ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

世界史の入試問題を解いてみる(2020 大阪大学)

 難関国立大学の世界史の問題を解説していきます。

 第4回は大阪大学です。「グローバルヒストリー」のパイオニアで、高大連携に熱心、新課程の「歴史総合」にもコミットしています。

www.kodairen.u-ryukyu.ac.jp

 今回は共通テスト(の試行調査)を意識した作りです。ベトナム史「ベタ打ち」なのであの先生の出題でしょう。

前回

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

 

問題

sokuho.yozemi.ac.jp

会員登録必要(無料)。

www.toshin-kakomon.com

 

凡例

無印:必答  〇:まあ書ける  △:合格には必要

▲:難しい ×:ドボン

 

大阪大学 2020年

設問:ホー・チ・ミンについての調べ学習

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フランス時代のグエン・アイ・クオック(ホー・チ・ミン)。ウィキメディアコモンズパブリックドメインの画像。出典 Bibliothèque nationale de France

ホー・チ・ミンって?

 ホー・チ・ミンは船の見習いコックとして1911年にベトナムからフランスに渡り、その後船員として世界を回ります。イギリスで学んだ後パリに戻り、パリ講和会議ベトナム人の権利を訴えます。

 彼はフランス共産党の創立に参加、ソヴィエト連邦に渡りコミンテルンに参加します。しかし彼にとって重要なのは共産社会の実現よりもベトナムの独立、1925年に広東でベトナム青年革命同志会を、1930年に香港でベトナム共産党(その後インドシナ共産党と改称)を設立します。

 コミンテルンは当初世界革命が目的でしたが、1935年の第7回大会で反ファシズム統一戦線に路線転換して民族問題を重視するようになります。

 日本が1941年にフランス領インドシナ南部に進駐すると、彼は帰国し「ベトナム独立同盟」(通称ベトミン)を組織して日本に対する武装闘争の準備に着手します。

 日本か降伏すると彼は各地に武装蜂起を呼びかけ、8月30日に日本の傀儡政権(ベトナム帝国)のバオダイ皇帝が退位、日本がポツダム宣言に署名した9月2日にベトナム民主共和国の樹立を宣言します。
 

問1 ホー・チ・ミンの年表の穴埋め

ア コミンテルン イ ジュネーヴ ウ 南ベトナム解放民族戦線 〇や

問2 その年表に追加した社会主義陣営の戦術変化の穴埋め

X 人民戦線 〇て  Y 日中戦争  Z 冷戦

問3 ホー・チ・ミンの遺書のうち、彼が最後まで純粋な社会主義者であり続けたと考える際の根拠になるもの。△

ア 「わたしがカール・マルクスレーニンおよびその他の先輩革命家に会いに行くようなことになったとき…」(筆者注:下線が根拠 以下同様)〇り

オ「わたしは、兄弟諸党、兄弟諸国が必ず団結を取り戻す…」 ▲り

補足 

問3 オの「兄弟」で社会主義ってのは(共産党では仲間を「〇〇同志」と呼ぶ)は50~60代にはピンときますが…。 

問4 ホー・チ・ミン社会主義陣営の提携戦略の枠に収まらない民族主義者であったのだと考える場合、資料からどのような根拠をあげることができるか。三つ以上の根拠を上げて説明する。通常の社会主義者ならしないはずの行動や発言に注意して。200字程度 ▲

社会主義人民民主主義を志向し王権・宗教・私有財産を否定するが、資料イでは臨時政府に阮朝皇帝を最高顧問に迎えるなど保守派に配慮している。資料ロには造物主による不可侵の権利と記されていて、自由主義キリスト教を肯定している。資料ロや遺言にはベトナム人民の財産で民族の自由と独立を守るとあり、私有財産を肯定しているように取れる。以上からホー・チ・ミンは多様な集団をベトナム人として統合しようと考えた民族主義者といえる。207字

補足

 B先輩の話で「社会主義者は必ずしもブルジョワ革命を否定しない」「ブルジョワ民主主義と民族解放運動との提携もありうる」とあるので、「国民党と連携した」は避けたい。

 「バオダイを顧問にした」は必須。解答例ではあとふたつを「造物主」と「財産」にしてみた。1946年の憲法では私有財産を否定していない。自信なし。(´・ω・`)
 

問5 18世紀末から19世紀半ばの中欧・東欧の各民族の動きについて説明。300字程度 △

教科書から抜き出す項目

・この時期の中欧・東欧にすでに存在した帝国、帝国形成に向かいつつあった国家

・それらの諸国に支配されていた国家や民族

ナポレオン戦争インパクト1815年および1848年の変化

 

1 バルカン半島抜きバージョン

18世紀末の中欧・東欧ではオーストリアがドイツ・ベーメンハンガリーを支配し、ロシアがポーランドの大半を支配していた。ナポレオンは両国を破り神聖ローマ帝国は解体、ポーランドはナポレオンの衛星国になった。この戦争で自由・平等・ナショナリズムが被支配地に伝わり、プロイセンでは改革が始まるなど民族意識が芽生えた。1815年のウィーン議定書では大国による勢力均衡が図られたが、文化を同じくするものがひとつの国を作って自由や平等を実現するというナショナリズムが勃興し、1848年にはドイツやハンガリーなどで革命が発生した。革命は失敗したが、プロイセンビスマルクが武力とナショナリズムでドイツの統合を進め、オーストリアハンガリー自治を認めた。312字

 

