ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

ゴルバチョフの時代

はじめに

 ぶんぶんはこのところ大好きな俳優・声優が相次いで亡くなり悲しみの極みですが、「ゴルバチョフ死亡」のニュースも飛び込んできました。

 ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ(1931~2022)

 早稲田大学立命館大学はその年度の夏の出来事にまつわることを出題します、今日は追悼の意味をこめてゴルバチョフ関連の内容をまとめます。

 今回の問いは、「ゴルバチョフは日本では人気があるのに、当のロシアではあまり人気がないのはなぜ?」です。

 教科書、山川出版社の各国史(ロシア史)、NHKのドキュメンタリー(1991年12月25日、ソ連解体の日の放送)などを参考にしています。

 画像は断りのないものはウィキメディアコモンズパブリックドメインの画像(公的機関が撮影したもの)です。

目次

 

1 ロシア共産党ホープ

 ゴルバチョフは1931年、北カフカスのスタブロポリ地方のプリボルノエ村の農家に生まれました。日本風にいうと「戦前・戦中世代」で、スターリンの大粛清や独ソ戦を経験しています。

 大戦終了後は地元でコンバイン操縦助手として働いたのち、1950年にモスクワ大学に入学。在学中の1952年に共産党に入党しました。

 1955年に同校を卒業後、スタブロポリでコムソモール(青年共産同盟)と党の活動に従事しながら、1967年にスタブロポリ農業大学を通信教育で卒業しました。

 1970年にスタブロポリ地方党委員会第一書記、1971年に党中央委員に就任しました。テレビカメラの前で労働者にトラクターの運転を熱心に指導する映像が残っています(NHKの番組より)。

 1978年11月に急死したクラコフの後任として党中央委員会書記に抜擢されモスクワに移り、その後1979年11月に党中央委員会政治局員候補、1980年10月に同正局員と、とんとん拍子で出世しました。

ロシア共産党は労働者の党なので、出世するには労働者の経験が必要みたいなことを昔本で読んだ記憶があります。またいつから共産党に入党したかも党内の序列に影響すると聞きました(トロツキーメンシェヴィキ出身なので党内基盤が弱かった)。けっこう封建的?

2 ソ連の停滞

 ブレジネフ政権下の1970年代には、中東戦争による石油価格高騰の恩恵を受けるものの(現在でも石油はロシアの主要産業)、それらは西側諸国からの機械、穀物や奢侈品の輸入に費やされ、新規事業の開拓や技術開発はほとんど進みませんでした。またアラル海の縮小に見られるように無計画な開発は環境破壊を招きました。

 長期政権下で「共産党無謬説」(日本でいう「負けを認めると死ぬ病」)による組織硬直や腐敗・汚職が蔓延します。地方幹部は中央に忖度して「計画通り実行された」という実体のない数字(帳簿上で生産数を水増し)を報告するばかりでした。

 労働者は雇用や社会保障が提供されているし、御用メディアは政府に都合の悪いことは報道しないので、多くは政府に従順でした。ただし需要の多い商品は慢性的に品不足で買い物のために行列するのが日常で、一方党幹部はベンツを乗り回し、専用商店で西側の商品を買いあさるという貴族のような生活を謳歌していました。(# ゚Д゚)

*ぶんぶんは中二病の頃ラジオに夢中で、夜にAMでエリア外の番組をよく聴いていましたが、特にきれいに受信できたのが日本語版のモスクワ放送で、労働者や農民の幸せそうな様子が頻繁にニュースになっていました。しかし本で「農民たちの生産意欲は低く、穀物は輸入に頼っている」と知りそのギャップに驚いた記憶があります。

参考 

 計画経済の問題が露呈して経済が停滞する中でも、「社会主義陣営のチャンピオン」という面子から、ソ連は東ヨーロッパ諸国への天然資源供給や発展途上国への経済支援(キューバを支援し砂糖を購入していた)を継続しました。さらに1979年にはアフガニスタン侵攻を開始し、経済悪化に拍車をかけました。

発展① プラハの春

 1968年、チェコスロバキア共産党第一書記のドプチェクは、党への権限集中の是正、経済改革や言論・芸術活動の自由化など「顔の見える社会主義」を目指しましたが、ソ連ブレジネフは「制限主権論」(社会主義全体の利益を守るために一国の主権は制限される)を唱え、ワルシャワ条約機構軍(ルーマニアは不参加)がチェコスロバキアに侵攻しました。

 プラハの春の推進役のひとりとゴルバチョフは大学時代に知り合っています。プラハの春ペレストロイカには重なる部分があります。

発展② アンドレイ・サハロフ

ロシア国際通信社 によってウィキメディア コモンズに提供。Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported

