休校中のひまつぶし復習プリント、第3回は中国経済史の本丸である宋、元です。
これは「ひつまぶし」じゃなくて鰻丼。「うなふじ」さんはぶんぶんお気に入りの店。いつ行っても長蛇の列。
前回
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6 宋
南宋 靖康の変で高宗(皇帝弟)が江南へ逃れる。都[M ]
①文治主義
藩鎮勢力,武断政治の抑圧
節度使の欠員は文官による補充→皇帝親衛軍(禁軍)の強化
科挙の整備→(56 )の導入
形勢戸…科挙に合格し(官戸)政界進出 (57 )層を形成
対外消極策…契丹には銀や絹、西夏(大夏)には銀・絹・茶を送る。
②王安石の(58 )…11世紀後半,神宗の起用
(59 )…中小農民対策 (60 )…中小商人保護
均輸…物価安定 (61 )…用役を免役銭に置き換える
保甲…農閑期の軍事訓練 の実施
→司馬光ら旧法党との対立
③農業生産の拡大
江蘇・浙江・福建地域(長江下流域)…宋の南渡後、急速に発展
中国経済の中心に。「(62 )熟すれば天下足る」
(64 )稲(日照りに強い)の導入→稲作の集約化
(65 )・(66 )・絹など特産品の集中生産
④商業の活発化
商業中心地として (67 )や(68 )など市場町が形成
同業組合の成立…(69 )(商人)・(70 )(手工業者)
貨幣:銅銭,金銀の地金
→唐代の手形(飛銭)が発展
商業の規制が緩む。都市内での店舗営業が盛んになる。
⑤海外交易の活発化
ムスリム商人…黄巣の乱で広州が破壊される。→マレー半島まで撤退
中国商人…宋代は朝貢貿易が不振。(73 )船で東南アジアへ
10世紀後半…チャンパー、三仏斉が朝貢 チョーラ朝が使節派遣
ムスリム商人が広州や泉州に居留地。中国人商人も東南アジアに居留地
市舶司:広州、[N ]…南シナ海貿易
明州(寧波)…日本・高麗との貿易。博多に中国商人が拠点
補足
北宋の首都は運河の結節点近くにあたる開封で、北方の契丹と西方の西夏を両睨みできる場所です。防衛に必要な物資を調達するため各地の税を開封まで運河で輸送していました。これによって都市経済が発達します。
唐の長安城では市場は東市と西市に指定され、夜間は外出禁止で条・坊とも門が締まります(だから『羅生門』の人たちはヤバイ)。
それに対して張択端の作と伝えられる『清明上河図』が描く開封では、行商や露店だけでなく常設店舗が立ち並びます。夜間の営業も可能だったようです(ただし軍人やその家族は城壁の中に住んで夜間外出禁止)。
宋は契丹と同盟を結び毎年銀や絹を贈っていましたが、契丹はその銀でさらに絹を買い付けたので、銀はまた中国に戻ってきてそれを王朝が税として吸い上げてまた契丹に送る、という「銀の循環」が生まれます。
つまり政府の財源はすっからかん、一方市中は繁栄していることになります。
そこで王安石は中小農民・商工業者に低利で貸し付けを行う一方、地主や大商人を飛ばして国家が農産物を買いつけたり都市の流通機構を統制しようと考えます。
この結果財政再建はある程度成功しますが、唐宋期に形成された中間団体の利益を奪って国家が経済に介入することには当然反対が起こります。
昔鑑賞しました。契丹は唐と同じく鮮卑の系譜とされ、初期の文物は唐の影響が色濃いです。大唐帝国の後継者を自認していたと思われます。
特別展『草原の王朝 契丹 - 美しき3人のプリンセス - 』紹介 その1
昨今の「グローバル・ヒストリー」の影響で、教科書で宋代の交易について記述が増えています。唐代は遣唐使に見られるように周辺国が中国の進んだ文化を吸収しに行きましたが、宋代はジャンク船に代表されるように中国商人が海外に乗り出します。
日本では宋が統一を回復すると九州を中心に民間の貿易が行われ、博多には中国商人の居留地もおかれて、多くの宋銭や陶磁器がもたらされます。平清盛は瀬戸内海を押さえ、福原を拠点に大和田泊を改修して日宋貿易で利益をあげます。
宋に何度も朝貢した「三仏斉」は唐代に朝貢した「シュリーヴィジャヤ」と同一ではなく、中国側の東南アジアの港市国家に対する総称(シュリーヴィジャヤはその中のひとつ)ではないかと言われています。