2 バルカン半島ありバージョン

18世紀末の中欧・東欧ではオーストリアがドイツ・ベーメンハンガリーを、ロシアがポーランドを、オスマン朝バルカン半島を支配していた。ナポレオンが大陸諸国を支配下に置いた過程で自由・平等・ナショナリズムなどが被支配地域に伝わり、民族意識が芽生えた。1815年のウィーン議定書では大国による勢力均衡が図られたが、文化を同じくするものがひとつの国を作って自由や平等を実現するというナショナリズムが勃興し、1848年には各地で革命が発生した。革命は失敗したが、プロイセンビスマルクが武力とナショナリズムでドイツの統合を進め、オーストリアハンガリー自治を認めた。バルカン半島でもパン=スラヴ主義の影響で国家形成が始まった。303字 

補足

 バルカン半島を「東欧」と呼ぶのは旧ソ連地域=東側という「思い込み」かも。ただし世界史的にはバルカン半島の偏狭な民族主義については記憶。

 フランス革命は自由・平等という政治理念も大事だが、ナショナリズム国民国家を生み出した点も理解したい。まとめると次のような感じ。

ナポレオン戦争で自由・平等を知る→自由を実現するために国家が必要

→文化を同じくする集団で国家を作る(ナショナリズム国民国家

→1848年に革命で一気に実現しようとするが失敗

→仏・伊・独はボナパルティズム(独裁者が外交で国民意識をくすぐりつつ内政で異なる階級の利害を調整する)で国家統合。バルカン半島はパン=スラヴ主義。

 

*発展:問題には「民族間の対立には触れなくていい」とありますが、実はこれが国民国家の欠陥です。

 ベーメン王国ではパラツキー自治獲得を掲げてプラハで帝国内外のスラヴ人を集めた「スラヴ民族会議」を開催します。

 しかしフランクフルト国民議会に参加してドイツ国家に加わろうとしていたベーメン内のドイツ人と対立、そこを付け込まれてオーストリアに鎮圧されます。

 ハンガリーではコシュート独立運動を展開、四月に新憲法が制定されてオーストリアと対等の立憲君主国(オーストリア皇帝がハンガリー王)となりました。

 これに対してハンガリーからの自治を求めて鎮圧されたクロアティア人が反発、オーストリアイエラチッチを利用して革命を弾圧します。

 多数派をもとに国民国家を作ると必ず「国民」から漏れる少数派が不当な扱いを受けます。日本にとって他人事ではありません。

 

問6 阮朝については歴史学界でも肯定的・否定的な見方があるが、どこでどう調べるとどんな結果が出るか複数の仮説のうち明らかに事実誤認を含むものはどれか。

エ 山岳地帯の少数民族社会を調べたら、ラオスカンボジアなどの強国の圧迫から阮朝が守ってくれなかった…」△

補足

 阮朝も「小中華」で清とは兄弟、「皇帝」の称号を用い(清に朝貢する時は「越南国王」)、カンボジアラオスは家臣という意識。

 

問7 近現代のリーダーまたは政権がよりどころにした過去の国家や宗教の攻防の歴史について。下のメモの中からひとつ 250字程度

過去の歴史や宗教の栄光を強調したりその復興を主張した近現代の政治運動の例

・ サウジアラビア建国やイラン革命イスラーム

・ ガンディーのインド独立運動ヒンドゥー教

・ イスラエル建国と古代ユダヤ人の宗教・国家

 

サウジアラビアイスラームの例

7世紀にムハンマドによって創始されたイスラームはアラブ人の征服活動で各地に広まった。その後内面の信仰を重視する神秘主義が生まれイスラームの拡大に貢献した。しかし18世紀のアラビア半島ムハンマド=ブン=アブドゥル=ワーハーブは神秘主義を宗教的逸脱と否定し、ムハンマド時代に立ち帰ることを主張した。これをサウード家が援助してワッハーブ運動となり、ワッハーブ王国が建国された。オスマン帝国ムハンマド=アリーを差し向け王国は壊滅したが、ワッハーブ運動の改革思想はアラビア半島だけでなく各地に影響を及ぼした。250字

 

・古代ユダヤ人の宗教・国家の例

ヘブライ人は紀元前11世紀ごろにイェルサレムを首都としてヘブライ王国を建て、ダヴィデ王とソロモン王の時に繁栄したが、ソロモン王の死後イスラエルとユダに分裂、前者はアッシリアに、後者は新バビロニアに滅ぼされ住民はバビロンに連行された。アケメネス朝がバビロン捕囚からヘブライ人を解放すると彼らは再びパレスティナに王国をたて、ヤハウェ一神教、律法主義、選民思想、救世主待望を特徴とするユダヤ教を成立させた。紀元前1世紀にローマの属州となり、帝政時代に反乱を起こすが失敗し、住民は国外退去となり各地に四散した。250字

 補足

 課題は「過去の国家や宗教の攻防の歴史について」。イブン=サウードやシオニズムは不要。イラン革命シーア派の誕生~サファヴィー朝について書く。ヒンドゥー教で書くのはやめた方がいい。(´・ω・`)

 

まとめ

 来年の共通テストの予行(難しめ)と理解して復習しましょう。

 高大連携歴史教育研究会は細かい人名よりも社会主義民族主義などの「概念用語」を重視しましょうと提言しています(それで一時物議を醸した)。

 ただ高校生が抽象的概念を理解するには具体的な人名・制度名・事件名は必要です。歴史総合は「毎回問いを立ててアクティブラーニングさせなさい」とのことですが、知識がないと問いが立てられません。どう授業を組み立てるか難しいところです。