 サハロフ博士は物理学者でソ連の水爆開発に携わりました。しかし1960年代後半から民主化を求めて社会的発言をするようになり、さらにソ連アフガニスタン侵攻を批判して一切の栄誉を剥奪され、ゴーリキー市に流刑になりました。

 その後ゴルバチョフによって流刑が解除され、1989年に人民代議員へ選出されて議場ではゴルバチョフの制止を振り切ってソ連批判を展開しました(NHKの番組)。

 またソ連に批判的なソルジェニーツィンも政府から攻撃を受け、1970年にノーベル文学賞を受賞すると当局からの圧力がさらに強まり、1973年に『収容所群島』を国外出版したことを契機に国外追放になりました。

3 書記長就任

 52歳のゴルバチョフは1985年のチェルネンコ書記長の死去に際し後任書記長に選出され、党の最高指導者となりました。ブレジネフの長期政権の中で幹部は高齢化し、彼の死後アンドロポフ(就任時68歳)、チェルネンコ(同73歳)が1年ごとに書記長に就任しては死亡しました。

 ゴルバチョフは改革派を登用する人事を進め、翌年2月の第27回ソヴィエト大会で「ペレストロイカ(建て直し)」を提示しました。ソ連は公式には自らの社会主義建設は順調で問題の存在すら認めていませんでしたが、彼はそれを認め、計画経済の見直しを図ろうとしました。

 彼は地方を視察し、「計画通りです」を繰り返す地方幹部を叱責しました。また行く先々でカメラを持ち込みその様子を公開しました。初期の「グラスノスチ(情報公開)」です(NHKの番組)。

 1986年4月にチェルノヴイリ原子力発電所の事故が発生、情報隠蔽体質が事態を悪化させました。これを機に「グラスノスチ」が拡大し、改革は経済のみならず各方面に及びました。

 対外面の変化は最も早く、シュワルナゼ外相が「新思考外交」を展開して西側に接近、1987年にはレーガン米大統領中距離核戦力IMF)の全廃に合意、1988年にはアフガニスタンから撤退を開始しました(1989年2月に完了)。

 経済面では貿易改革(個別企業に自主貿易権)や個人営業の奨励が始まり、無駄な大規模開発も中止になりました。

 また言論が自由化され、新聞や雑誌が従来の政権忖度と横並びから脱して個性的な主張をしはじめました。ゴルバチョフは公開の場でスターリンを批判し、歴史から抹殺された政治家の名誉を回復し、信仰の自由を認めて永らく弾圧していたロシア正教会と和解しました。

4 大統領就任

 1988年になるとペレストロイカは政治改革に重心が移ります。

 1988年10月、ゴルバチョフはグロムイコの引退に伴って最高会議幹部会議長に就任して国家元首となり、同年末に憲法を改正します。

 この改正で人民代議員大会を設置し、複数候補での競争的選挙が導入されました。

 従来の最高会議の選挙では候補者はほぼ共産党、賛成なら白紙の投票用紙を出し、反対票を投じるには特別な投票ブースを使う必要がありました。そんなことをすれば反体制派として疑いの目を向けられます。[壁]ω・`)ジー

jp.rbth.com

 1989年春の人民代議員選挙は完全自由選挙とまではいえないものの(予備選挙で候補を絞る、党など各団体に一定議席を保障する)、各地で複数の候補者が名乗りを上げ、人民代議員大会では野党グループが形成されるなど、かつてない活発な議論が行なわれ、その様子はテレビで中継されました。

 1990年には複数政党制大統領制が導入され、初代大統領にはゴルバチョフが選ばれました。ただし憲法では「国民の直接選挙」でしたが、この時だけは人民代議員大会で選出されました。

 この「政治システムのペレストロイカ」が逆にゴルバチョフ自らの権力基盤を掘り崩す結果になりました。

5 ソ連の解体

 改革の結果、権力の重心は党から国家に移行しましたが大統領府の整備が進まず、一方共産党は人民代議員大会は圧倒的多数であるものの、従来の「無謬の存在」ではなくなりました。

*これまで共産党員が国家機構や企業で大きな顔をしていたことが問題視され、また共産党の資産が国有化されました。長期政権にあぐらをかいて国家や企業を私物化していたということです。(# ゚Д゚)

 「停滞」の時代は権力に従順でいればそれなりの生活ができた人々は、改革初期の混乱(物不足やインフレ)に不満を募らせました。情報公開や選挙は汚職にまみれた政府への批判につながりました。

 ソ連にとどめを刺す結果になったのが、バルト三国をはじめとする連邦構成国の民族運動でした。1988年のエストニアを皮切りに、1989年にはリトアニア、ラトヴィア、アゼルバイジャングルジアが次々と「主権宣言」(権力の分配を求める)を採択しました。ロシアも1990年にはエリツィンのもと主権宣言を採択し、「ロシア共和国」を名乗りました。

