はじめに
最近入試で頻出のアフリカ史について先史から21世紀まで復習します。第4回は20世紀の抵抗運動と「アラブの春」までの時代です。
参考図書は第1回を参照してください。世界史探究の教科書と講談社現代新書『新書アフリカ史』、『講座岩波世界歴史』最新版をもとにしています。
アフリカの20~21世紀史は考えさせられることが非常に多いのですが、大学に入ってから深く学んでください。今回は入試で問われるところを中心にします。
前回
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目次
7 20世紀前半のアフリカ
(1)第一次世界大戦前
①列強の植民地争い
・(1 )事件
第一次:1905年 英仏協商に反発したドイツ皇帝が(2 )に上陸
→1906年 アルへシラス会議でドイツの植民地再分割要求は認められず
第二次:1911年 ドイツが軍艦を(3 )に送る
→フランスがモロッコを保護国化
ドイツはカメルーンに接するフランス領コンゴの一部を得る
・1911~12年 (4 )戦争
イタリアがオスマン帝国からトリポリとキレナイカを獲得
*サヌーシー教団:19世紀、ワッハーブ派に対抗する神秘主義改革派
キレナイカに移住して活動 ゲリラ戦でイタリア軍を苦しめる
②解放への動き
・(5 ):1900年 ロンドンで開催
欧米を舞台としたパン=アフリカニズムと呼ばれる解放運動
・(6 )(ANC):1912年に発足(1922年に現名称に名称)
反アパルトヘイトや黒人の人権擁護 アパルトヘイト強化後は武装闘争も
③第一次世界大戦
・ドイツの植民地を中心に戦闘が発生、植民地人の大戦への動員
→戦後植民地で人種差別撤廃やアフリカ人の政治参加要求が高まる
(2)第一次世界大戦後
・エジプト:第一世界大戦中に正式にイギリスの保護国に
大戦後、1919年に(7 )党の反英独立運動
1922年 エジプト王国として形式的に独立
1936年 実質的な独立 イギリスのスエズ運河地帯の軍隊駐留権は認める
・旧ドイツ植民地
トーゴランドとカメルーンは英仏が分割 (8 )領に
東アフリカはイギリス、南西アフリカは南アフリカの委任統治領に
・(9 ) 1935~36年 イタリアが侵攻
①「パン・アフリカ会議」と「アフリカ民族会議」
「パン・アフリカニズム」とはアフリカ内外のアフリカ系人をひとつの集団としてとらえ、一体感を促進する動きです。
運動はアフリカから連れ出され厳しい差別を経験した新大陸、特に差別が厳しかったアメリカ合衆国から始まり、アフリカ人との交流や連帯を訴えました。
1900年にロンドンで開催されたパン・アフリカ会議では合衆国やカリブ海地域の代表に加えてアフリカ大陸からも少数ながら参加者が集まり、合衆国の黒人参政権やハイチやリベリアの問題が議論されました。
この流れを引き継いだのがW・E・B・デュボイスです。彼はベルリン大学とハーバード大学を卒業して博士号を取得した最初のアフリカ系アメリカ人で、パリ講和会議でアフリカ人とアフリカ系の人々の権利を擁護しようとしました。
パブリックドメイン。

これがかなわないと見るや、彼はアフリカ系で初のフランス政府官僚に働きかけて、1919年2月にパリでパン・アフリカ会議を開催しました。
開催の経緯からフランスの植民地支配を評価する(セネガルではフランスの同化政策を受け入れたエリートには市民権が与えられていた)面もありましたが、北アメリカ、カリブ海、アフリカの代表が集まり、植民地主義(土地や資源の支配、外国企業の搾取、奴隷労働)を批判し段階的な自治を求めるなど、その後のパン・アフリカニズムの嚆矢となりました。
パン・アフリカニズムの運動の担い手が欧米のエリート黒人や植民地経営に取り込まれたアフリカ人エリートであったのに対し、大衆運動を鼓舞したのがジャマイカ出身のマーカス・ガーヴィーでした。
1930年より前に発行されたものなのでアメリカ合衆国ではパブリックドメイン。

彼はアメリカを拠点に黒人全体の地位向上に努め、パン・アフリカ会議が植民地の枠組みの中での待遇改善を唱えるのに対してヨーロッパの植民地政策からのアフリカ解放を主張しました。
