休校中の自学自習プリント、今回は産業革命についてです。更新が時系列じゃないのには理由がありますが、身バレするので内緒です。
前回 参考図書もこちら
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
目次
0 本日の問い
問い1 最初の産業革命がイギリスで起きたのはなぜ?
問い2 産業革命によって人々の生活は何がどう変った?
1 18世紀イギリス産業革命の背景
*資本・労働力・資源・市場・規制緩和
資本…[1 ]織物工業を中心に商工業が発達
17世紀の革命でギルドが解体…意欲的な起業家が出現
フランスと覇権競争で勝利→資本の蓄積、投資先を求める
労働力…「農業革命」:ノーフォーク農業(農業が家族で可能に)
第2次[2 ]…食糧増産目的。議員立法で合法的に
→農業資本家に貸し出し→資本主義的農業経営の発達
余剰労働力が農業労働者や工業労働者へ
大西洋の三角貿易でインド産の[3 ]織物の需要が増加
→この貿易の利益が輸入代替品生産に投資される
その他
豊富な石炭や鉄、自然科学と技術の進歩、特権団体の一掃
空欄
1 毛
2 囲い込み
3 綿
補足
① 奴隷貿易が産業革命の背景?
「産業革命」は1770年・80年代から19世紀半ばまでの時期に生じた一連の変化の総称ですが、「革命」といってもイギリスでは劇的に手工業から機械工業に移行したわけではなく、非常にゆっくりと進み、エネルギーの転換も機械の導入もごく一部の業種で進んでいた(手工業が広範に存在した)というのが最近の見解です。
もちろん産業革命期を通じてイギリスが世界をリードする経済力を獲得していったことは事実ですが、その発展は内的な理由だけでなく外的要因も大きく関わっています。
1713年のユトレヒト条約でイギリスがアシエント(スペイン国王がアフリカの黒人を黒人奴隷としてアメリカ大陸のスペイン領に送ることを認めた奴隷供給契約)を手に入れると、イギリスの黒人奴隷貿易が本格化します。
本国からアフリカに銃器、綿製品、雑多な工業製品を輸出し、そこで黒人奴隷を買い付けて北米大陸・西インド諸島に転売し、新大陸産の砂糖やたばこ、綿花を運ぶ大西洋三角貿易を展開します。
また17世紀からイギリス東インド会社がインドの綿織物を輸入しました。綿織物はその積み出し港の地名であるカリカットからキャラコといわれるようになります。
インド産綿織物は、安い上に軽く、美しい絵柄が描かれていて洗濯も容易、たちまちイギリスで大流行しました。利益を侵害された毛織物業者の働きかけで「キャラコ輸入禁止法」が出されるほどでした。
これだけ売れるのなら「国内で綿製品を生産しよう」とする動きが生じます。奴隷や綿布の貿易で繁栄したリヴァプールの商人たちが、その後背地に当たるマンチェスターの綿工業に利益を投下します(東京大学で複数回出題)。
インドの綿布。クリエイティブ・コモンズ CC0 1.0 全世界 パブリック・ドメイン提供
② 農業革命
ノーフォーク農法は18世紀にイングランド東部のノーフォーク州で普及した輪栽式農法で、コムギ→カブ→オオムギ→クローバーの四圃輪栽式農法を基本とします。カブやクローバーには地力を回復させる効果があるので、従来の三圃制と違って休耕地を置くことが不要、さらに取れた作物は家畜の餌になります。
また三圃制は農地を細かな地条に分割して(重量有輪犂はまっすぐしか進めない🐎)の共同作業(開放耕地制度)でしたが、新しい農法なら家族経営も可能です。
ただしこの農法には土壌改良など資金が必要です。有力な農民は農地を囲い込んで(第二次囲い込み)新農法を営む一方、共同作業に頼っていた農民は没落します。また議会も議会立法によって囲い込みを推進しました。
その結果土地は大規模農場となり、土地の所有と経営は切り離され、近代的土地所有者である地主、経営者である資本家的大借地農(農業資本家)、農業労働者という三分割制が展開します。そして余剰労働力の一部が都市労働者になります。
③ グローバルヒストリーと産業革命
世界史の教科書では17~18世紀に清朝、ムガル帝国、オスマン帝国などアジアがすごい勢いで発展する様子が描かれ、その後ヨーロッパで主権国家体制が形成され産業革命と国民国家を完成させて19世紀にアジアを侵略するみたいなストーリー展開です。
「どこでこの『逆転』が起きたのか」が最近の歴史学の関心事で、中でも有名なのがポメランツの『大分岐』です。
教科書はどうしても「目的論的」、つまり経済発展が正しいゴールでそこへ向かう道筋を記述する傾向にありますが、ポメランツは主に近世イギリスとインドの類似性に着目し、経済発展の進路は多様で、イギリスはインドに働かなかった要素から「偶然」工業化への道を進んだ(アジアから「分岐」した)とします。