 これと平行して、1988年にゴルバチョフが「制限主権論」を放棄したことを受け(ベオグラード宣言)、東欧では1989年にポーランドの「連帯」派の政権獲得を最初に社会主義政権が次々と崩壊、11月にはベルリンの壁が撤去され、12月のマルタ会談ゴルバチョフブッシュ米大統領は「冷戦の終結」を共同で確認しました。

 これに対してソ連内部では1990年の秋から秩序回復のために国家権力の強化や連邦制の維持を求める勢力が台頭しました。ゴルバチョフも1991年1月から始まったリトアニア独立運動に武力介入しました。

 ゴルバチョフは共和国に権限を譲渡することで連邦を維持しようとしましたが、これに不満なヤナーエフ副大統領を中心とする共産党保守派が1991年8月にクーデタを決行、別荘にいたゴルバチョフを軟禁しました。

 ヤナーエフらはモスクワ中心部に戦車を出動させ放送局などを占拠しますが、ロシア共和国大統領のエリツィンがクーデタ反対を呼びかけました。民衆はエリツィンら改革派を支持し、軍部の多くも改革派につき、クーデタはわずか3日で失敗しました。

群衆の勝利を祝福するエリツィン。このファイルはロシア連邦大統領のウェブサイトからのもので、クリエイティブ コモンズ表示 4.0ライセンスの下でライセンスされています。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Boris_Yeltsin_22_August_1991-1.jpg

 ゴルバチョフは解放されましたが、クーデタの首謀者が彼の側近だったため共産党の権威は完全に失墜、勢いに乗ったエリツィンソ連から離脱しロシア連邦を宣言、ウクライナベラルーシと1991年12月、独立国家共同体(CIS)の設立に合意、中央アジア5国やアルメニアアゼルバイジャンなども合流して正式に発足しました。

 ゴルバチョフソ連共産党を解散させてソ連は消滅、大統領を辞任しました。

6 ゴルバチョフのその後

 大統領辞任後も政治的野心は健在で、ゴルバチョフ財団を設立して環境問題にかかわる一方、1996年のロシア大統領選挙に立候補しましたが約38万票、得票率0.5%で落選しました。彼は合計3回政党結成を試みますが政界復帰はなりませんでした。

 2000年に大統領に就任したプーチンに対しては、当初「ロシアに秩序と責任感が必要とするプーチン大統領の路線を支持する」としましたが、プーチンが大統領→首相→大統領と長期政権を築くと、「個人による主義的な統治と反民主的傾向が続いている」と批判しました。

 ただしプーチンが2014年にクリミアを強制編入した際には、ゴルバチョフプーチンを支持しました。

 一方プーチンは、米国がドイツ再統一前にゴルバチョフの同意を取り付けるため東欧にNATO加盟国を拡大しないと約束したとされますが、90年代後半以降東欧諸国が次々とNATOに加盟したため、米国から一筆を取らなかったゴルバチョフに不満があるようです。

こちらの記事から

mainichi.jp

7 ゴルバチョフの評価 実は権威主義者?

 ゴルバチョフ死去に伴う多くの記事にあたったところ、おおむね「ゴルバチョフの改革は共産党政権の維持が目的だった」という評価です。ロシアの人々もプーチンによって秩序が回復されるまでは大変な目にあったので、ゴルバチョフを評価しない人が多いようです。

 ぶんぶんが感じたのは「権威主義的体制」についてです。

 ソ連共産党は、人々が政治に無関心で無気力なことにつけこんで、政府に従順にしていれば生活を保障する(反抗したら弾圧する)ことで人々から「白紙委任状」を得ていました。それは石油と対外強攻策(チェチェン紛争)で国民の支持を得て権威主義的な政治を行なうプーチンも同じです。

 ゴルバチョフペレストロイカグラスノスチは、たしかに言論の自由であったり、複数政党制など「多元主義」を標榜しました。それ自身は大事なことですが、彼の政治手法は保守的幹部を排除して自身に権力を集中させ、その結果共産党支配を維持する、つまり「多元主義」を道具にした権威主義ではないか、とぶんぶんは感じます。

 実際にサハロフが人民委員会で熱弁をふるうと、ゴルバチョフは不機嫌になり「時間だから終わりなさい」と命じ、それでもサハロフが止めないのでマイクを切ってしまいました(NHKの番組)。またリトアニア独立運動も弾圧しました。

 国民が生きるのに精一杯で「主権者」としての自覚が足らないことにつけこんで、政府がメディアを抱き込んで都合のいい情報しか流さず、「政府のすることに口出しをするな」という雰囲気を作って政治を私物化することは、私たちの課題でもあります。

 権威主義は私たちの無知と無気力を望んでいます。