ガーヴィーの運動はアフリカへの帰還運動の挫折や彼自身逮捕によって1930年代には低調になりますが、彼の思想は様々な民族集団を抱える南アフリカに影響します。
南アフリカは1910年に自治領の南アフリカ連邦となり、人種隔離政策がおこなわれ始めました(1948年に法制化)。
これに対して1912年に民族の違いを超えてアフリカ人の利益を代表することを掲げた会議が樹立され、1922年にアフリカ民族会議(ANC)と改称され、大衆を巻き込んだ運動に発展します(この項『新書アフリカ史』と『講座岩波世界歴史18』より)。
探究的つぶやき
アメリカ合衆国では黒人差別が政治的、社会的に構築され、黒人たちも自らを「劣等な人種」と思い込むよう仕向けられました。白人の文化を受け入れても「二級の市民」です。それならば黒人であることに誇りを持ち、同じ仲間と地域を超えて連帯するという戦略は妥当です。
パン・アフリカ会議はエリート中心、ANCは大衆運動とタイプも主張も異なりますが、「アフリカ」を主語にしてアフリカの人々、アフリカ系の人々が連帯して地位向上を図るという点は同じで、その思想は現在も受け継がれています。
関連リンク
差別に敏感な上智大学TEAP方式。モザンビークの「名誉白人」について。
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第一次世界大戦ではアフリカからも前線に動員されました(『映像の世紀』第一次世界大戦の回)。アフリカのドイツ植民地でも戦闘になり、現地のアフリカ人が植民地軍に組み込まれ、大規模な人の移動が発生しました。
この時にインフルエンザ(スペイン風邪)の第二波が鉄道や河川交通を通じてアフリカ中に広がり、多数の犠牲者を出しました。
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ワフド党の位置づけと「アラブの春」の伏線
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空欄
1モロッコ 2タンジール 3アガディール 4イタリア=トルコ 5パン・アフリカ会議 6アフリカ民族会議 7ワフド 8委任統治 9エチオピア
8 第二次世界大戦後のアフリカ
・1952年:エジプト革命
ナギブ、(10 )ら自由将校団が王政を打倒 翌年共和国を樹立
1956年 ナセル、スエズ運河の国有化を宣言 第二次中東戦争
・1955年:(11 )(バンドン)会議開催
→反植民地主義の民族運動が高揚
・1956年:(12 )・(13 )・スーダンが独立
・1957年:(14 )が指導する(15 )がイギリスから独立
・1958年:セク=トゥーレが指導するギニアがフランスから独立
・(16 )年にはアフリカで(17 )カ国が独立,「アフリカの年」
・(18 )では民族解放戦線(FLN)をフランス人入植者が弾圧
ド=ゴール大統領が独立承認(エヴィアン協定)→1962年に独立
・1963年 エチオピアの(19 )でアフリカ諸国首脳会議が開催
(20 )(OAU)が結成
・2002年,紛争解決や経済統合をめざして(21 )(AU)に発展
① アフリカ独立の胎動
第二次世界大戦が勃発するとドイツはベルギーとフランスを降伏させますが、植民地までは占領できず、両者はコンゴで抵抗します。イギリスも東南アジアを日本に占領されたので戦争に必要な物資(錫、ゴム)を西アフリカに依存しました。また第一次世界大戦と同様にアフリカ人が連合軍に動員されました。
1941年の太平洋会談でローズヴェルトは「民族自決」をチャーチルに迫りました。チャーチルは難色を示しますが、従来の植民地支配が成り立たなくなるのは時間の問題でした。
第二次世界大戦中にパン・アフリカニズム運動の主役は新大陸のアフリカ系からエンクルマ(ンクルマ)などアフリカ人エリートのナショナリストに移ります。また大戦中に連合国の後方基地として食糧や鉱物の生産が盛んになるとアフリカ各地で都市化が進行し、労働組合もアフリカ人ナショナリズムの担い手となり、アフリカ各地で政党が結成されました。