イギリスと他国の産業革命や資本主義のあり方の違いは世界史Bでも扱いますが、『歴史総合』ではこうしたグローバルな視点も必要になってくるようです。
2 機械と動力の出現
織布:[4 ]…飛び杼の発明(1733年)→綿織物生産の増大
紡績:[5 ]…多軸紡績機(ジェニー紡績機)(1764年)
[6 ]…水力紡績機(1769年)
[7 ]…ミュール紡績機(1779年)
織布:[8 ]…力織機(1785年)
蒸気機関:[9 ]…蒸気力によるポンプの発明(1710年)
[10 ]…蒸気機関の改良(1769年)
→紡績機や織機の動力となる
機械工業・鉄工業・石炭業等の部門も飛躍的に発達
モーズレーの旋盤 ベッセマーの溶鉱炉
ダービー親子のコークス製鉄法
交通革命→18世紀後半,運河網の形成。19世紀,鉄道に転換
[11 ]…蒸気機関車の開発
1840年 (12 )~(13 )で営業運転
[14 ](アメリカ)…蒸気船の試作(1807)
空欄
4 ジョン=ケイ
5 ハーグリーヴズ
6 アークライト
7 クロンプトン
8 カートライト
9 ニューコメン
10 ワット
11 スティーヴンソン
12 マンチェスター
13 リヴァプール
14 フルトン
補足
① 織布と紡績
織布は、縦糸を張ったふたつの入れ物(交互に糸をかませてある)に横糸を通し、ふたつの入れ物をペダルを踏んで入れ替えてまた横糸を通す、の繰り返しで行ないます。
この時横糸を通すのが杼(シャトル)で、これをマニュアルで入れたり出したりするのではなく、紐で引っ張ると横糸が通る仕掛けが「飛び杼」です。
横糸を手で入れている動画
機織り班 : 高機で織り始めた! : 1年目後期ゼミ : 2019/11/01
飛び杼を使っている動画
紡績は綿花を糸にする作業です。綿花の糸は一本一本が細いので、複数の糸に「撚り」をかけて綿糸にします。
手作業の糸紡ぎ。ふたつの滑車の大きさの違いを利用して糸を撚ります。
ミュール紡績機は、ハーグリーヴズの複数の糸を同時に紡ぐ仕掛けと、アークライトの強く糸を引っ張る仕掛けを台車とローラーを使ってを合体させました。この仕組みは長く紡績機の基本システムとして利用されました。
グラスゴー大学のワットは特許が切れたニューコメンの蒸気ポンプ(石炭採掘現場の地下水をくみ上げる)を改良してピストン運動を円運動に変える仕掛けを考案しました。この発明のおかげで機械や機関車に蒸気機関を使うことが可能になりました。
産業革命初期には動力として水力が、輸送手段として運河が使われていましたが、蒸気機関が実用化されると工業の動力源に利用されて立地の制限がなくなりました。
また蒸気機関車の発明によって鉄道網が整備され、新たな投資先として注目されるようになります。長距離の移動が可能になって(交通革命)、通勤、時間つぶしのペーパーバック、「午後の紅茶」の習慣などが生まれます。
② 哀れな末路の発明家と名もなき技術者
ジョン=ケイは飛び杼が織工の負担軽減につながると思ったのですが、逆に織工のリストラにつながったので彼らの恨みを買いました。ICT化と同じです。
アークライトは工場を作って大儲けをしましたが、クロンプトンは特許を申請しなかったためこの発明によってほとんど得るところがなく、1812年にイギリスの国会から5000ポンドの一時金をもらいますが事業の失敗で溶かしてしまいました。(´・ω・`)
ただしこれら新発明で産業革命が一気に進んだのではなく、手工業者たちの無数の小さな技術革新が徐々に生産性を高め、特許が切れたら新たに応用されて進歩していきました。そうした積み重ねを許容する社会全体の知的基盤が存在したことがイギリスの産業革命を支えたといえます。
『プロジェクトX』の昭和の日本みたいですが、令和の日本の技術力が先細りなのはこれが原因かもしれません。
3 資本主義世界の形成
*国外、国内に中核・半周縁・周縁の同心円的構造。
外 イギリス…「世界の工場」としての地位獲得
産業革命波及
1830年代 (15 )・フランス
19世紀後半 ドイツ・アメリカ
国家の保護。重工業・化学工業
19世紀末 ロシア・日本
アジア・アフリカ・ラテンアメリカの従属化
→労働問題・社会問題の発生→社会主義思想の誕生
空欄
15 ベルギー
16 バーミンガム
補足
① 資本主義世界システムの形成
産業革命はインド綿製品を国産化、いわゆる「輸入代替品」を生産しようとする試みに端を発しています。つまりこの時点から産業革命は原料供給地、商品輸出先として海外の存在を前提にしています。イギリス一国で産業革命をなしえた訳ではありません。
イギリスに綿工業の原料を供給する地域ではイギリス向けの一次産品を生産する、いわゆる「モノカルチャー化」が進みます。多くの地域はイギリス経済に左右される従属経済として、イギリスを中核とするグローバルな分業体制に組み込まれます。
