ぶんぶんの進路歳時記

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ノートルダム大聖堂から考えるフランス史

 2019年4月にパリのノートルダム大聖堂で火災が発生しました。お怪我をされた方の一刻も早い回復をお祈りし、教会の早期修復を望みます。

 ノートルダム大聖堂はパリのシテ島の中にあるゴシック様式の建築で、12世紀に工事が始まり、13世紀に南北の塔が並ぶ現在の形になりました。

卒業生からもらった写真(以下同じ)。燃えたのはこの裏。

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聖堂内部は被害甚大と聞きました。

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 今回はノートルダム大聖堂からフランスと教会の歴史について復習しましょう。

 

1 中世

 ノートルダム大聖堂が建てられた13世紀フランスの王家はカペー朝で、元はパリ周辺を支配するだけでした。

 まずフィリップ2世がジョン王と争って大陸領を拡大し、次いでルイ9世は第6、第7十字軍を指揮し、南フランスの「異端」カタリ派に対してアルビジョワ十字軍を主導するなど、ローマ・カトリック大義名分に支配領域を拡大します。

 14世紀には一転して、フィリップ4世教皇ボニファティウス8世を憤死させ(アナーニ事件)、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移します。

 下世話な言い方をすると、最初は「俺はローマ教会の連れや、んー?カトリック信仰してない?征伐!」とカトリックの権威を借りて支配領域を拡大し、いいところでローマ教会をやっつけて司教の任命権や教会への課税権を取り上げるイメージです。

 この後もフランス王とローマ教会のいざこざは続きますが、16世紀にヴァロア朝フランソワ1世がフランス国内の高位聖職者の指名権を認められるなど、国王がカトリック教会を支配下に置く「国家教会」(ガリカニズム)が定着します。

 

2    近世

 16世紀に宗教改革が起こります。カルヴァンはフランスの人ですが国王とカトリックが結びついている国内では改革は無理、ジュネーヴで改革を行います。

 しかしフランスでもカルヴァン派ユグノー)が増加します。国王シャルル9世と母后カトリーヌ・ド・メディシスは新教徒を利用して旧教徒を抑えようとたくらみ、その結果16世紀半ばからユグノー戦争が勃発します。

 凄惨な殺し合いの末ヴァロア朝は断絶、1589年にユグノーの指導者であったナヴァル公アンリがカトリックに改宗してアンリ4世としてブルボン朝を建てます。

 彼は1598年にナントの王令を発し、基本フランスはカトリックの国だがユグノーにも信仰の自由を認めるとして、戦争は終結します。

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サンバルテルミの虐殺。ユグノーの指導者アンリと王妹マルグリットの「手打ち」の結婚式の翌朝、カトリック教徒がユグノーを襲撃しました。アンリはその場でカトリックに改宗して難を逃れたとされています。

ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメインの写真(オリジナルの複製)。オリジナルはローザンヌ美術館蔵。権利関係はこちら。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Francois_Dubois_001.jpg

 しかしルイ14世は1685年にナントの王令を廃止し、ユグノーの多くが海外に逃亡します。 

 

3    フランス革命とナポレオン

 1789年にフランス革命が発生すると、司教や司祭は人民が選ぶことになり、聖職者は教皇ではなくフランス憲法に忠誠を誓わされることになります。また教会財産は没収され競売にかけられます。

 1792年に王政が廃止されると国王と「ずぶずぶ」の関係である教会への風当たりも強くなり、ジャコバン独裁のもとで非キリスト教化政策(革命暦、理性の祭典)が進められます。ノートルダム大聖堂も襲撃を受け、王の彫像が取り外されるなど荒廃します。

 この対立を解決したのがナポレオンです。彼は1801年、教皇ピウス7世と宗教協約(コンコルダート)を締結し、 フランスはカトリックを国民の大多数の宗教として認め、ローマ教会は司教の任命権をフランスの主権者に与えることを認めました。

 そしてナポレオンは1804年に国民投票で皇帝に就任し、ピウス7世をパリに招いてノートルダム大聖堂戴冠式を挙行しました。

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ダヴィドの画。ルーブル美術館

 最初ダヴィドはナポレオンが自分で王冠を被るシーンをスケッチしていましたが、あまりにも傲慢な印象なので、妻(仮面夫婦との噂)ジョゼフィーヌへ冠を渡すシーンに差し替えました(忖度?)。

 また教皇の両手がだらんとしていたのをナポレオンが「何もしないのに教皇を呼んだわけではない」と指摘し、指をさしてナポレオンに祝福を与えているように変更しました。

 ほかにも当日来られなかった実母が描かれるなど、この絵にはナポレオンの政治的意図が多分に盛り込まれています。

 

3 近代

 1831年ユーゴーが『ノートルダム・ド・パリ』を出版すると、ロマン主義ナショナリズムの高まりを背景に大聖堂を復興する機運が高まり、1845年から国家事業として修復が始まり、1864年に工事が完了します。

   しかしその一方で「国家が宗教に対して中立であるべき」という政教分離の主張が共和主義者や社会主義者の間で高まります。その後成立した第三共和政は「フランス革命の理念」(自由・平等・博愛)を国民統合の拠り所とします。

    19世紀末のドレフュス事件ユダヤ人に対する差別(反セム主義)が吹き荒れ、「フランス革命の精神」が揺らぎます。この時カトリック側が反共和派の立場を取ったことは、反教権主義を再燃させる原因になりました。

    これらを背景に1905年に政教分離が成立し、コンコルダートは破棄、信仰の自由の保障や公共団体の宗教予算の廃止が決まりました。

 

4 現代

    カトリックの公的場面への干渉を排除する目的で作られたこの法律は、信仰と生活が一体化しているムスリム移民の増加で新たな問題に直面しています。「公立学校に宗教的なシンボルを身に着けていかない」という法律も作られています。

参考 

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/eth03/L%27affare_du_Fouland_a_l%27ecole_public_en_France.pdf

http://www.law.ryukoku.ac.jp/~oshiro/paper/thesis2016_nishimura.pdf

 

4    まとめ

 統計によるとフランス人の約8割はカトリック教徒、しかし過去の政治と宗教の関係から、現在は公共の場に宗教を持ち込まない決まりです。

    普段は宗教に強い関心がない人でも、歴史ある教会が損害を受けた時には宗教心と国民意識が「ない交ぜ」になった感情がこみあげてきて当然でしょう。

 

    過去の文化遺産は宗教的・政治的な意味を超えて貴重な資料ですから、一刻も早く大聖堂が復活することをお祈りします。

   ただフランスでは連日デモが続いていて、大聖堂復旧の寄付にはすぐお金が集まるのに貧困対策はどうなのか、という議論もあるようです。  

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