第二次世界大戦が終了すると、資本主義陣営の指導者となったアメリカ合衆国は自由貿易と民族自決を大義名分に英仏に植民地の解放を迫りました。一方ソヴィエト連邦も民族運動支援の姿勢を明確にしました。
英仏はアフリカ人に一定の政治参加を認めることで植民地体制を維持しようとしますが(帝国主義の常套手段)、かえって運動を激化させることにつながりました。
イギリス植民地ゴールドコースト生まれのンクルマ(エンクルマ)はデュボイスのパン=アフリカニズムの影響を受け、ロンドンから帰国後ゴールドコースト会議人民党(CPP)を結成して、イギリスに対して「即時自治」を求め、ストライキやボイコットなどの非暴力不服従運動を展開しました。
ンクルマとケネディ。アメリカの公務員が撮影したのでパブリックドメイン。

植民地政府はCPP指導部を逮捕しますが民衆はCPPを支持、1951年の総選挙でCPPは圧勝、ンクルマも獄中から立候補して当選しました。ンクルマは釈放され、選挙での勝利を背景にイギリスとの独立交渉に当たり、1957年にサハラ以南のアフリカで初めて独立を達成しました。
一方フランスはアフリカ人を懐柔するために各植民地の自治権を拡大しますが、1958年にアルジェリア危機によって第四共和政は崩壊、ド=ゴールが提案した第五共和政憲法では、植民地について内政については完全な自治権を認める一方、防衛・外交・通貨など重要事項はフランスが掌握する「フランス共同体」構想が打ち出されました。
探究的つぶやき
ただしこれは旧フランス領西アフリカおよびフランス領赤道アフリカという二つ植民地を細かく分割=弱体化する案で、これらの国の多くは現在CFAフラン(セーファーフラン)という共通通貨を使用していて、これはフランスフラン(現在はユーロ)との固定相場制なので通貨は安定するものの、外貨準備高の50%をフランスの国庫に保管しなければならないという規定があります。
イギリスの旧植民地ではケニア(ケニア土地自由軍に対する植民地政府のせん滅作戦)やナイジェリアのような激しい闘争があったのに比べればフランスの旧植民地の独立はアルジェリア以外は比較的平穏ですが、それは両者の利害(フランスは影響力保持、植民地側は支配の安定)が一致したからです。19世紀にフランスから独立したハイチはフランス人の権益の賠償金が課されて最貧国になっているので、適度に仲良くしておいた方が得ということです。
1958年の国民投票ではギニア以外が賛成しましたが、ギニアではサモリ・トゥーレの曽孫といわれるセク・トゥーレが「隷従の中の豊かさよりも自由の中の貧困を選ぶ」と宣言してこれを拒否、1958年に彼を大統領として独立しました。
フランスはギニアに対する一切の援助を打ち切り、官吏を引き上げて行政機構を機能停止させるという報復措置を取りましたが、(# ゚Д゚) ギニアの独立は他の植民地の独立への動きを加速させ、1960年、「アフリカの年」にサハラ以南のフランス領植民地はすべて独立を達成しました。
しかしこの後アフリカには「政治的独立は経済的自立を伴わない」という現実が突き付けられます。
過去回
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空欄
10ナセル 11チュニジア 12モロッコ 13アジア・アフリカ 14エンクルマ 15ガーナ 161960年 1717 18アルジェリア 19アジスアベバ 20アフリカ統一機構 21アフリカ連合
9 独立後の諸課題
①1960~70年代の紛争
・(22 )動乱
1960年にベルギーからコンゴが独立
ベルギーが鉱物資源が豊富なカタンガ州の分離独立を狙う
(23 )首相が暗殺される。国連の介入で分離独立は失敗(~65)
・ナイジェリア内戦(ビアフラ戦争)1967~1970
イボ人がビアフラ共和国として分離独立を目指す
ナイジェリア側をイギリスとソ連、ビアフラ側をフランスと中国が支援
1970年にビアフラ側が降伏
