です。西洋史や東洋史という枠を超えた「グローバルヒストリー」を提唱した草分けで、移動や交流に関する出題と文化に関する出題が特徴です。
また中の人が歴史総合や共通テストにコミットしているようで、今年の問題は旧課程でありながら「歴史総合」の用語がフライング出題されていました(後述)。
解答例は正解ではありません。著作権はぶんぶんにあります。
*解答例作成の方針
- 受験生と同じく何も見ないで解答する。ただし途中でお茶を飲んだりトイレに行ったりはする(ルール違反)
- 解答を作ったら、受験生がアクセスできる教科書(実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、参考書(詳説世界史研究)でウラを取る(イカサマ)。特に大阪大学の世界史は帝国書院の教科書と資料集が公式テキストなのでチェックする
- 仕上げに河合塾、駿台、東進、代ゼミの解答速報と比較する
- 解説は関連する一般書を利用する
問題は東進過去問データベースより(要会員登録)
一問一答の難易度
◎:即答 ○:たぶん正解できる
△:やや難しいが正解できれば合格に近づく
▲:かなり難しい ×:ドボン(満点防止問題)
一問一答の出題パターン
ま:判別が紛らわしいもの や:書くのがややこしいもの
こ:事項の細かいいつどこだれ
り:教科書の記述内容を理解できている、またその知識から推理する
ぜ:有名な事項のあとひとつ ゆ:現在の言葉の由来、フルネーム
て:権力に抵抗した、または宥和しようとした人や事件
ク:他教科クロスオーバー グ:グローバルもの
*他大学は大問構成が固定なので過去の出題を表にしていますが、大阪大学はその辺がフリーなので省略します。
目次
Ⅰ 外国語学部
問 事件の背景には現在のアメリカ合衆国に当たる地域の17世紀以降の歴史に由来する問題が存在している。それがどのような問題化明らかにした上で、その起源、19世紀と20世紀それぞれの時期における制度改革に言及しつつ、経緯を説明する。300字程度
リード文 事件=1991年のロサンゼルス暴動
資料 たぶんこの件が問題のもと
- 1991年にアフリカ系アメリカ人のロドニー・キングがスピード違反で逮捕される際に4人の白人警官に木製の警棒で50回以上殴打された
- 警官らは過剰な暴力を振るったとして起訴されたが翌年に無罪になった
- これをきっかけにロサンゼルスでは数日間に及ぶ暴動が発生した
- 司法省は警察官を追訴し、1年後に連邦裁判所は警察官有罪の判決を下した
1992年 ロサンゼルス暴動の鎮圧に派遣された陸軍州兵。アメリカの公務員が撮影したのでパブリックドメイン。
ヒントから芋づる(文中敬称略)
問題 黒人(アフリカ系アメリカ人)差別
起源
17世紀に13植民地が形成され、プランテーション労働に次第に黒人奴隷が利用されるようになった。黒人奴隷は主人に生殺与奪を奪われ、厳しい労働に従事した。アメリカ独立後も黒人奴隷は市民とは認められず無権利状態であった。
19世紀前半の制度改革
19世紀初頭に奴隷貿易は禁止される(所有する黒人奴隷に子どもを産ませた疑惑のあるジェファーソンが署名)が奴隷制は存続した。北部では奴隷制がすたれるが、南部では産業革命を背景に綿花プランテーションが拡大し、奴隷制が存続した。
19世紀後半の制度改革
奴隷制を巡る対立から1861年に南北戦争が勃発、北部が勝利し憲法修正第13条で奴隷制が禁止された。しかし南部は州法を使って黒人と白人を公共施設で分離し(ジムクロウ)選挙人登録を複雑にして黒人を選挙から事実上排除した。
20世紀後半の制度改革
二度の世界大戦を契機に黒人の権利意識が拡大し、1950年代にはキング牧師が非暴力の公民権運動を進めた(マルコムXらは別の闘争をした)。ケネディ大統領が公民権法に意欲を見せ、1964~65年、ジョンソン大統領の時に公民権法が制定され、黒人に対する法的な差別が禁止された。
21世紀
アフリカ系アメリカ人に対する警察官の過剰な制圧により、2014年にはエリック・ガーナー、2020年にはジョージ・フロイドが死亡している。二つの事件に対してアフリカ系アメリカ人の大規模なデモが発生、後者はBLM運動が広く知られる契機になった。
発展
解答例
事件の背景である黒人差別は17世紀に成立した13植民地で黒人奴隷がプランテーション労働力として使用されたことに由来する。アメリカ合衆国独立後も憲法で奴隷の権利は保障されず、19世紀初頭に奴隷貿易は禁止されたが南部の綿花プランテーションの発展を背景に奴隷制は維持された。奴隷制をめぐる対立は1861年からの南北戦争に発展し、戦後の憲法の修正で奴隷制が禁止されたが、南部では州法による黒人と白人との公共施設での分離や投票権の制限など差別が継続した。二度の世界大戦を経て黒人の権利意識が高まり、1950年代の公民権運動の高揚を背景に1964年の公民権法で法的な差別が禁止された。しかし21世紀でも警察官による致死事件など差別は後を絶たない。305字