一方で数は限定されるものの、北米植民地やヨーロッパ地域のように自らも産業革命を達成し、イギリス商品の「輸入代替品」を生産することで分業体制の周縁から半周縁、中核へ移ろうとする動きも発生します。
そのためにはイギリスの技術は頂戴しつつ、その商品をなるべく買わないようにして自国の産業を育成する必要があります。それを実行するためには「経済のことをちゃんとわかっている強い政府」が必要で、国王とお友だちの貴族が既得権益にどっぷりつかっている体制(既視感満載)では無理です。
また本家イギリスでは徐々に技術革新が進みますが、他国は成功したパッケージをいただくので工業化が劇的に進み、同時に国家のあり方も劇的に変わります。
つまりイギリスにとっては「ゆっくり」でも周辺国にとっては「革命」、ホブズボームが産業革命と市民革命を「二重の革命」というのはこういう文脈ですが、体制改革なしで「上から」産業革命を進める地域も存在します。
② 格差社会
海外との支配・従属関係と同じようなことはイギリス国内でも発生します。まず地域的には、アイルランドは食料品と安価な労働力の供給地となります。スコットランドは工業化が進む地域もありますが高地地方は労働力の供給地、ウェールズは鉱物関連産業が発達する一方農業は衰退します。こうして地域間格差が広がります。
より深刻なのは労働者で、生活や労働環境の悪化、伝染病の流行(コレラは猖獗を極めます)などの都市問題や、低賃金・長時間労働、女性や子どもの酷使など労働問題が発生します。
国民の健康は国家の生産力に関わる問題になり、19世紀から国家は公衆衛生などの整備や児童労働の制限などで国民の生活に関わり始めます。
よく授業で引用される「児童労働の実態調査を行う委員会」の報告書の中の「サミュエル=クールスンの証言」
http://www3.kct.ne.jp/~atonoyota/kindai/67-sangyou5.html
20世紀初頭のアメリカ合衆国の紡績工場。子どもは紡績機の合間に入って掃除や切れた糸を直したりしたそうです。アメリカ議会図書館のコレクション収蔵品。
機械の導入で熟練職人が不要になって、成人男子より賃金が低い子どもや女性が工場で働くようになります。それで「産業革命=児童や女性の虐待」みたいなイメージがあるのですが、実際には子どもや妻はこれまで家庭内で厳しい労働をしていたので、それが表面化した(ただし工場での労働環境は劣悪)とも言えます。
また女性は生産された布地を服にする仕事(お針子)や「家内奉公人」など産業革命を下支えする労働にも従事していました。
*発展:ラダイト運動。「手工業の職人が機械に仕事を奪われて機械を破壊した」っていうとすごく後ろ向きな感じですが、大学の授業でE.P.トムスンの論文を読んだときに、機械織りの靴下が粗悪でブランドが壊されることを危惧した職人が工場を襲った(写真にあるように動力部分を外した)、つまり職人の正義感からの事件ではないか、って書いてあった記憶があります(要出典)。
まとめ
産業革命によって今まで手に入らなかったものが手に入り、行けなかったところに行けるようになります。また工場での労働には「読み書き」が必要なので、労働者の識字率が上がり、それが後の労働者の権利獲得運動につながります。また最初のうちは「雀の涙」ですが、「社会保障や公衆衛生は国の仕事」という意識が芽生えます。
一方で産業革命以前の職人たちは週末には酒を飲んで月曜日は出勤しない(聖月曜日)など、好きな時間に好きなように働いていました。それが機械の導入になって労働者の時間が管理され、給料も出来高ではなく時間給になります。つまりエンデの『モモ』のように時間に管理されるようになります。
まあ私も締切が迫らないとやる気がでないです。(´・ω・`)
現代人必読
聖月曜日について
また産業革命は仕事場と家庭、労働と余暇、言い換えると労働時間と生活時間を明確に分離します。「家族」のあり方にも変化が生じ、男性が主に家計を支え、女性は家庭中心(労働で家計を補助)という関係になります。
*あれ、部活指導が生活のほぼすべてで、休日も毎日練習と試合にでかけて、有力選手を家で下宿させて連れ合いが生活の世話をするBDK教員は前近代的な労働形態?
つまり、産業革命は機械と動力によって生産様式を(一気ではないものの)大きく変化させましたが、それ以上に社会のあり方そのものも変えた、失ったものも多ければ得たものも多い、後戻りもできないということです。
最近「人新世」って言葉が流行してどこからかがそう呼ぶかが議論になっていますが、産業革命は人類の「分岐点」のひとつであることには間違いがないです。