・(24 )革命(1974年)…大戦後独立を回復
ハイレ・セラシエ1世が近代化をすすめるが革命で帝政が崩壊
・ポルトガル領(25 )(西部)と(26 )(東部)の独立
ポルトガルは戦後もサラザールの独裁が続き植民地支配が続く
本国で政変(カーネーション革命)→1975年に独立
・モザンビーク内戦 1977~1992
社会主義的な政権に対してローデシアと南アフリカが干渉
ソ連の崩壊とアパルトヘイトの廃止で和平成立
・アンゴラ内戦 1975~2002
独立運動組織が独立後に東西両陣営の支援を受けて内戦
②南アフリカ
・南ローデシア…イギリス領。1960年代から黒人による独立運動が本格化
1965年 ローデシア共和国の一方的な独立宣言 少数白人の支配
中ソの支援を受けたアフリカ人抵抗勢力のゲリラ闘争
南アフリカ共和国、ポルトガルが政府側を支援、国連やOAUが政府へ圧力
1979年 イギリスの調停→1980年の総選挙の結果(27 )共和国成立
・南アフリカ共和国…1961年にイギリス連邦から離脱して改称
大戦後に(28 )(人種隔離政策)を強化
一ANCの抵抗、国際社会から経済制裁を受ける
(29 )政権がアパルトヘイト放棄,差別法全廃や平等な選挙権
1994年,ANCの指導者である黒人の(30 )が大統領に就任(~99)
③冷戦後のアフリカ
・(31 )内戦 1990~1994
植民地時代にベルギーが少数派のツチ族を優遇、多数派のフツ族を抑圧
フツ族がツチ族を虐殺
・「アラブの春」2010~2012
2010年 (32 )全土でストライキやデモ→政権崩壊(ジャスミン革命)
2011年 エジプトではムバラク政権、リビアではカダフィ政権が崩壊
シリアではアサド派と反政府勢力の内戦に→2024アサド大統領逃亡
・スーダン
2003~ 2010年 ダルフール紛争 アラブ系と非アラブ系の内戦
2011年 南スーダン独立
ムスリムのアラブ系が多数派の北部と黒人キリスト教徒の多民族の南部が対立
二度の内戦 住民投票で南部がスーダンから分離
① コンゴ動乱とアフリカ統一機構
ベルギー領コンゴでは隣国フランス領コンゴで自治政府が宣言されると独立要求が高まり、事態を収拾できないベルギーは独立を承認しました。
しかし中央集権を主張する首相ルムンバと、連邦制を主張する大統領が対立、カタンガ州も連邦制を主張していました。軍隊の反乱を機にカタンガ州が独立を宣言、コバルトや銅の利権を狙うベルギーや国際資本がこれを支持しました。
ルムンバは国連軍の覇権を要請しますが、国連軍は鉱山会社とカタンガ政権を保護する態度をとり、国連とアメリカの後押しを受けたモブツ大佐のクーデターでルムンバは逮捕、処刑されました。
カタンガに展開する国連軍のスウェーデン人部隊。1961年11月。スウェーデンではパブリックドメイン。

旧フランス領植民地は大統領を、ンクルマらはルムンバを支持と諸国の対応は分かれ、アフリカの政治統合は難しいことが明らかになりました。
両者の対立は1962年の国連軍のカタンガ制圧とアルジェリアの独立で緩和し、エチオピア皇帝ハイレ=セラシエ1世の仲介で1963年に「アフリカ統一機構(OAU)」が結成され、主権の平等、内政不干渉、紛争の平和的解決、非同盟路線の堅持をうたうOAU憲章が採択されました。
ハイレ=セラシエ1世とナセル。アジスアベバ。著作権切れでパブリックドメイン。

パン=アフリカニズムが目指した政治統合は実現しませんでしたが、加盟国は共同でモザンビークやアンゴラの解放闘争を支援したり、南部アフリカの白人少数派政権に対して国連と協調して圧力をかけるなど、アフリカの解放に少なからず貢献しています。
アフリカ統一機構はアフリカのさらに高度な政治的・経済的統合の実現と紛争の予防・解決に向けた取組強化のために、2002年7月に改組し「アフリカ連合(AU)」となりました。
モザンビークとジンバブエの独立を扱った一橋大学の伝説の回。
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② 貧困脱出には資本主義?社会主義?