解答作成に向けて
東京大学と一橋大学はグローバル化の視点から黒人やアフリカの低開発について出題しているが、大阪大学は北アメリカの黒人差別に焦点を当てている。
論述問題は設問やリード文・資料に「何を書くか」示されているので、その誘導に沿って論を進める。この問題の場合は、まず問題は「アフリカ系アメリカ人(字数の関係で黒人)への差別」を定義し、起源は「17世紀以降」という誘導に沿い、19世紀(奴隷貿易の廃止、奴隷制の廃止、州法による差別)と20世紀(公民権法)の制度改革を時系列で説明した。
しかしリード文と同じような警察官によるアフリカ系アメリカ人への過剰な制圧とそれに対する大規模な抗議デモが2020年にも発生しているので(大坂なおみの試合棄権はそれが契機)、解答例は「公民権法ができて法的な差別が禁止された」で終わらず現状についても触れた。
教科書の知識で書けるように誘導されているし、BLMについては私立で何度も出題されているので、準備していた受験生はそれなりに書けたはず。
もちろん当ブログの読者は自信をもって書けたはず (`・∀・´)エッヘン!!
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Ⅰ(文学部)
問1 五胡が北中国に居住するにいたった歴史的背景 150字程度
解答例
後1世紀に東匈奴が分裂し南匈奴が後漢に臣従して北中国の農耕遊牧境界地域に定住した。王朝や豪族は彼らの武力を利用した。2世紀にモンゴル高原で鮮卑が台頭したが、3世紀に気候が寒冷化すると様々な遊牧民を率いて南下し、晋が八王の乱で弱体化すると匈奴は洛陽や長安を攻略し、他の遊牧民も華北に次々と王朝をたてた。150字
問2 エフタル
問3 唐は高宗の時代に朝鮮半島諸国間の戦争に介入する形で高句麗に遠征した。この遠征の推移と帰結について、戦争に参加した国の名称をあげながら 100字程度
解答例
当時朝鮮半島では高句麗、新羅、百済が対立していた。新羅は唐と同盟して百済を滅ぼし、百済を支援する倭を破った後高句麗を滅ぼした。その後新羅は唐を排除して半島の大部分を統一し、高句麗の遺民は故地の東北部で渤海を建てた。107字
問4 ア(唐の太宗の業績:○東突厥を羈縻支配に置いた)
解答作成のポイント
問1、ぶんぶんは中公新書を読んでいたのでその記憶で書いた。なお公式テキストである帝国書院の『新詳世界史』の記述を参考にすると程よい字数に収まる。
「背景」と聞かれたら「間接的・長期に及ぶ影響」を書く。解答例では、第一段階は匈奴の分裂による南匈奴の後漢への臣従と定住、第二段階はモンゴルに代わって遊牧民を糾合した鮮卑が3世紀の寒冷化で南下したこと、第三段階は八王の乱で洛陽や長安を攻め落とし(永嘉の乱)鮮卑や他の遊牧民も政権を作ったこと、を述べた。
匈奴について
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鮮卑と五胡について。遊牧民は天災に弱く、3世紀の寒冷化で家畜が壊滅したことが農耕地帯への進出の原因と言われている。
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問3は確実に解答できるようにしたい。「高句麗遠征の推移と帰結」なので、帰結については唐が半島から追い出されたこと、字数オーバーになるが(1割ぐらいはOKとM先生が言ってた)高句麗の末裔が渤海を建国した=故地のマンチュリアに戻ったことを書いた。
問2、「エフタル」については問題文の訂正が入り「この遊牧国家は5世紀後半に弱体化するが…」の一文が入った。この時代は柔然・高車・エフタルが抗争し北匈奴が西進するなど遊牧民の戦国時代なので、予備校からの指摘を受けないように答えを限定したと考えられる。
大阪大学はここ数年出題でいろいろやらかしている。ニュースにもなったこの件も、旧Twitter情報では訂正用紙の内容が???だったことが影響しているらしい。
Ⅱ
問1 日系人女性がこの時期(1665年)バタヴィアで暮らしていた背景について、日本、オランダ、バタヴィアの関係性を考えて 100字程度×
資料 ジェイコブ・クーマン ピーター・ノールとその家族の肖像(1665年)アムステルダム国立美術館蔵 パブリックドメイン。
解答例
