目次
はじめに
X(旧Twitter)で、「1930年に建てられた修道院が老朽化でピンチ」と回ってきました。ちょうど授業で中世ヨーロッパをしていて興味がわいたので、岐阜県多治見市を訪れました。
福井新聞online
カトリック多治見教会HP
1 場所
OpenStreetMap
JR名古屋駅から中央線に乗り多治見駅下車(約40分)、駅から国道19号線に出て多治見北高校の隣にあります。徒歩20分程度。
中央線や関西本線に投入されている315系。これは関西本線で撮影。

多治見駅。多治見を舞台としたフリーコミックのキャラクター。

アニメ化されているようで。

こちら。
「日本一暑い街」自慢合戦に参加しているようです。

多治見市は言わずと知れた焼き物の街。銀行のギャラリーには茶器が展示され、名工大のセラミック研究センターも居を構えます。


看板が見えてきました。

岐阜県立多治見北高校は県下有数の進学校。鐘楼らしきものが見えますが隣の修道院へのオマージュ?

修道院全景

入り口。「神言修道院」とあります。

近くから

2 神言修道院
ここからは教会のパネルを参考に多治見修道院の歴史を紹介します。
神言会は1875年にドイツ人の聖アーノルド・ヤンセン神父によって創られた宣教修道会で、1907年に宣教師が来日し、秋田で宣教を開始、その後日本海側に小教区を設立しました。
日本ではすでにプロテスタントが布教の一環として教育事業を展開していました(大学設置者移管で話題になった広島女学院はアメリカのメソジスト系で1880年代にその原型が設立)。神言会も教育を宣教に位置づけ、秋田で女子教育を立ち上げました。
その流れをくむのが現在の聖霊学園高等学校です。
第一次世界大戦で日本は日英同盟を口実に連合国側で参戦、ドイツの租借地であった青島を攻略、山東半島を占領しました。戦争がはじまるとドイツ人宣教師は敵視されましたが、ドイツ人捕虜が日本に送られてくると収容所を慰問するようになり、その過程で太平洋側の事情が分かってきて1922年に名古屋にも教区がおかれました。
今回訪れた多治見修道院は、名古屋教区の司祭や修道士の管区本部、日本語教育・瞑想・休養の場として1930年に建設されました。
名古屋でも教育事業を立ち上げ、1932年に名古屋市の南山町に南山中学校(男子部)を設立、1936年には南山小学校を設立しますが、戦時体制が色濃くなる1941年に小学校は廃止、名古屋市に移管されました。
教科書で有名なベネディクト修道院は「祈り、働け」がモットーで、森を開墾して自給自足の生活を送りました。アジア・太平洋戦争がはじまるとぶどう酒を輸入できなくなり、多治見修道院で生産されたぶどう酒が各地の教会・修道院のミサのために出荷されました。
ぶどう園。3月なので準備中。

アジア・太平洋戦争が日本の敗北で終了すると、南山学園は1949年に新制の南山大学および中高その他を有する学校法人として再出発します。
多治見の修道院で行われた修道士や司祭の育成は、1949年に名古屋市の滝川町に移転後、1966年に南山大学の新キャンパス近く(八雲町)に移転しました(神言神学院)。
南山大学はエリアのトップ私立として愛知県民に親しまれています。日本では珍しいドイツ系のカトリックと聞いていましたが、今回多治見を訪れて由来がわかりました。
おわりに
日本には宗教系の教育機関が多数あります。大学には後継者養成の学科もありますが、多くは布教目的ではなく、それぞれの宗教の精神、「人間を含む生きとし生けるものはかけがえなのない存在」という視点で教育を行っています。
ぶんぶんは仏教の檀家ですが様々な宗教建築を観光するのは好きで、宗教が何を考え、社会にどうコミットしているかを知ることができて有意義です。
信者がそれぞれの信仰を深めるのは自由、信仰を他者に押し付けるのではなく(ましてや信仰を大義に他者を抑圧するなどもっての外)「違いを尊重しあう」ことを希望します。
その後のニュースで耐震工事に必要な寄付が目標額を超え、この後どのするのか検討すると聞きました。(〃・ω・)ノ🎉・:*:・。パーン
多治見のお土産。修道院の売店で買ったワイン、死海の塩が入っている塩飴、なぜか多治見駅の売店で売っていた大分ざびえる本舗の「ざびえる」。炊き出しの寄付もわずかばかりしてきました。

おまけ
多治見北高校の「前店」。五平餅をいただきました。やっぱり高校には「前店」とチェリオの100円自販機がマストですよね!

寒かったので昼食は讃岐うどんの店へ。温まりました。

以上、多治見修道院のレポートでした。