ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

センター・私大世界史直前チェック(戦後史その7パレスチナ)

 教科書が最後まで終わらない受験生のための戦後史、第7回は今なお出口の見えないパレスチナパレスティナ)問題です。最後なので長いです。

初学者向け 

まんが パレスチナ問題 (講談社現代新書)

まんが パレスチナ問題 (講談社現代新書)

 

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bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

目次

 

1 シオニズム運動の始まり

ローマ帝国期 パレスチナから追放、離散(ディアスポラ

ヨーロッパ中世 土地所有禁止 金融業、商業に従事

 (1    )…ユダヤ人居住地

ヨーロッパ近世 スペイン、ユダヤ人を国外へ追放

19世紀 反ユダヤ運動・セム主義

 仏で(2      )事件

 露でユダヤ人虐殺(ポグロム

1897年 シオニスト大会(バーゼル)…ジャーナリストのヘルツル指導

「シオンの丘」に帰る…(3     )運動

空欄

1 ゲットー
2 ドレフュス
3 シオニズム

補足

① ユダヤ人ってユダヤ教を信仰する人じゃないの?

 離散したユダヤ人(ユダヤ教を信じる人)のうち、イベリア半島南岸に移住した人たちはセファルディムと呼ばれます(東欧に移住した人はアシュケナージ)。

 カスティリャ王国はムスリムを駆逐して領土を拡大するレコンキスタのためにユダヤ人を利用しますが、 1492年にスペイン(カスティリャアラゴンが合併)がグラナダを陥落させると「ユダヤ人追放令」を発します。

 つまり王権が弱かった頃には国王はユダヤ人の力を借りましたが、主権国家体制が確立する過程で、政治的にはキリスト教会と結びついて他宗派や異教徒に不寛容になり、経済的には自国の商人を優遇します。

*ヘプヘプ ポグロムの様子(ドイツ、1819年)ウィキメディアコモンズパブリックドメインの画像

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 18世紀後半の啓蒙思想の広まりやフランス革命によって(カトリック教会に批判的)ユダヤ人の同権化の議論が始まります

 ドイツではドイツ帝国が成立すると全国で信仰の自由が保障されます。折からの急速な近代化の中でユダヤ人の中には新しい事業を展開して財を成すものも現れます。

 一方時代に取り残された社会層はユダヤ人を妬むものもいました。特に1870年代の大不況の折に、その影響を受けた中間層の間で、資本主義社会の矛盾をユダヤ人に帰そうとする主張が広まりました。

 こうして19世紀の国民国家体制の中で、ユダヤ人に対する排斥が再び強まります。今度は「人種」が差別の正当化に使われます。

 当時ユダヤ人の中でも世俗化が進み、キリスト教に改宗したりキリスト教徒と結婚するものも現れます。そうした中でユダヤ人は「信仰」でなく「人種」とする思想が生まれました。これが「反セム主義」(アンチ・セミティズム)です。

 ヒトラー時代のドイツの「ニュルンベルク法」がその最たる例で、アーリア人の純潔を守るためにユダヤ人との結婚を禁止し、祖父母4人中3人がユダヤ人なら純粋ユダヤ人としました。

 まだ19世紀後半のフランスで「ユダヤ陰謀論」が生まれます。「ユダヤ人は有史以来世界支配を画策していて、戦争や革命の裏には常にユダヤ人の影がある」です。

 こうした思想がユダヤ人に対する妬みや偏狭なナショナリズムと結びつき、世紀転換期のドレフュス事件や、ロシアのポグロムの背景になりました。

② シオニズム

 こうした人種主義に基づく反ユダヤ主義ユダヤ人の間で新しい政治運動である「シオニズム」を引き起こします。

 シオニズムとは世界中に離散したユダヤ人が自らをひとつの「民族」と自覚し、ユダヤ人にふさわしい国家を「シオンの丘」すなわちパレスチナに建設しようとする運動です。ハンガリー生まれのユダヤ人ヘルツルが呼びかけて、1897年にバーゼルで第1回国際シオニスト会議が開催されました。

