2月27日(木)夕方に首相が唐突に3月2日からの休校を要請し、多くの教育委員会が脊髄反射的に応じたため、高校によっては学年末考査は中止、2月28日(金)に置き勉を大量に抱えて帰宅した生徒も多いと聞きます。
休校が新型コロナウイルス拡大防止に効果があったかどうかは不明ですが、感染者は増加、高校も地域によっては5月の連休明けまで休校のところもあります。
三月は「消化ゲーム」みたいなものでしたが、新学期から授業がないのは深刻です。初めて習う科目を「プリントで自習」???(´・ω・`)
私の勤務校も当分の間休校、動画投稿サイトに上げると身バレするので(笑)、今回からその期間に行うはずの範囲のプリントをブログ上で解説します。
自校の生徒向けですが、他校生、一般の方が見ても楽しめるつくりを心がけます。
主要参考図書:
教科書
東京書籍『世界史B』 帝国書院『新詳世界史B』
山川出版社『詳説世界史B』『新世界史B』
一般書
ミネルヴァ書房『大学で学ぶ西洋[近現代]』『新しく学ぶ西洋の歴史』
山川出版社『詳説世界史研究』『西洋世界の歴史』『世界近現代全史』
1 イギリス革命
問い…「17世紀の危機」をどう乗り越える?
→国内産業保護と海外進出→集権的国家体制確立が必要
① ピューリタン革命…国王のお友だちと割を食っている側による内戦
1603年 テューダー朝断絶 (1 )朝
スコットランド王ジェームズ6世が[2 ]として即位
王権神授説の主張、新税の取り立て,大商人に独占権を付与
国教会の擁護…不満な (3 )の一派は次第に北米へ
[4 ]の即位→専制政治を強化
1628年 (5 )可決→国王、翌年議会を解散、無議会政治
1639年 (6 )の反乱→戦費調達ため議会を招集(1640)
短期議会→議会の課税拒否と悪政批判
長期議会→再度の国王批判
1642年 王党派と議会派の内戦勃発(ピューリタン革命)
最初、王党派が優勢
議会派…(7 )派の[8 ]、鉄騎隊を編制
新型軍を編成して1945年 ネーズビーの戦いで勝利
議会派内部の対立→第二次内戦
→独立派、水平派と結んで穏健な(9 )派を追放
1649年 チャールズ1世の処刑 共和政(コモンウェルス)樹立
クロムウェルの政治
(10 )派(参政権の平等を主張)の弾圧
(11 )を征服→大規模な土地没収、植民地化
スコットランド軍にも勝利
1651年 (12 )法の制定
イギリスとの貿易はイギリスまたは相手国の船舶に限定
オランダに打撃→や第一次(13 )(英蘭)戦争(1652~54)
1653年 終身の(14 )に就任
補足
高校世界史的にはテューダー~ステュアート期はイングランド「絶対王政」という位置づけですが、国王は法に縛られずに行動できたわけではなく、常設の常備軍や官僚制はなく、地方行政はジェントリの協力を受けていました(治安判事)。
ジェントリが台頭する一方で王領地は減少(ヘンリ8世の宗教改革で没収した教会財産はほぼ売却した)、ステュアート朝の財政は悪化します。
王権神授説を奉じるジェームズ1世ですが、新税には議会の承認がいるので、彼らとの衝突を避けるため議会の招集はできるだけ回避します。あれ、予算委員会を開くと野党からあれとこれを(以下略)。
チャールズ1世も権利の請願はしぶしぶ認めるものの、その後は議会開催を回避し、独占特許権の売却や関税の強化で財源を賄おうとします。
『水戸黄門』で「材木の独占販売権は是非当方に。これはそのお礼で」「〇〇屋、お主も悪よの~」「お代官様こそ~」というのがありましたが、それを大っぴらにやっているということです。(´・ω・`)
いらすとやさんには何でもあります。
しかしカルヴァン派(プレスビテリアン)のスコットランドに国教会システム(国王が主教を任命)を持ち込もうとしたので現地の貴族や聖職者が反発、その戦費捻出のためにチャールズ1世はやむなく議会を開きます。
議会は国王批判の場となり、お友だち(ストラフォード伯爵とロード大主教が2大側近)の排除や改革的な立法が行われます。その間アイルランドで反乱が発生、11月には議会の大諫奏(大抗議文)が可決され、1642年には国王と議会の対立は内戦にエスカレートします。
内戦の勢力分布図。ウィキメディアコモンズより。
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これを見るとジェントリの強い東南部が議会派、北部とウェールズが王党派が勢力を持っていますが、最近の研究では地域ごとに地縁や利害関係が複雑に絡み合っていて、単純に地域・階級・宗教で分けることは困難だそうです。
