ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

フィールドワーク 大津事件について考えるその1

 

 先日、県の社会科研究会の研修会で大津市歴史博物館に行き、大津事件と津田三蔵について学習しました。また滋賀県琵琶湖文化館(現在休館中)で滋賀県保有している大津事件の証拠や関係書類(記念品といいます)を特別に見せてもらいました(こういうときに公的な研究会はありがたいです。ブログへの写真の掲載の許可もいただきました。紙面を借りてお礼申し上げます)。

 

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大津事件で使用されたサーベル 刃先がこぼれています 古物として登録済(協力 琵琶湖文化館

 

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www.biwakobunkakan.jp

 

 

1 大津事件とは?

 

 大津事件とは1891(明治24)年、日本を訪れていたロシア皇太子ニコライ(後のニコライ二世)が大津で警備中の巡査津田三蔵に切りつけられた事件です。政治経済の教科書には、「政府は本来皇室にのみ適用される大逆罪で被告を死刑にするよう司法に圧力をかけたが、大審院長の児島惟謙は担当判事に法に基づいて判断するように励まし、司法の独立を守った」という感じの話が載っています。

 しかし、この件について調べている博物館館長の橋爪修さんによると、事態はもう少し複雑とのことでした。以下は講演でお聞きした内容、および平成23年度のミニ企画展「大津事件と津田三蔵」のテキストをまとめました

 

企画展案内|企画展示 平成23年度|大津市歴史博物館

 

2 津田三蔵とは?

 

 津田三蔵は藤堂藩(今の三重県)の御殿医の二男として1854年(安政元年)に江戸の上屋敷で生まれます。上野(現在の伊賀市。私の故郷です)に戻った後明治維新となり、軍に入隊して西南戦争に従軍します。戦場で左手に貫通銃創を負いますが、活躍が認められて勲七等を授与されます。軍隊を満期除隊になった後、三重県で巡査になりますがクビになり、滋賀県で巡査の職を得ます。

 津田三蔵の書簡を読むと彼の一面と犯行の動機が見えてきます。彼は文明開化に肯定的でしたが、西南戦争でショックを受けたようです。当時士族が現金収入を得る手っ取り早い方法は警察関係だったので、彼は除隊後に巡査となり、昼夜きつい仕事をこなしていました。

 

 ある日彼は「西郷隆盛西南戦争で逃げおおせて今はロシアで生きている」という新聞記事を見つけます。さらに新聞は、この話を聞いた明治天皇が従臣に「隆盛が帰ってきたら西南戦争で頑張った将校たちの勲章を返してもらわないといけないね」と微笑みながら(いわゆる(笑))仰せになったと報じていました。

    義経伝説の焼き直し、東スポもびっくりの飛ばし記事明治天皇のお言葉が事実なら当然ジョークでしょう)ですが、西南戦争の勲章が心の拠り所であった三蔵は真に受けます。

 そんな時にロシアの皇太子が日本を訪問することになり、三蔵は「西郷も一緒に帰ってくる、困った」と上野で妹の夫(三蔵の直接の子孫は現在いませんが、妹の嫁入り先は現存しています)にもらしたそうです。しかも皇太子は天皇に面会に来たと言いながら、先に長崎や鹿児島を観光していたので、ますます三蔵の疑念は広がります。

 

 

3 事件発生

 

 さてその時、1891年5月11日がやってきます。

 

    大津にやってきたニコライ皇太子のため出動した津田三蔵は、皇太子の通過にあわせて警備場所を転々と移動する段取りでした。

    最初の警備場所が三井寺の観音堂(琵琶湖を望む有名スポット)で、西南戦争の記念碑があります。警察調書によると、この時彼の中で仲間を失った西南戦争の記憶が甦りますが、皇太子が記念碑に敬意を払わなかったのでイラッとします(歓迎の花火も西南戦争の砲火を思い出させたと証言しています)。

    次第に怒りがふつふつとこみ上げてきて、午後1時30分、街中での警備の際に人力車で通りかかった皇太子に対してサーベルを抜いて頭部を切りつけました。皇太子は軽傷でしたが出血が激しく、近くの呉服屋で応急手当が行われました。三蔵は取り押さえられる際に人力車の車引きに落としたサーベルで背後から切られ、大けがをしています。

 

 事件後の「司法の独立」の話も、当時のやりとりを詳しく見ると違う側面が見えてきます(続く)。