 ユダヤ人はヨーロッパ各地に点在しますが、人数が多いのは東欧・ロシアの人々で、彼らは伝統的な生活様式や戒律を厳格に守る正統派が多数を占めました。

 1881年にアレクサンドル2世が暗殺されるとロシアでユダヤ人に対する大規模な暴力事件が発生し(ポグロム)、これ以後彼らは西欧や北米、パレスチナへ移住しました。

*発展 ユダヤ人と映画

 北米に移住したロシア系ユダヤ人は英語ができないので、「ニッケルオデオン」(映画館。入場料5セントがニッケル貨なので)の無声映画アメリカの生活を学びます。映画産業や映画監督にユダヤ系が多いのもこの影響です。 

 ニッケルオデオン。カナダ、トロントの「コミック座」(1910年頃)ウィキメディアコモンズ パブリックドメインの画像 

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参考

  

2 戦間期

英の秘密外交

 1915年 (4        )協定…アラブ人のトルコからの独立

 1916年 (5        )協定…英仏露によるトルコ領分割

 1917年 (6       )宣言…ロスチャイルド家から戦費借用

     パレスチナユダヤ人「ナショナルホーム」建設を約束

1920年 オスマン帝国、連合国と(7      )条約

     →パレスチナはイギリスの委任統治

1930年代 ナチ党のユダヤ人迫害

     →物理学者[8     ]、文学者[9      ]の亡命

    「絶滅」政策(ホロコースト)→(10      )収容所

戦中~戦後 パレスチナユダヤ人が大量入植、現地ムスリムと対立

      →英、事態を収拾できず

空欄

4 フセイン=マクマホン
5 サイクス=ピコ
6 バルフォア
7 セーヴル
8 アインシュタイン
9 トーマス=マン
10 アウシュヴィッツ

補足

① イギリスの三枚舌外交

 Eテレ『高校世界史』(2008年度編)で聞き手の寺田ちひろ♡が「またイギリスですかぁ?!」を炸裂させるところです。

 映画『アラビアのロレンス』のモデル、軍人のトーマス・エドワード・ロレンスは、ハーシム家フサインの三男ファイサルとともにドイツと同盟するオスマン帝国を揺さぶるためにゲリラ戦を仕掛けます。

  イギリスはこのフサインと協定を結ぶ一方でフランスとこの地域を分割する約束をします。さらにユダヤ人にも「ナショナルホーム」(国家じゃない)建設を約束します。

 結局フサインは大戦後にヒジャーズ王国を建てますが、ダマスクスはフランスに占領され、さらにワッハーブ王国の再興を目指すイブン=サウードに敗北します。サウードはサウジアラビアを建国し、ファイサルはイギリスのお詫びで?イラクの国王に就任します。

フサイン・マクマホン書簡(抜粋)

[出典]『現代国際関係 基礎資料』第1巻、鹿島国際平和研究所、pp815-816。

メルシーナとアレクサンドレッタの二つの地区と、ダマスカス、ホムス、ハマ、アレッポの地区の西に位置するシリアの一部は、純粋にアラブ人であるとは言えず、要求される制限から除外されるべきである。
上記の修正により、アラブ首長国との既存の条約を損なうことなく、我々はこれらの制限を受け入れる。
英国が同盟国であるフランスの利益を損なうことなく自由に行動できる国境内にある地域について、私は英国政府の名において以下の保証を与え、以下の保証を行い、以下のことを行う権限を与えられている。あなたの手紙に対する次のような返事です。
1. 上記の修正を条件として、英国は、メッカ保安官が要求する範囲内で、すべての地域におけるアラブ人の独立を承認し、支持する用意がある。
2. 英国は、あらゆる外部からの侵略に対して聖地を保証し、その不可侵性を認識する。
3. 状況が認められれば、英国はアラブ人に助言を与え、これらの様々な地域で最も適切と思われる政府形態を確立するのを支援するだろう。
4. 他方、アラブ諸国はイギリスのみに助言と指導を求めることを決定しており、健全な政権形態の形成に必要とされる可能性のあるヨーロッパの顧問や役人はイギリス人であることが理解されている。
5. バグダッドとバスラのビラエットに関して、アラブ人は、英国の確立された立場と利益のために、これらの領土を外国の侵略から守り、地元住民の福祉を増進し、安全を確保するために特別な行政上の取決めが必要であることを認識する。

サイクス・ピコ協定。今のシリア(フランスの委任統治領)、イラク、ヨルダン、パレスチナ(イギリスの委任統治領)の原型です。レバノンはシリアから分離し1944年に独立しました。ウィキメディアコモンズ Ian Pitchfordさんより。

File:Sykes-Picot-1916.gif - Wikimedia Commons

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バルフォア宣言(抜粋)