また南インドのチョーラ朝は宋に使いを送り、東南アジアに遠征しています。
ジャンク船 ウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像
7 元
(n)元:首都[O ](冬の都)と上都(夏の都)を移動
フビライ…1271年 国号を元。大元ウルス
各地にチンギス=ハンの子孫が支配するウルスが形成
大元皇帝を全体の「大ハーン」とし、緩やかに連合する
東南アジアへの出兵…通商の拡大
① 統治…見かけは中華王朝、中身はモンゴルの軍事支配
中央:従来の官僚機構や統治組織を継承
地方:各地を大地域に分け行中書省を置く(現在の省の起源)
支配層:長官は自前の軍団を持つ世襲のモンゴル貴族
支配層に加わったものは「モンゴル」と総称
モンゴルに仕えた人材(早くから服従・協力した順)
科挙:回数減少→士大夫層の不満
② ユーラシア循環経済
内陸部:駅伝制(75 )の施行 牌符(パスポート)
海域部:宋代からムスリム商人の活動→南宋の征服で海陸が一体化
運河の改修・新築…大都から大運河、渤海湾に繋がる水運路
海運(山東半島を経由)→大都から江南への南北航路が発展
[M ](キンザイ)・[N ](ザイトン)・広州の発展
通貨:銀が帝国内の基本通貨
紙幣:(76 )(銅銭の代替)塩引(塩の引換券 高額紙幣)
余った銅銭は日本などに流出
税収:流通や通商の要衝をおさえて課税→国家財政の中心
在来の社会や文化にはほとんど干渉しない
補足
「13世紀のユーラシアの一体化」は注目の部分で、最近では東京大学の2015年が記憶に新しいです(コバルト(染付の青)と博多(日元貿易)が使いづらかった)。
昔の教科書には「モンゴル人第一主義で漢人や南人は差別され、科挙も実施されなかった」みたいな書き方でしたが、それは漢族中華思想からの物言いです。
「モンゴル」は本来部族名ですが、国家名としても使われ、帝国の支配層に加われば出身に関わらず「モンゴル」として扱われ、実務能力に応じて任官されました。
内陸と海上のムスリム商人がモンゴルの征服によって統一され、ユーラシアを循環する商業ネットワークと銀の循環が成立します。大都から現在の天津まで運河が開削され、さらに山東半島の付け根をぶっちぎる運河も建設され (+_+) 大都が江南と直結します。
しかし元とウルス間の銀の循環は宋のそれより広範囲なため銀が不足します。一橋大学の入試問題で「商人が元に入ると銀を取り上げられる」という史料が出てきますが、そういう事情からでしょう。
なお高校世界史的には「交鈔の乱発で経済が混乱した」とあります。確かに13世紀末に交鈔が大量発行されてインフレーションが起きていますが、交鈔そのものは小額紙幣、乱発されたのは「臨時通貨」でフビライが発行した「中統鈔」は銀とリンク、高額取引では塩を担保とする塩引が利用されていました。
馬蹄銀 Creative Commons Attribution 3.0 Unported License. 作者:As6022014
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/9/98/Batei-gin-Sycee.jpg
14世紀の天災で大元ウルスが崩壊します。この危機の中で成立した明は当初銀の流出を防ぐために紙幣(宝鈔)を発行して銀の使用を禁じ、また元の「商業中心で政治は治安と徴税中心」から地主・商人・農民に対する厳しい統制政策に転換します。
明の宝鈔。原典『お金のひみつ』 学習研究社 1985年。ウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの写真
関西の大学では「モンゴル押し」の先生が活躍しています。
空欄
L 開封
M 臨安
N 泉州
O 大都
56 殿試
57 士大夫
58 新法
59 青苗
60 市易
61 募役
62 蘇湖
63 囲田
64 占城
65 陶磁器
66 茶
67 草市
68 鎮
69 行
70 作
71 交子
72 会子
73 ジャンク
74 色目
75 ジャムチ
76 交鈔
続く