ちょうど桜が見頃の時期って学校は年度当初の行事でパンパン、一息ついた頃には近所の桜はすっかり散っています。
連れ合いが「MIHO MUSEUMは4月中旬まで枝垂桜がきれい」と言うので、検索すると大徳寺の龍光院に伝わる国宝「曜変天目」 が展示中でした。
ここなら自宅から車で約1時間、曜変天目はそうお目にかかれる機会がないので、もう行くしかないです。
1 MIHO MUSEUM
場所はここ。詳細はHPで検索してください。
社会科の教員免許を持つ添乗員のツベルクリンさんが「観光地には公共交通機関で」と力説されています。それに倣うと最寄り駅は信楽高原鐵道、信楽駅です。
こちら
この電話ボックス前からバスで山道とゴルフ場を突っ切って約20分ですが、この駅に到着するのはお住まいの地域によってはかなり難儀です。関西方面からはJR石山駅でバスに乗ってください(約35分)。
美術館はエントランスからトンネルを抜けたところにあります。普段は電気自動車が運行されています。
トンネルから見るとこんな感じ。散り始め。
出口の先はつり橋です。
これならルパン一味が宝物を盗んでも、らせん状のシャッターでトンネルを閉鎖し、吊り橋を跳ね上げて袋のネズミです。(゚ー゚;)☆\(-_-;)妄想乙
館内は写真撮影禁止なので、ポスターでご勘弁ください。
2 曜変天目
中国南宋時代(1127~1276)に、福建省の建窯(けんよう)で焼かれた天目茶碗を建盞(けんさん)と呼びます。
曜変天目(耀変天目)は、大量に焼かれた建盞のうち、写真のように窯内で偶然に美しい結晶が生じたものを指します。
その結晶が不規則な斑紋を作ります。斑紋は見る角度によって光彩が変化します。唐物全盛の室町時代には、茶碗の中で最高峰に位置付けられました。
日本にのみ4点が現存、3つが国宝、ひとつが重要文化財(MIHO MUSEUM蔵)に指定されています。
会場で購入したクリアファイル。大徳寺龍光院(下手)、静嘉堂文庫美術館(中)、藤田美術館(上手)蔵。現在三碗が同時公開中です。
3 龍光院
京都紫野、大徳寺の塔頭である龍光院は、武将の黒田長政が父・黒田官兵衛の菩提を弔うため、江月宗玩和尚を開祖として慶長11(1606)年に建立されました。
江月和尚は大坂堺の豪商である天王寺屋の主、津田宗及の次男です。宗及は千利休・今井宗久とともに茶湯の「天下三宗匠」と称せられ、信長や秀吉の茶会にも顔を出しています。
彼は茶会の記録(『茶湯日記』。展示品にあり)を残していて、当時の武将たちの関係や事件などを知る資料になっています。
しかし慶長20(1615)年の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡、天王寺屋は収集物をひそかに龍光院に移しました。現存しているもののひとつが今回の曜変天目です。
他に茶の道具、秀吉や千利休の書状など貴重な品が展示されています。
4 まとめ
世界史の授業でルイ14世を取り上げますが、彼は自分の私生活をすべて公開、儀礼化し、自分との「距離の近さ」=親密性で貴族を序列化します。いわゆる「権力の視覚化」です。
貴族は宮廷の作法や遊びに通じていることが必要です。インフォーマルな空間でのマナーや国王との距離の近さが自らの権威の裏付けになるからです。
「絶対王政」と言っても国王が国民を直接支配できない時代、国王は貴族や都市などの中間団体を手なずけて王国を統一していました(二宮宏之さんの「社団国家」論)。
戦国時代の茶の湯も、この「有力者の序列化と権力の視覚化」に通じます。誰を呼ぶか、どこに座るか、誰にどの茶道具を譲るか、すべて政治的な意図があります。
茶道具も権威の源です。舶来でしかも希少性の高い、夜空の星のような斑紋を持つ曜変天目は、それを持つものの権威を高めたでしょう。
一方『大坂夏の陣図屏風』(大阪城天守閣所蔵)には大坂城が落城し、逃げようとする敗残兵や避難民と、略奪・誘拐・首狩りしようとする徳川方の兵士などが描かれています。いくら優雅なお茶会を開催しようが、武士は「暴力装置」に他なりません。
戦争後の略奪や性的暴行はある程度大目に見られていたようで(「後のお楽しみ」がないと雑兵は命をはらない)、これを目の当たりにすると隠せるものは隠すしかないです。
美しい陶磁器の裏に戦国武将や豪商たちのしたたかさを見たような気がします。
会期は5月19日(日)まで、お見逃しなく。海外からの旅行者、茶の湯関係の方で会場は時間によっては混雑します。