[出典]『現代国際関係 基礎資料』第1巻、鹿島国際平和研究所、pp821。

親愛なるロスチャイルド卿、
私は、陛下の政府を代表して、内閣に提出され、承認されたユダヤシオニストの願望に共感を示す以下の宣言を皆さんにお伝えできることを大変うれしく思います。
陛下政府は、パレスチナユダヤ人の民族の故郷を設立することに好意的であり、この目的の達成を促進するために最善の努力を払うつもりですが、市民的および宗教的権利を損なう可能性のあるいかなる行為も行われないことが明確に理解されていいます。

3 中東戦争

①    第1次中東戦争パレスチナ戦争)1948年

契機 1947年 国連特別総会 (11         )案

   アラブとユダヤの国家分割 イェルサレムは国連管理

   アラブ連盟は拒否(エジプト・シリア・ヨルダン・レバノンイラク

   1948年 (12       )建国→米英の承認→アラブ連盟が開戦

結果 イスラエル勝利、領土を拡大 パレスチナ難民発生(100万人)

   エジプト:ガザ地区管理 ヨルダン;ヨルダン川西岸併合

 

② 第2次中東戦争スエズ動乱1956年

契機 [13       ]大統領のスエズ運河国有化宣言

結果 イスラエル・英・仏、シナイ半島に侵入

   米ソの警告と国際的非難で撤兵

影響 ナセルの威信上昇、シリアと合併

   1964年 PLO(14             )結成

 

③ 第3次中東戦争(六日間戦争)1967年

契機 エジプトのアカバ湾封鎖に対してイスラエルが奇襲

結果 イスラエルが(15   )半島、ヨルダン川西岸、(16   )地区、

   ゴラン高原を占領 新たにパレスチナ難民発生(100万人)

影響 ナセルの権威失墜 1968年 アラブ石油輸出機構(OAPEC)結成

 

④  第4次中東戦争(十月戦争)1973年

契機 国境線が固定化する危険

   →エジプト[17    ]大統領・シリアの先制攻撃

結果 OAPECの石油戦略→第一次(18    )危機

影響 1979年 エジプト=イスラエル平和条約

    カーターの仲介…キャンプ=デーヴィッド合意(78)

    エジプト:サダト イスラエル:ベギン

     →1982年 イスラエルシナイ半島をエジプトに返還

空欄

11 パレスチナ分割
12 イスラエル
13 ナセル
14 パレスティナ解放機構
15 シナイ
16 ガザ
17 サダト
18 石油

補足

① 後から来たけど昔いたから半分こにしましょう?

 戦後さらに大量のユダヤ人がパレスチナを目指します(旧版『映像の世紀第10集』)。お手上げのイギリスは解決を国連に丸投げします。寺田ちひろ♡は「手に負えなくなって国連に頼むなんて責任放棄だと思います」と怒り心頭です。

 ユダヤ人に対する同情を背景に、国連は1947年にアラブ人国家はパレスチナの約43%、ユダヤ人国家は約56%という提案をします。人口はアラブ人約120万人に対してユダヤ人約60万人です。

 ユダヤ人は1948年、イギリスの委任統治が終わると同時にイスラエル建国を宣言(アメリカは即承認)、アラブ連盟が攻撃を仕掛け、第一次中東戦争が勃発します。

 勝利したイスラエルパレスチナの約77%を占領します。避難した住民はヨルダン、レバノン、シリアの国境沿いで難民生活を強いられます。その中で彼らは「パレスチナ人」という自覚を持ち始めます。

パレスチナ分割案。農業に適しているところがユダヤ人に分割されています。ウィキメディアコモンズパブリックドメインの画像 再編集はZero0000さん

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File:UN Palestine Partition Versions 1947.jpg - Wikimedia Commons

第三次中東戦争イスラエル占領地。クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 2.5 : User:Ling.Nut derivative work: Supreme Deliciousness

File:Six Day War Territories 2.png - Wikimedia Commons

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 イスラエルの建国宣言の後シオニスト民兵パレスチナの村々が地図上から消され、1947年から1949年までに15,000人以上が虐殺され、80万人以上がパレスチナ難民となり、土地に残った人のそ1/4が国内難民となりました。