そうしたことから「ピューリタン革命」より「内戦」の方が適当なのですが、ピューリタン指導部が議会派の兵士にポケット版聖書を持たせ、占領地での略奪や暴行を禁じるなど、信仰が議会派軍の規律維持の役割を果たしています。
ネーズビーの戦い。ウィキメディアコモンズ パブリックドメインの画像
さて議会派は王党派を破ったものの国王の処遇を巡って対立、クロムウェルらが議会の多数を占める穏健派を追い出し(ランプ議会)、国王を処刑します。
クロムウェルはスコットランド(息子チャールズを擁立して抵抗)を破り、国王支持派の多かったアイルランドを征服します。市民の多くが虐殺され、土地は没収されて入植者に分配されました。アイルランドの苦難の始まりです。
17世紀前半にはオランダが商業の覇権を握っていて、イングランドは17世紀前半に東・東南アジアでオランダとの競争に負けていました(1623年 アンボイナ事件)。
そこでクロムウェルは1651年には航海法制定してオランダ船舶を閉め出し、オランダとの戦争もおこします。英蘭戦争は王政復古後も繰り返され、オランダの勢力を削ぐことに成功します。
つまりチャールズ1世のお友だちえこひいき政治が崩壊して、今度はその時に割を食っていた人たちの利益を優先するようになったと言えます。この時期様々な特権が廃止されたことはのちのイギリス社会に大きな影響を与えます。
しかし兵士たちは聖書を読みながら「キリスト教的な平等な世界を実現するんだ!」と思って戦っていたはずです。また水平派は社会的平等を求めて立ち上がりますが、クロムウェルによって弾圧されます。
つまり共和国になってもお友だち優遇で民衆にはいいことがない、娯楽の規制だけはピューリタニズム、これでは不満がたまって当然です。
② 名誉革命…「王は君臨すれども統治せず」議会の権限強化
1660年 王政復古 [15 ]の即位…カトリックを擁護 議会と対立
1673年(16 )法…公職を国教徒に限定
1679年(17 )法…不当な逮捕を禁じる
王弟がカトリック→(18 )党(国王重視)
(19 )党(議会重視)の形成
1688年 議会,王の長女メアリと夫オランダ総督[21 ]を招請
1689年 (22 )を受諾→(23 )として成文化
ウィリアム3世とメアリ2世の即位…名誉革命
アン女王:1707年 スコットランドを併合。大ブリテン王国の成立
1714年 (24 )朝 ハノーヴァー選帝侯[25 ]が即位
[26 ]首相:財政制度の整備 責任内閣制が慣習になる
財政制度の整備
1694年 イングランド銀行
政府発行の国債を引き受け、金融市場で販売
徴税で元利を保証…オランダの資金がイギリスに流入
→戦争遂行能力が高まり、フランスとの植民地戦争で勝利
議会主権の実態
議会の多数党が内閣を作る政党政治が定着
参政権はほぼジェントリら土地所有者に限定
補足
1658年にクロムウェルが亡くなると(インフルエンザかマラリア)、 チャールズ2世が亡命先のフランスから帰国し、革命中の土地所有権の変更や信仰の自由の補償などを約束し(ブレダ宣言)、国王に即位します。
チャールズ2世は議会との直接対決を避け国教会を尊重しますが、裏ではルイ14世と通じ(ドーバーの密約)、じわじわとカトリックの復活を企みます。
1762年にチャールズ2世が「信仰自由宣言」を出してカトリックを公認しようとすると、議会は翌年審査法を制定して、国教会の信者以外(カトリックとピューリタンなど非国教徒のプロテスタント)は公職に就けないとし、国王に仕えるカトリック貴族を追放します。
これに対して王弟のジェームズ、つまり時期国王がカトリックであることを公言します。その即位をめぐって議会の中で賛成・反対が分かれ、前者がトーリ、後者がホイッグになります。
さてジェームズ2世が即位すると、カトリック教徒を官吏に採用したり国教会をカトリック化しようとします。まあそれでもジェームズが亡くなれば娘のメアリとアンはプロテスタントだからちょっとの辛抱と議会は思っていたのですが、1688年に男子が誕生、さっそくカトリックの洗礼を受けさせます。
このままでは「生まれながらのカトリック教徒」が国王になります。そこでトーリとホイッグが手を結び、メアリと夫であるオランダ総督ウィレムに出兵を頼みます。誰も抵抗しないのでジェームズ2世は悲しく亡命します。≡≡≡≡≡ヾ(;゚д゚)/ニゲロ~!!