アフリカ諸国の政治や経済を不安定にした最大の要因は植民地時代のモノカルチャー経済です。
宗主国は植民地に輸出用農産物の栽培を強制し、鉱山の開発を進めました。その収益は地域の経済発展にはつながらず(輸出用農作物は買い取り価格が低くかつ食料自給率を下げた)、鉄道や道路などのインフラは生産地と港湾を結ぶために整備され、国内各地を結んではいませんでした。つまり国境はあっても政治的、経済的な統合は進んでいない状態でした。
古典中の古典。かつては三つの鉄道ゲージが国内経済発展を妨げたという話。鉄道は物資だけではなく情報も運ぶので国民統合の大きなツールです。
探究的つぶやき
もうひとつアフリカ諸国の国民統合を阻む要因が「国語」です。フランス革命政府や明治政府の「国語教育」に見られるように、「国語(の強制)」は国民意識を形成するために不可欠ですが、アフリカではスワヒリ語圏などを除いてエリート層が旧宗主国の言語を「公用語」としたため、土着言語を話す大多数の住民は公用語を学校で学んでも日常生活では役に立たない、その結果エリートと住民が固定化して「国民意識」が育つのを阻みました(この項『講座岩波世界歴史』より)。
独立後の政府は自立的な経済構造の確立を目指しますが、手持ちの資金は植民地時代のモノカルチャーが頼りという中で、アフリカ人エリートは国家主導による開発政策を採りました。
ひとつは自由主義諸国の援助を受けて開発する手法です。しかし技術も資本も国際資本に依存した開発は国内に利益をもたらさず、開発資金も一次産品の国際価格に左右されました。
もうひとつは社会主義の手法です。ガーナやマリはソ連に倣った経済政策を行いますが、ソ連や東欧からの資金的な援助は少なく、冷戦の「代理戦争」による混乱だけが目立ちました。
またタンザニアでは植民地化以前のアフリカを理想とする独自の社会主義(ウジャマ―村計画)を標榜しましたがうまくいかず、1986年に計画を放棄してIMFの支援(構造調整政策)を受け入れました。
このように「貧乏退治」としての資本主義も社会主義も「政府主導で開発独裁」という点は同じで、有力者が私的なグループを形成して利権を独占し、別のグループがそれを狙ってクーデター、が相次ぎました。この「グループ」はしばしば「部族」(植民地時代の分断が原因)と結びつき、住民の虐殺や大量の難民を引き起こしました。
マストアイテム
1970~80年代の経済危機、1990年代にかけての内戦と民主化を経て、21世紀に入ってアフリカは一次産品の輸出拡大と中国の積極的な投資で都市部の開発やインフラ整備(携帯電話含む)が急速に進んでいますが、都市と農村の格差、資源のある国とない国の格差(「南南問題」)は引き続き存在します。
③ 援助より貿易
1960年頃よりアフリカをはじめ世界では多数の新国家が独立しましたが、植民地時代の経済構造のためf引き続き旧宗主国や国際資本に従属することになり(新植民地主義)、いわゆる「南北問題」が顕在化しました。
一方第二次世界大戦後の国際経済は、戦前の保護主義を反省して自由貿易が推奨されましたが(IMF・GATT体制)、それは経済力のあるアメリカ合衆国や国際資本に有利なルールでした。
そこで貿易による経済発展をめざす開発途上国は、国連主催の貿易開発会議の開催を要請し、1962年に「カイロ宣言」を採択、国連経済社会理事会が国際会議の開催を決定し、1964年に国連貿易開発会議(UNCTAD)がジュネーブで開催されました。
さらに同年12月、国連総会がこの会議の常設化を決定したことにより、UNCTADは国連総会の一機関として設置されました。
会議では先進国の関税など貿易諸障壁の緩和,撤廃, 一次産品の輸入目標の設定と一次産品の輸出・価格安定のための国際的商品協定の締結,発展途上国の製品・半製品に対する特恵関税制度の採用,先進国の援助額の増加と借款条件の緩和,国連の機関としての新しい貿易機構の設置などが議論されました。
1965年に設立された国連開発計画(UNDP 本部はニューヨーク)は貧困や格差解消のための国際連合総会の補助機関です。
開発途上国の経済、社会的発展のために、資金や技術援助ための調査だけでなく、健康、民主的な政治、環境問題とエネルギーなど、あらゆる開発に関するプロジェクトが扱われています。
持続可能な開発目標(SDGs。通称「グローバル・ゴールズ」)もUNDPの取り組みで、17の取り組みの最初は「貧困をなくす」です。
アフリカの低開発を扱った東京大学の回
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空欄
22コンゴ 23ルムンバ 24エチオピア 25アンゴラ 26モザンビーク 27ジンバブエ 28アパルトヘイト 29デクラーク 30マンデラ 31ルワンダ 32チュニジア
受験生の最後の追い込みをお祈りします。

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