17世紀初頭にオランダはアジア貿易を展開し日本にも駐在して日本人女性と結婚するものもいたが、1630年代に幕府の鎖国政策と禁教政策で商館は出島に移され日本在住外国人の日本人妻子はオランダの拠点であるバタヴィアに追放された。106字
問2 当時オランダ東インド会社がどのようにして富を築くことができたか説明する。150字以内
指定語句 銀 香辛料 商館
解答例
オランダ東インド会社はバタヴィアを拠点にモルッカ諸島を押さえ、イギリスやポルトガルを駆逐して香辛料貿易を独占した。日本では平戸に商館を置き中国産生糸と日本の銀との中継貿易を行い、日本の鎖国後はヨーロッパで唯一日本との貿易が許され、長崎の出島で貿易を独占して中国産生糸と日本の銀や銅との取引で莫大な利益を上げた。155字
問3 エ◎(ヨーロッパ諸国のアジア地域との貿易)
○イギリスはインド経営に力を注ぎ、インド産綿布は国内の麵工業の発展を促した。
問4 ウ◎(女性の権利に対する見方の変化に影響を与えたこと)
×女性が招集された男性の代わりに働きだしたのは20世紀からで、18~19世紀初頭ではない。
解答のポイント
昨年度のⅡは共通テスト風の教室シチュエーションだったが、今回は国立大学二次試験的。
問1、世界史・日本史融合問題だがほぼ日本史問題。リード文に「キリスト教コミュニティを形成」とあるので、そこから「外国人と結婚してキリスト教に改宗したから追放された」と推理する。解答例はキリスト教のところを「禁教政策」と圧縮し、鎖国政策の両面から論じて世界史っぽい解答にした。
バタヴィアの様子。出島の博物館でぶんぶんが撮影。
問2、問1と同様に日本史振りの問題。解答例は「富を築く」から、商品=香辛料・中国の生糸や絹製品・日本の銀、方法=貿易を独占する、の2点に分けた。
日本人は西欧コンプレックスが染みついているので、対オランダ貿易と言えば洋物を連想するかもしれないが、オランダから輸入したのは生糸、絹織物、砂糖、香木、胡椒、鮫皮、薬品とほぼ中国の物産だった。
日本からの輸出品は初期は銀や金で、それらの輸出禁止後は銅(棹銅)が主体で、陶磁器、漆器などの工芸品もあった。加工された棹銅は輸出品として最も重要なもので、全国の銅が大坂に集められて精錬されて出島に送られた。
出島で出土した棹銅の破片。ぶんぶんが出島で撮影。世界史屋のぶんぶんが解答の際に「銅」をひねり出せたのはこの展示のおかげ。
そうはいっても長崎に行ったらお土産はついこれを買ってしまう。
問4は「18世紀~19世紀になると」が「18世紀~19世紀初頭になると」と訂正が入った。選択肢アに「フランス人権宣言において、人間は自由で権利において平等なものであることが謳われたが、女性には選挙権が与えられなかった」とあり、読点の位置から「19世紀末に女性参政権を認める地域が出現するのでアも誤答」と予備校から指摘されるのを避けるためと思われる。
Ⅲ
問1~問3
問1 下線部①(日本が30年前(1894年)に外国と結んでいたいくつかの不平等条約を撤廃した)で言及された歴史的事実について、新たな条約名を一つ挙げ、その改正内容を答える
問2 「日本がロシアに勝った日からアジアで独立運動が起きた」に関係する民族運動の名称をひとつあげる
青年トルコ革命 イラン立憲革命など
問3 孫文の講演(大亜洲主義講演)全体は第一次世界大戦後のどのような世界情勢・アジア情勢を反映したと考えられるか。帰国後に付け加えられた部分(日本が西方覇道の手先となるか、東方王道の盾や砦となるか)を念頭に置いて 200字程度
解答例
アジアでは大戦中から民族資本が台頭し、人々はウィルソンの民族自決がアジアに適応されることを期待した。しかしパリ講和会議では列強はアジアの民族自決を認めず帝国主義政策を継続したので各地で大衆運動が発生し、ロシア革命の影響を受けて民族政党や共産党が結成された。一方日本はパリ講和会議ではドイツの山東省利権の継承と引き換えに英仏の帝国主義を黙認し、列強の一翼として民族運動の支援ではなく中国大陸での利権拡大を目指した。206字
解答作成に向けて
問1、三つ目の訂正。国立の入試では前代未聞。訂正前は「下線部①はどのような歴史的事実なのか。条約名と改正内容を答えなさい」だった。
この場合正解は解答例一択で、講演の30年前=1894年(発効は1899年)=日英通商航海条約=法権回復(領事裁判権の回収)だが、公式テキストである帝国書院の『詳解世界史B』には記載がない。他社の世界史B教科書も同じ。
日本史の教員に聞いたところ、この用語は年号、関係者名、内容をまとめて暗記するべき重要語句とのこと。ということは日本史からの出題?