 このことを「ナクバ」(大惨事)と呼びます。

www.ywca.or.jp

 第一次石油危機は1973年にOPEC原油価格を引きあげ、翌日にOAPECがアメリカなどイスラエル諸国に対する石油輸出の禁止を宣言したことに端を発します。日本では狂乱物価にマイナス成長と、省資源・省エネに舵を切るきっかけとなります。

 第4次中東戦争でてこずったサダトに対してイスラエルは「イスラエルを承認すればシナイ半島は返還する」という作戦を取ります。この方法は某国も真似しています。


4 中東戦争

1987年以降 パレスチナの(19      )(民衆蜂起)激しくなる

1993年 (20         )協定(オスロ合意

 クリントンの仲介 イスラエル:ラビン PLO:[21     ]

 相互承認、イスラエルガザ地区ヨルダン川西岸から順次撤退

 パレスチナ人の自由選挙による自治承認

1995年 ラビン暗殺

    パレスチナ過激派の自爆攻撃×イスラエル軍空爆

    パレスチナ自治区の境界に「分離壁

2005年 停戦宣言(イスラエルシャロン パレスチナアッバス

    →イスラエルガザ地区から撤退開始

2006年 ガザの選挙でハマス勝利

    →2007 ファタハをガザから追放 ヨルダン川西岸と分裂

2008年 イスラエル、ガザに侵攻

2012年 パレスチナ、国連の「オブザーバー国家」に昇格

空欄

19 インティファーダ
20 パレスティナ暫定自治
21 アラファト

補足

① 終わりが見えない戦い

 パレスチナ側の投石(インティファーダ)・ロケット弾・自爆テロに対してイスラエル軍空爆や侵攻、という報復の連鎖が続いています(戦力が不公平な気が)。

 和平は長続きせず(サダトとラビンは暗殺)、平和になったら困る人でもいるのでしょうか。確かに敵愾心を煽れば自分の地位を強固にすることができます。一方和平の努力は相手国と妥協点を探り自国民にも丁寧な説明と困難が伴います。

*個人の意見ですが、暴力の連鎖をやめるには力の強い方から歩み寄る方が上手くいくのでは?

 アメリカ合衆国ユダヤロビイストが大統領選の鍵を握っているからかイスラエルびいきに見えます。その辺を見越してか、2008年末のイスラエル軍のガザ侵攻は、大統領がブッシュ子から多様性のオバマに変わる前に行なわれました。

 ガザ地区種子島ほどの面積に150万人が住んでいますから、空爆や地上戦になれば一般市民は逃げようがなく、この戦争でパレスチナ側では民間人を含む1,300人以上が死亡、死傷者の1/3は子どもでした。

*発展 分離壁

 ヨルダン川西岸の分離壁パレスチナ過激派からのロケット弾を防ぐために建設されましたが、1949年の停戦ラインを超えてイスラエル人の入植地とつながり、パレスチナ自治区を飛び地状態にしています。その結果住民の生活が分断されています。

分離壁の位置 ウィキメディアコモンズパブリックドメインの画像

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クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植、Marc Venezia さんの写真

File:Bethlehem Wall Graffiti - Ich bin ein Berliner.jpg - Wikimedia Commons

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よいまとめ

ccp-ngo.jp

 

おわりに

 私が今の大学入試改革に反対なのは、「society5.0」など理想は後付けで、自分の功名心や利益を満たそうとする人々が制度をいじくり、コストを受験生と保護者に押し付けている、つまり「大人の事情が先」と感じるからです。

 最近トランプ大統領は「イェルサレムイスラエルの首都」(他国はそれを認めず大使館はテルアビブにある)と公言しています。選挙前の国内向け発言でしょうか。

アメリカのイランに対する強硬路線は、レバノンを本拠地とし、イスラエルに攻撃を仕掛けるシーア派武装集団「ヒズボラ」の背後にイランがいるからとも考えられます。

 今世界の中でも最も困難で多くの人々が苦しんでいる出来事は、アメリカ大統領にとっては解決する課題ではなくキャンペーンのひとつにすぎないのでしょうか。

 世界史の楽しみは知らないことを知り、それをつなぎ合わせ考えをまとめ、出来事の「見えていない部分」を露わにすることです。「見たくないもの」をたくさん見ることにもなりますが、主権者として必要なことだと考えます。

 私は「受験屋」です。受験生には将来「世界史を選択してよかった」と思ってもらえれば幸いです。まずは目の前の試験を突破してください。応援しています。

 

 最後まで読んでいただきありがとうございました。(了)