権利の章典 抜粋
1 王の権限によって、議会の同意なく、法を停止できるとする主張する権力は、違法である。
4 国王大権と称して、議会の承認なく、王の使用のために税金を課することは、違法である。
なんか変な文章なのは、権利の章典はジェームズ2世の悪行12項目がベースになっているからです。
こうして議会主権にもとづく立憲王政が確立し、ジョージ1世は英語が話せなかったため「王は君臨すれども統治せず」という体制がイギリスの基本になりますが、選挙権はジェントリ層に限定され、賄賂も横行します。
議会制民主主義が確立するのは19世紀から20世紀にかけてとなります。
ウィリアム・ホガース『選挙』ウィキメディアコモンズ パブリックドメインの画像。選挙は秘密投票ではなく、青色(トーリ)オレンジ色(ホイッグ)のところに言いに行く感じ。両者から賄賂もらってたら選挙の後は夜道が怖くて歩けない…。( o_<)r┬ ━━━━━━…=⊃ (;◇;) ウワアアア
まとめ
教科書の「イギリス革命」はピューリタン革命と名誉革命を一体として考え、「どうしてイギリスが他国に先駆けて議会の国になったか」、つまり「自由の発展史」です(いわゆる「ホイッグ史観」)。
高校生はまずその観点でストーリーを理解してください。ただしすでに触れた各地域での対立など、歴史は単純ではないことをお忘れなく。
一連の事件を一国史はなく世界中で騒乱が起きている「17世紀の危機」の中に位置づける方法もあります。革命は「生き残りをかけた体制改革」で、ギルドが廃止され営業の自由が保障され、議会の権限が強化されます。
その結果イギリスは18世紀にフランスと植民地で勝利し、それが産業革命と「パクス=ブリタニカ」に続くと考えることもできます。
また最近は「イギリス革命」について「イングランド中心の進歩史観じゃん!」という批判からアイルランド、スコットランドの視点から考える「三王国戦争」という呼称もあります。多様性尊重や自治・分離運動を踏まえた観点です。
確かにアイルランドの苦難はこの後続きますし、スコットランドは「ジャコバイト」(ジェームズ2世の血統を正統とみなして抵抗する勢力)の拠点でした。
私たちのあり方が変われば、歴史を見る目も変わる、ということです。
なお「敵対していたオランダの総督がなぜイングランド王?」という疑問はルイ14世のところで解説します。
空欄
1 ステュアート
2 ジェームズ1世
3 ピューリタン
4 チャールズ1世
5 権利の請願
6 スコットランド
7 独立
8 クロムウェル
9 長老
10 水平
11 アイルランド
12 航海
13 イギリス=オランダ
14 護国卿
15 チャールズ2世
16 審査
17 人身保護
18 トーリー
19 ホイッグ
20 ジェームズ2世
21 ウィレム
22 権利の宣言
23 権利の章典
24 ハノーヴァー
25 ジョージ1世
26 ウォルポール