そこで新課程の歴史総合の教科書を調べると、ライバル山川出版社の新課程『歴史総合 近代から現代へ』(歴史総合推しの教員から評判が悪い。2年目でシェア1位を帝国書院に奪われる)では「日英通商航海条約」は太字、経緯も日本史の教科書並みである(自由党が外国人の内地雑居に賛成したので陸奥宗光が青木周蔵にイギリスとの交渉再開を命じた)。
一方公式テキストである帝国書院の『明解歴史総合』には「1894年から各国との間で条約改正が始まり、99年に領事裁判権が撤廃された」とある。
問題が印刷されてから誰かが気が付いたようだが、阪大の訂正文は公式の記述に寄せてあるので、「新課程のフライング」と自白したようなもの。
Ⅱの問1、問2も日本史振りとはいえギリギリ世界史の守備範囲だが、これは旧課程者に対するフライングかつ暗記知識問題。「歴史=暗記科目からの脱却」「用語の精選」は大阪大学が発信元では?
問2、下線中に「独立運動」、別の箇所に「西方のアジアの人の方がより強い抑圧を受けていた」とあるので、解答例は西アジアで列強から自立しようとする動きをふたつ紹介した。
問3、「第一次世界大戦後」なので、戦後の大衆運動の背景として民族資本の台頭(山川の歴史総合では「タタ」が太字)、ウィルソンの14か条、ロシア革命に触れ、日本の態度については孫文のいう「西方覇道の手先」の具体例としてパリ講和条約を挙げた。
問4
中華人民共和国成立直後からソ連崩壊までの、中国のソ連との関係の変遷 200字程度
中華人民共和国は成立翌年に中ソ友好同盟相互援助条約を結び、ソ連をモデルに社会主義国家建設を目指した。しかしフルシチョフがスターリンを批判しアメリカとの平和共存を図ると毛沢東は反発し中ソ対立に発展した。1960年にソ連は中国から技術者を引き揚げ69年には中ソ国境紛争が発生した。70年代の緊張緩和の中でソ連が関係改善を求め、80年代にゴルバチョフの提案に鄧小平が応じ、89年にゴルバチョフが訪中して関係は正常化したが91年にソ連は消滅した。211字
解答のポイント
戦後史の鉄板問題。戦後史が手薄な現役生には書きづらいが、中ソ友好同盟相互援助条約→スターリン批判→中ソ論争→中ソ国境紛争→ゴルバチョフの訪中、を書いて関係の変遷(仲良し→喧嘩→仲直り)を示したい。
ぶんぶんは字数がタイトな時は人名を省くが、この課題は毛沢東がスターリン個人崇拝を真似していたのにフルシチョフに梯子を外されたこと、鄧小平体制とゴルバチョフの新思考外交を書かないと話にならない。珍宝島キタ━━(゚∀゚)━━!!は省略。
第二次天安門事件はゴルバチョフ訪中が契機というのは基本。胡耀邦、趙紫陽、李鵬、江沢民は、難関私立大学がこの事件を風化させないために出題。
まとめ
- 大阪大学の論述には時系列の展開と移動と交流の2パターンがあります。前者については教科書の記述内容を理解すること、後者については複数の単元をキーワードでつなぎ合わせるトレーニングをしましょう。
- 大阪大学は「グローバルヒストリーのパイオニア」という自負があるので、モンゴル、大航海時代、帝国主義など日本を含む横のつながりを意識した整理をしましょう。資料集のまとめは効果的です。
- 横のつながり、縦の展開の両方とも年号の知識が必須です。論述は必ず世紀と地域が指定されるので、マスト年号から知識をつなぎましょう。
- 資料問題は基本初見ですが、文中にヒントの用語が仕込まれています。用語およびその正確な5W1Hの記憶を心掛けましょう。
- 論を進めるには概念知識(貴族とか帝国とか朝貢とか)とまとめ知識(ローマの変質とか産業革命の影響とか)の理解が必要です。授業(講義、グループ学習、演習)にはギラギラしながら臨みましょう。
- 文化史(言語、信仰、思想)も年度によってはケチャップみたいに出るので、政治史と関係する内容は整理しておきましょう。
- 「推し」には貢ぎましょう。(´・ω・`)